属性は何を選択すればお嫁さんにしてくれますか?

ヴィルヘルミナ

第1話

 ふわりと珈琲の香りが漂ってきた。体が眠りから覚めていく。

「朝よ。そろそろ起きて支度をしないと遅れてしまうわ」

 どこか遠くに聞こえる声は、優しいけれど少し低いハスキーボイス。

「ん……あと5分……」

「お寝坊さんね。私も一緒に二度寝しようかしら」

 優しい声の主が、そっと掛け布を持ち上げた。珈琲の匂いと微かなシトラス系の香りが鼻をくすぐる。

 髪を撫でられると心地いい。また深い眠りに落ちてしまいそうだけど、起きなければ食事抜きで騎士の訓練時間になってしまう。

 眠気に抗う為に寝返りを打つけれど、体が重い。

「ベッドから落ちるわよ」

 くすりと耳元で笑われて、腰に腕が巻き付いた。

「ん……?」

 重いまぶたを開いた瞬間、私の眠気は一気に覚めた。ほとんど反射的に掛け布を腕で跳ね上げる。

 ありえない。私の意識は現実逃避を全力で試みるけど無駄だった。目の前には藍色のハイネックのドレスを着た、金髪碧眼の美形。

「……ヴィンセント王子? 何をしているんです?」

 まぎれもなく、この国の第3王子ヴィンセントだ。私の3つ年上の22歳。ご丁寧に薄い化粧を施した顔が近すぎる。長い髪はウィッグだろうか。

「ユリノを起こしにきたの」

 私の腰をさらに抱き寄せようとしながら、王子が微笑む。

 どうして女装? 何故、女装?

 ぐるぐると頭の中を疑問が回る。はっきり言って、私よりも美人だ。180センチはありそうな背丈は別として、首と手を隠せば、迫力美人で通るかもしれない。

「貴方が女装する意味がわかりません」

 私は王子をベッドから追い出して対峙する。片や藍色のきらびやかなドレス、私は寝間着替わりのキャミソールとドロワーズ姿だ。

「昨日、お嫁さんが欲しいって言ってたじゃない?」

 首を傾げる王子の少し乱れた金髪が、壮絶な色気を振りまいている。

「確かに言いました。でも、冗談に決まっているでしょう!」

 そういえば、騎士の訓練場で言った覚えがある。昨日は疲れていた。心底疲れていた。本当に疲れていた。騎士仲間に欲しいものを聞かれて、嫁が欲しいと答えた。

「そんな……私の心を弄んだのねっ!」

 王子が衝撃を受けた顔で、よろりとよろめく。そんな仕草も艶めいていて美しい。美形って、マジ怖い。自分に無いものを見せつけられている気がしてムカつく。

「あー、それは、すいませんでした」

 どうしてなのかわからないけれど、謝罪を要求されている気がするので、適当に謝罪する。王子だろうが何だろうが、もうどうでもいい。

「謝らないで! 謝罪替わりに、私をお嫁さんにしてちょうだい!」

 すかさず王子が私に抱き着いてきた。胸に詰め物をしているのか、弾力のある感触が妙にリアルでさらにムカつく。

「……出てけー!」

 ブチ切れた私は、王子を部屋から蹴り出した。


 閉めた扉を背にして、溜息を吐く。視線を室内に向けると、鏡に映る私が見える。長い黒髪に黒目。大きくて少し垂れた目は、勇者にフラれるまでは割と可愛いと思っていた。……起き抜けの顔はいろいろ酷い。

 私は暁原あかつきはら 結理乃ゆりの。19歳の日本人。この中世か近世かよくわからない西欧風の異世界、ヴァランデール王国に一年限定で召喚された。

 召喚理由は魔王を倒す為。王に選ばれた勇者と異世界の巫女とされた私、魔術師と神官。ありがちな組み合わせで、いきなり旅に送り出された。

 魔王が住む城は広大な黒い森のあちこちを移動していて、たどり着くまでに半年の期間を要した。その間の旅は、潔癖症ではない私でもトラウマになりそうなエピソード満載。私に浄化の術が付与されていなければ、絶対に途中で脱落していたと思う。

 旅は大変だったけれど、魔王を倒すのは簡単だった。勇者の剣と私の巫女の力の一撃で魔王は即死。あまりにもあっさりした結末に、魔王は死にたかったのではないかと内心疑っている。

