条件26 野戦病院

野戦病院に着いた頃には、空は夕暮れになりかけていた。

白い布の天蓋がはためいてる。

でかいテントみたいなものが幾つか集まっていた。

これが、野戦病院。

天蓋から出てくる影は杖をついたり、誰かに抱えられている怪我人ばかりで、あとは忙しく動き回る魔族の看護官だ。

看護官たちの行き来は、一寸たりとも足を止めるものかと言わんばかりの緊迫感。まさに戦場だ。

テントの中に入って、——さすがに言葉を失った。

阿鼻叫喚とはこのことか。

陳腐な表現だろうけど、そうとしか言いようがない。

魔族だけじゃなくて、人間も、動けるものも動けないものもない交ぜになっている。

「おい坊主、暇なら運ぶの手伝え」

「あ、はい……」

ぼんやり突っ立っていたら後ろからアルターに衣類の箱を託された。

一緒に唖然としていたはずのマーヤは、すでに看護官の手伝いをしている。

「あなた、傷を見ても失神しない? 大丈夫? 」

「大丈夫ですよ。幼馴染が怪我ばっかりしていたので、傷は見慣れているんです」

マーヤの会話が聞こえてきた。

確かにあいつ、昔はよく俺の野球の試合に応援にきてたっけ。

擦り傷も割とえげつねえのあるらから、普通の女子よりは耐性があるかもしれない。

つまりそんな女子に育った原因の一旦は俺にあるのか。

責任を感じるようなそうでないような。

「肉がサックリ割れて骨まで見える程度なら、なんとか大丈夫です」

……それについては俺は戦犯じゃない。別のチームメイトのスパイク傷のことだ。

(そういや俺、ある程度の手当ならできるな)

スポーツに怪我はつきものだ。

傷口の処置やテーピングは一通りできるはず。

「簡単な手当はできると思いますけど、何かすることありますか」

衣類の箱を運び終えてから近くにいた看護官にそう声をかけた。

見ず知らずの中坊が突然声をかけたってのに、「そうか? 」と彼はすんなり包帯を渡してきた。

「奥から二番目の患者、右足首の包帯を変えてあげてくれ。ただの捻挫だから」

……ほんとにただの捻挫だろうな。

なら楽勝だ。

何回、自分の足に巻いたことか。

「おーい。包帯変えるぞ」

指定されたベッドの患者は人間だった。

ぼんやりと虚空を見つめたまま微動だにしない。

「えっと……。失礼します」

布団をめくってから気づいた。

(俺の手、人間じゃないんだった)

人間の指よりも何倍も太くて固い竜人の腕。

指を曲げ伸ばししてみる。

剣を振るうにはいいけど、こんな手で包帯が巻けるんだろうか。

(やってみるしかねーよな)

爪の先を使って包帯を解いていく。

彼の足は本当にただの捻挫だった。

うん、包帯をまくくらいの作業は問題なさそうだ。無理ならごめんなさいで済む。

この右手、意外にも小回りがきく。

捻挫のテーピングくらいは手馴れたものだ。ものの数分で終わった。

「終わったぞ」

顔を覗き込むが、反応はない。

(まあ、そんなこともあるか)

ここは野戦病院なのだ。兵士たちが戦争をして、運び込まれた場所なのだ。

無反応の彼は今、どんな状態なんだろう。

「うう……魔族じゃねえ……この肌は……」

「ん? 」

隣のベッドから唸り声が聞こえて、振り向いた。

全身に包帯が巻かれた人間の男。

包帯の影にやつれた眼孔が覗いている。

(えっ? )

思わず目を疑った。

衣服の下。

ぴくり。ぴくり。

皮膚が脈打っている。

生春巻きの皮みたいな血色の悪い肌の下に、薄緑色の液体のようなものがうごめいている。

「あの人は一体——」

気になって、入り口近くで薬の整理をしている看護官に声をかけた。

「変化の初期症状ですね……あの、本当に、すみません」

「え? 何がですか? 」

すまなそうに言う看護官にきょとんとした。

「変化の瞬間は一般魔族にはとてもじゃないけど見せられないものですから。普通の人間の変化であれば問題ありませんけど、病人の変化は悲惨ですから……」

「そう……なんですか」

看護官は逡巡してから、静かに俺に耳打ちした。

「本来、変化の兆候が見られた時点で、変化し始めた人間は隔離するんです」

「暴れたりするの? 本人が魔族になることを受け入れられないとかで」

「そういうこともありますが……。周りの人間のためです」

「周りの? 」

「はい。彼ら人間は、誰だって魔族になりたくないのです。そして彼ら捕虜は、敵地にいるというストレスの他にも、魔族に変化する恐怖に常に怯えています」

「仲間の人間が魔族に変わるところを、見せないようにするってことか」

「はい。彼らにとっては、かなりのショックですから」

今回の捕虜の暴動だって、それがきっかけだったんだっけ。

「ですから本当は、彼も隔離するはずだったんです」

看護官の瞳は件の患者を遠くから見つめている。

「でも、暴動で患者の数が増えて、彼を移動させるにも手が足りなくて、こそのうちに床か満杯になって——。昼には兆候が見えていただけなのに、今になってしまったら、もう……」

痛々しい視線。けれど、彼女のそれは憐れみとか、同情とか、そういう余計なものは混ざっていないように見えた。

きっと、自分の責務を果たせなかったことへの悔しさ。

「今から動かせないの? 俺、手伝いますよ」

看護官は首を振った。

「今から患者を動かせば、周りの人間には更なるショックを与えます」

「え? 変化を目の当たりにすることよりも? 」

「はい。だって、今、彼らの目の前から患者を動かしたら——彼らの目にはこう映ります。『ああ、もうすぐ変化するあいつが連れていかれた。一体どこに連れて行かれたんだろう。俺たちも魔族に変化したらああなるのか』」

戦場で、見えないところに連れて行かれて、戻ってこなかったら。

「殺されたって思う、よな」

「そうです。それなら、変化して死ぬところまで彼らに見せたほうがましです。魔族になっても普通に死ねるのよって。殺されたりしないのよって」

「……死ぬ? 」

看護官の言葉が引っかかる。

彼女の言い方はまるで、変化した患者が、死ぬことが前提になっているような。

「彼の体は、もう変化に耐えられないのです」

「耐えられないって」

「ここに運び込まれた時、彼は大腿骨と肋骨四本、頭蓋骨の骨折に、胃と左肺の内部出血。普通の人間でも、死ぬか生きるかの間際だったんです」

思わず眩暈がした。そんな状態でも、人間は生きることができるのか。

人体のどこがどの位壊れれば死ぬのか生きるのか、そこらへんは詳しくないが、ぼろぼろの体だということは俺にもわかる。

「変化とは、体の組織が全て作り変えられることです。体力が要ります。健康体なら耐えられます。でも、彼の体では」

「変化を止めることはできないんですか? 遅らせることとか……」

遅らせることさえできれば、せめて、確実に安らかに眠らせることだって。

ふとアルターの言葉が蘇った。

『きっかけは色々あるって言われるが……魔族になることを受け入れるか否かだってのが一般的かねぇ』

人間が魔族になるきっかけ。

「そうだ、あの人、ずっとうわ言で『魔族になんかなりたくない』って。魔族になることを受