 王宮へ戻ってきた私は、勇者と結婚してこの世界で暮らす覚悟をしていたのに、勇者は美人で優しい王女を選んで、さっさと婚約してしまった。

 出会った時から旅の間、勇者はずっと優しかったけれど、それは恋人に対するものではなく、異世界の巫女という立場に対するものだったと気が付いたのはその時だ。私一人だけが勇者の優しさを誤解して、舞い上がっていたのかと思うと恥ずかしい。

 男のような乱暴な女は可愛げがない。それが勇者の本音と聞いた時には、めまいがした。勇者の手を煩わせないように、自分なりに頑張った結果がその評価だ。悲鳴を上げて何もできない女の方が好みだったのかと絶望したのは、割と最近の話。

 フラれて独りになった私が元の世界に戻る〝帰還の儀〟までは日があった。何もすることがなく、召喚で付与された体力が有り余っている私は、第三騎士隊に入隊して、日々の訓練に参加している。


「あの王子、嫁にしろなんて、何のつもりなのかしら」

 口から零れた独り言は、この世界に来てからの癖だ。

 召喚された当初から、王子に声を掛けられることは多かったけれど、何が欲しいと聞かれても思いつかなかった。――あの頃は、私は勇者のことしか見ていなかった。

 王子は私が魔王討伐に出ている間、国内に出没する魔物退治に奔走していたと聞いている。本来は自分が魔王討伐に出たいと立候補したけれど、王が認めなかったらしい。

 テーブルの上には、トレイに乗せられた珈琲とトーストと目玉焼きとサラダ。美味しそうな見た目だけれど、この世界の料理は塩辛くて不味いものが多いから油断はできない。とりあえず無難そうな珈琲を口にする。

「……あ。美味しい」

 この国には珈琲はなかったはずだ。外国から取り寄せたのだろうか。砂糖と生クリームをたっぷり入れて、久しぶりの風味を楽しむ。

 2センチの厚さにスライスされたトーストは丸くて、目玉焼きは半熟。新鮮な生野菜のサラダには、蒸された鶏の胸肉と塩辛いソーセージの薄切りが添えられていて、ドレッシングがなくても美味しい。

 この国の朝食は、超塩辛いヨーグルト風味の雑穀粥が定番だ。わざわざ特別メニューを作らせたのだろう。

 トーストの上に目玉焼きとソーセージの薄切りを載せてかじりつく。とろりとした黄身が口の中でパンに絡むと、頬が緩むのは止められない。トーストも目玉焼きもまだ温かくて、サラダは冷たい。もしかしたら、保温の魔法が掛けられているのかもしれない。

 元の世界では当たり前に食べていた料理も、この世界では特別だ。王子がベッドに入ってきたのはムカついたけど、これでチャラにしてもいい。

 久しぶりのまともな朝食を食べ終えると、残り時間は少ない。生成色のシャツに黒いズボン。上着は裾が膝まである騎士服を着て、長い髪をポニーテールにする。

 私には緋色の識別色が割り当てられているから、デザインが変わっても上着は緋色だ。他の色を着てみたいと思うこともあるけれど、騎士登録している以上、わがままは許されない。

 識別色というのは戦場で個人を見分ける為の色で、功績を上げた者に王から贈られる。王子の識別色は藍色だ。

 壁に貼ったカレンダーにナイフで印を付ける。〝帰還の儀〟まで、あと80日。この世界の一ケ月は36日だから、約二ケ月ちょっと。

「さて。今日も頑張りますか」

 私は、半ば無理矢理に笑顔を作った。


 広大な王宮には十数万人が収容できる広場があり、その一角が騎士の訓練場として使われている。体術訓練と剣術訓練が主だけれど、馬術訓練を行うこともある。

 この世界の馬は大きい。背が高い人々が多いからだと思うけれど、乗るのも一苦労だ。

 馬は苦手だったけれど、私は根性で乗りこなした。勇者は私を前に乗せて走りたかったらしい。私は勇者の足手まといにならないようにと必死だったから、馬に乗れるようになったという報告をした時の、一瞬の無言の意味に気が付かなかった。

 勇者は元・騎士だ。魔王討伐が終われば騎士に戻ると言っていたけれど、王女の婚約者となった今は、訓練に出てくることもない。顔を合わせることもないから気楽ではある。

 広場を馬で駆け、周囲をぐるりと回って馬から降りる。乗せてもらったお礼を言って撫でれば、馬が嬉し気にいななく。

「おーい! ユリノ! 嫁が来てるぞー!」

「嫁って誰よ」

 騎士仲間の叫びに、くるりと振り返って後悔した。訓練場の入り口で、朝とは違う藍色のドレスを着た王子が片手に籠を下げ、可愛らしく手を振っている。

 逃げようとしたけれど、仲間に背中を押されて王子の前に晒された。

「王子、どういうことです? 公務は?」

「会談相手が急病で倒れたから、時間が空いたの。それでね。ユリノに会いたくて」

 もじもじ。そんな感じで王子は頬を赤らめる。背が高い王子から見下ろされている筈なのに、上目遣いで見られている気分。美形怖い。マジ怖い。

「ユリノ、王子と一緒に散歩に行ってこい。これは命令だ」

 王子のドレス姿を見て目を丸くしていた隊長がにやりと笑って言った。命令だと言われればどうしようもない。

「……了解」

 私は渋々、王子の差し出す手を取った。


 王子に手を引かれ、王宮庭園の東屋の一つへと誘われた。流水で手を洗うように促され、石のベンチに座ると、王子はいそいそと腕に掛けていた籠から油紙の包みを出して広げていく。

「うわー。可愛いー」

 中身はカラフルなサンドイッチ。トマトに卵、レタスやキュウリ、薄切り肉にチーズ等々、切り口が鮮やかで美味しそう。

 王子に勧められるままに、手を伸ばした途端に気が付いた。そうだ。この世界では生野菜を食べることはなくて、必ず熱を加えた物がだされている。朝食の生野菜のサラダもありえないメニューだ。

「あ。野菜は綺麗に洗って、浄化の魔法を掛けてあるから、大丈夫よ」

 手を止めた私の心の中を察したのか、王子が微笑みながら、添えられているプチトマトに似た野菜を口に入れた。

「いただきます」

 かぶりついたサンドイッチはとても美味しい。バターやマヨネーズではなくて、滑らかな白いソースが野菜と肉の味を引き立てる。

「……私の手作りなの」

 頬を赤らめた王子の言葉を聞いて、私は飲み込もうとしていたパンをのどに詰まらせた。

「うぐっ……」

「ユ、ユリノっ!?」

 苦しかったのは一瞬だけで、背中を王子が叩いてくれて飲み込めた。

「……あの……もしかして、朝食も?」

 手渡されたお茶を飲んで呼吸を整える。この美味しいサンドイッチが王子の手作り? それだけで私の心はパニック状態。

「パンは焼いてあるものを切っているだけなの。他は私が作っているわ。時間のかかる料理でなくてごめんなさい。そのうち、料理の時間を取るから楽しみにしておいて」

 ぱちり。音がしそうな程のウインクは男と思えない程に艶やかだ。王子の濃い金色のまつ毛は長い。

「いえ。お忙しい王子のお手を煩わせる訳には……」

 王子の公務スケジュールは、殺人的だと聞いている。

「私、もっと料理を覚えるわ! だからお嫁さんにして!」

「お断りです」

 いくら王子が美形で艶めいていても、私は即答するしかない。私は元の世界に帰るのだし、そもそも嫁はいらないと思う。


 その日以来、王子は毎朝、朝食を持参して、私のベッドに潜り込むようになった。鍵をいくつも掛けたり、バリケードを作って抵抗してみたけれど、無駄だった。目が覚めると必ず王子が隣で微笑んでいる。

「ありがとうございますっ! 朝食は美味しくいただきますね!」

 いろいろ諦めた私は、起きると同時に王子を扉の外へと押し出すことにした。扉を挟んでの攻防が繰り返される。

「ちょっと待って! これを!」

 扉の隙間から伸びた手には白い布が握られていて、反射的に受け取ってしまった。

「受け取ったわね! 〝騎士の誓い〟の言葉は省略で構わないわ!」

 いつもなら扉を開けようと抵抗する手が引っ込む。ぱたりと閉まった扉の向こうからは完全に気配が消えた。

 白くて丸い布は、どうやらハンカチだ。この世界のハンカチは丸や花の形をしたものが多くて四角いハンカチはあまり見かけない。ハンカチには白い糸で複雑な花紋様が刺繍されていて、料理スキルの次は裁縫スキルをアピールしているのかもしれないと思いつく。可笑しくて、ちょっと笑ってしまう。


 騎士の訓練に行くと、騎士仲間がにやにやと意味ありげな笑みを浮かべていた。私の背を叩いて、おめでとうと言う者まで現れた。

「何でおめでとうなの?」

「お前、ついに〝騎士の誓い〟を立てたそうじゃないか!」

「抵抗してたのに、堕ちるの早かったなー」

 意味がわからない。そう言うと、手巾ハンカチを受け取ったかどうか聞かれた。

「白いハンカチ? 確かに受け取ったけど」

「うげっ。本当に受け取ってたのか」

 げらげらと笑う騎士仲間の説明によると、貴婦人が刺繍したハンカチを騎士が受け取ることは、貴婦人へ剣を捧げ、愛と忠誠を一生誓うということになる。誓いたくない場合には、絶対に受け取ってはいけない。

「そんなの、早く教えてよ! っていうか、王子は貴婦人じゃないわ! 無効よ、無効! 返せばいいのよね?」

 私の叫びに、騎士たちはますます笑い転げる。

「返しても無駄だぞ。一度手にしたら、もう俺たち騎士は逃げられない。諦めろ」

 一度も話したことがなかった女嫌いの騎士まで、口を震わせながら私の肩を叩く。

「絶対に返品するんだからー!」

 私の絶叫と騎士たちの馬鹿笑いが、訓練場に響き渡った。


 翌日、私は徹夜で王子を待ち構えた。夜明け前に鍵が開く微かな音がして、そっと扉が開く。テーブルの上にトレイが置かれ、人の気配がそそくさとベッドに近づいてきた。

「おはようございます」

 私の声に、その人物がびくりと体を震わせたのがぼんやり見える。

「あ、あら。おはよう。起きていたの?」

 起き上がって魔法灯を点ければ、豪奢なドレスではなく、素朴な藍色のワンピースに生成色のふりふりエプロン姿の王子が見えた。髪は普段の私と同じ、ポニーテールにしている。……可愛い……かもしれない。美形怖い。マジ怖い。

「ユリノ、ちゃんと寝ないとだめよ? 寝不足はお肌の敵よ?」

 じりじりと近づいてくる王子を避けながら、テーブルを挟んで対峙する。

「朝食を頂いてから、少し仮眠します。今日は休みですから」

「あら。それならユリノが眠っている間にクッキーを焼くわね」

 王子の甘い誘惑に私は屈した。

 王宮には甘いお菓子というものが存在しない。町では甘すぎるお菓子が売っているけれど、私は王宮外に出してもらえないから、騎士仲間に時々買ってきてもらって食べている。甘いお菓子は貴重だ。

 昼過ぎに王宮庭園で待ち合わせの約束をすると、王子は満足気な笑顔で部屋から出て行った。

「あ。ハンカチ返すの忘れた」

 後で返すかと気を取り直して、私は美味しい食事に手を付けた。


 待ち合わせの時間が近づいてきたので、私は王宮庭園の東屋へと向かっていた。私の前を銀髪の宰相が早足で歩いて行くのが見える。どうやら宰相の目的地も私と同じ場所のようだ。迷ったけれど東屋の裏の木に身を隠す。

「ヴィンセント様のお望み通り、隣国王女との縁談は無かったことになりましたよ」

 呆れたような声は、宰相だ。

「そうか」

 王子が平坦に短く答える。顔が見えないので、その感情は読み取れない。

 成程。私は内心溜息を吐いた。王子は縁談を潰したいがために、女装をして私を追いかけるという奇行を見せつけていたのか。

「そろそろ、その馬鹿げた芝居は終わりにして頂けませんか。王宮に滞在中の各国大使にも知れ渡り始めておりますよ」

 広大な王宮には、各国の大使が賓客として滞在している。

「芝居ではないのだ。……ユリノの嫁になるには、何が足りないのだろうか」

 王子の呟きに驚いた。芝居ではなく本気だということだろうか。

「どんな技術スキルがあれば、嫁にしてくれるのだろうか」

「それ程お気に召しているのなら、嫁ではなく、正式に求婚されてはいかがですか」

「これまで一度も欲しいものを言わなかったユリノが、初めて欲しいと言ったのが嫁だ。叶えてやりたいと思っている」

 王子の声はとても優しく聞こえる。

 あの時は本当に疲れていて、部屋に戻ることも億劫だった。体力よりも、心が悲鳴を上げていた。ささくれ立った心を癒してくれる優しい嫁がいてくれたらいいのにと、願望がそのまま口から零れた。

「だからと言って女装というのはやり過ぎではありませんか?」

「それがな。このスカートというものは、意外と着心地がいい。風が通って、アレが涼しくて気持ちいいぞ。上はキツイが、下は自由を満喫している」

「ヴィンセント様、まさか下穿きを着けていないと言わないでくださいよ」

 宰相の心底嫌そうな声が聞こえてきて、私は笑いを噛み殺す。いつも澄ました顔の宰相がどんな表情をしているのか見てみたい。

「まぁ、冗談だ。……普段の姿で近づいた時には見れない表情がある。理由はわからないが、無意識に男が嫌いなようだ」

「……ユリノ様は勇者に好意を寄せていたようです。目の前で自分とは正反対の王女を選ばれたことが心に痛手を負わせたのでしょう」

「それは報告を受けていないぞ」

 王子の声が少し固くなった。

「書面にして報告するようなことではありませんよ。知っているのは魔王討伐に出掛けた3人と私だけです。他に気が付いた者はおりません」

 宰相の言葉を聞いて、私は木に頭を打ち付けたくなった。私の恋心が勇者本人と魔術師、神官に気が付かれていたことが恥ずかしい。

 旅の間、極限状態に居ながらも、私は完全に勇者に熱を上げていた。だから勇者の隣に立つ為に頑張った。勇者の足手まといにならないように、迷惑を掛けないように自分なりに努力を重ねた。

 ……勇者は私の恋心を知っていながら、目の前で王女を選んだのか。

「この世界にユリノが残ってくれるなら誰を選んでもいい。できれば私を選んでほしいと思うがな」

 王子の言葉の後、宰相が大きな溜息を吐いて東屋から離れて行った。時報の鐘の音で、約束の時間だとわかっていても動けなかった。涙が止まらない。

 この世界に来てから、一度も涙を流したことはなかった。世界を救うという使命感と、恋した勇者の隣で戦えることに満足感を覚えていたから、ホームシックになることもなかった。

 勇者が王女を選んだ瞬間を見ていても涙は出なかったのに、何故か涙が止まらない。

「ユリノ?」

 いつの間にか、王子が側に立っていた。髪を撫でられて抱きしめられたけど、抵抗する気力がない。

 私の恋心に気が付いていたのなら、優しくなんてして欲しくなかった。恋人だと錯覚しそうな程の気遣いと優しさで、私は舞い上がっていた。

「私が一緒に行きたかった」

 王子はそれだけを口にして、抱きしめる。少し早い心音と温かい腕に包まれながら、私は泣き続けた。

 しばらくして涙が止まると、目が痛くて視界が狭い。まぶたがはれ上がっているのだろう。きっと酷い顔をしている。

「……まぶたを冷やしてもいいかしら?」

 王子の言葉に頷くと、そっとまぶたにキスが落ちてきた。ひやりとした感触の後、視界がすっきりと元に戻る。冷却魔法なのか回復魔法なのか、私には判別がつかない。女装の衝撃が凄すぎて忘れていたけれど、王子は剣も魔法も使える人だ。国民からの支持も厚い。そんな立派な人が、私の願いを叶えようと頑張っていることにようやく気が付いた。

「ありがとうございます」

「どういたしまして」

 王子が優しく微笑んでいる。手を引かれて、東屋へと向かう。

 心が落ち着くと猛烈に恥ずかしくなってきた。まぶたとはいえ、キスなんて、誰にもされたことはない。顔が熱い。きっと顔が赤くなっている。

 私を見つめる王子が、くすりと笑って私の髪を撫でる。王子の手はやたらと心地よくて、恥ずかしさがさらに倍増したような気がする。

 居たたまれなくなった私は、おもむろに王子のワンピースの裾を手で掴んで、勢いよく跳ね上げた。自分でも何をしているのかと思うけれど、体が勝手に動いた。現実からの逃避行動だと思う。

「あ。穿いてるんだ……」

 なんだ。つまらない。王子は男物の下穿きをちゃんと穿いている。

 顔を赤くして震える王子は涙目だ。初めて見る表情に、何故かときめく。可愛いかもしれない。

「ユ、ユリノ……ちょっと待って、私、心の準備がっ!」

 王子はそう叫んで、私に籠を押し付けて走り去った。

「あ。ハンカチ……」

 突然のことに私は呆然として、王子の背中を見送るしかなかった。


 翌朝、王子は姿を見せなかった。テーブルの上には温かい朝食が置かれている。

「嫌われたかな……」

 ここしばらく、毎日ベッドでの攻防が続いていたから、いきなりなくなると何故か寂しいと感じてしまう。流石にスカートをめくったのはやり過ぎというか、自分でも理解不能だ。恥ずかしくて混乱していたということで、自分を無理矢理納得させる。

 美味しい朝食を食べて気を取り直した私は、騎士の訓練へと向かった。

「おい、ユリノ。お前、王子を傷物にしたって?」

 騎士仲間の真剣な表情に、私は驚愕するしかなかった。

「は? 何にもしてないわよ」

 私はスカートをめくっただけだ。あれで男が傷物になるわけがない。

「じゃあ、逃げろ。今すぐだ!」

 訳もわからないままに、訓練場から出ようとした所で、地響きのような音が近づいてきた。

「何だ?」

 騎士たちが困惑の声を上げて警戒すると、女性たちが訓練場に押し寄せてきた。

「ユリノとかいう、異世界の女はどこ!?」

「すぐに連れてきなさい!」

 怒号は殺気だった女性たちから聞こえてくる。見える範囲だけでも、豪華なドレスで着飾った女性が百名以上いる。

「あ、あいつです!」

 訓練場にいた騎士たちが一斉に私を指さす。

「うわ、売られた!」

 逃げようとしたけれど、あっと言う間に囲まれた。いくらなんでも、女に剣は向けられない。殺気だった女性たちの空気は恐ろしい。

 私が剣を抜こうとしないことに気が付いたのか、徐々に包囲の輪が狭まっていく。

「お、落ち着いて! 話せばわかるわ!」

 私の叫びは、女性たちの感情を逆なでしてしまったらしい。全員の目がつり上がる。先頭に立っているのは、公爵家や伯爵家の令嬢たちで、一際きらびやかなドレス姿だ。

「私たちのヴィンセント様を傷物にした上に、責任を取らないと言ってるらしいわね!」

「傷物になんかしてません!」

 一人の女性が、私の腕を掴んだ。それを合図にするように、押し寄せる女性たちが私の服や髪を引っ張る。

「落ち着いて!」

 同じ女とはいえ、私は騎士だから女に剣は向けられない。私の拳に付与された力は男にも劣らないから、殴り倒す訳にもいかない。

 顔を庇いながら、伸びてくる腕を払い、逃げ道を探すけれど、人の壁はどこまでも厚い。鋭い爪で引っかかれ、ぶちりと音を立ててボタンが引きちぎられる。

「怪我をしたくなければ、どけ!」

 王子の叫び声が響き渡り、人の壁が割れて白馬が飛び込んできた。

「ユリノ!」

 ドレス姿の王子が手を差し伸べる。迷う暇はなかった。王子の手を掴むと同時に腕を引かれて、馬上の王子の前に横座りに乗せられる。

 助かった。騎士服のボタンや装飾が一部取れていて、ポニーテールも崩れてぼろぼろだ。顔は護っていたのでかろうじて傷はないけれど、手の甲と首にはひっかき傷ができている。あのままでは、どうなっていたのかと考えるだけでも怖い。

 王子からは怒りの感情が滲んでいる。私は怒鳴りつけようとする王子の口を手で押さえた。

「ダメ。騒ぎにしないで」

 小声で告げると王子の青い瞳が困惑の色を浮かべた。

「私は大丈夫。貴方が助けてくれたから」

 王子の怒りを鎮める為に、私は言葉を重ねる。一国の王子が、たかが一人の女の為に貴族女性たちを咎めて罰するなんてことはあってはならないと思う。

「……わかった」

 小声で答えた王子が深く息を吸い込んで、口を開く。

「皆様! ごめんなさい! 私、ユリノのお嫁さんになるのが夢なの!」

 ドレス姿の王子の宣言に、何人もの女性が倒れた。私も倒れそうだ。いくらなんでも、それは酷い。取り囲む女性たちに困惑が広がっていく。

「わかりましたわ! それがヴィンセント様の夢でしたら、私たち全力で応援させて頂きますわ!」

 そう叫んだのは銀髪が美しい公爵家の令嬢の一人だ。緑の瞳を輝かせている。

 殺気だっていた空気が、何か違う熱い空気へと変化していく。女性たちが、口々に頑張ってくださいと王子に声を掛けて、訓練場から去って行った。

 これで騒ぎは治まった……のだろうか。さらにややこしい状況に追い込まれたような気がしてならない。

「助けて下さってありがとうございました。……王子。その手は?」

「何かしら?」

 うふふ。そんな微笑みにも、私は騙されない。大体、この騒ぎの原因は王子だ。さりげなく胸を揉む手を払って、私は王子を馬上から蹴り落とした。


 貴族の女性たちを味方につけた王子は、更なるスキルを身に着け始めた。

 私の部屋に花を活け、私を題材にした詩を作り、私の肖像画を描く。

 化粧の腕が上がり、清楚から妖艶、さまざまな表情を見せる。

「ユリノ、どんなお嫁さんが好みなの? ユリノの好みに合わせるわ!」

「だーかーらー、嫁が欲しいっていうのは冗談です!」

 選べと言われても、選べる訳がない。毎日の攻防は、徐々に周囲を巻き込み、女装姿の王子を見ても、誰も驚かなくなってきた。


 今日もふわりと珈琲の匂いで目が覚める。微かなシトラス系の匂いは……嫌いじゃない。目を開くと優しく微笑む女装の王子。

「おはようございます。……王子、いつ眠っていらっしゃるんです?」

 私の願いを叶えようと、斜め上の努力をする王子が可愛く思えてきた。

「心配してくれてありがとう。私は男ですもの。ユリノよりも体力はあるわ」

 ふわりとはにかむ王子の手が、私の髪をそっと撫でる。

「……朝ご飯、一緒に食べませんか?」

 私の提案に、王子の目が輝く。美味しい食事を独りで食べるのはもったいないと思っていた。

「ただし。女装は辞めて下さい」

「ええっ! 新しいドレスをたくさん作ってもらったのにっ!」

 王子が小さく悲鳴を上げる。どうやら王宮の仕立て部屋も王子の味方に回ったらしい。

「わかりました。気が済むまでどうぞ。でも、言葉遣いは普通にして下さい」

 私は苦笑するしかなかった。王子はいつの間にか、私の心の外堀を埋めてしまっている。女装していても中身は変わることはない。

「ユリノ、名前を呼んでくれないか?」

 優しい声が耳をくすぐる。女言葉ではない台詞は刺激的過ぎて、心の準備が間に合わなかった。不意打ちとも言える言葉に私の顔が赤くなる。

「ヴィンセント様」

「様はいらない」

「……ヴィンセント」

 私が名前を呼ぶと、ヴィンセントは明るい笑顔を見せた。心の底から嬉しいというのは、こういう笑顔のことなのかもしれない。何だろう、見ているだけで心が温かくなる。

 〝帰還の儀〟まであとわずかだけれど、私の心は、この奇妙な嫁に捕まったのかもしれない。元の世界に帰りたいと思う気持ちと、ヴィンセントと一緒にいたいという気持ちが揺れている。

「よし。良い嫁になれるよう、更なる努力をすると誓おう!」

「だから! 嫁が欲しいっていうのは冗談ですってば! その手は何!?」

 悪戯をする手をぺちりと叩き落す。少し情けない表情を見せるヴィンセントが可愛くて、私は笑う。


 ああ、もう、本当に。嫁が可愛いという気持ちが理解できる日が来るとは思っていなかった。一生懸命頑張る奇妙な嫁は、とにかく可愛い。可愛すぎ。

 いっそのこと、全面降伏して白旗を上げるべきだろうか。私は、そんなことを考えながら、抱き寄せようとする腕に抵抗を続けていた。

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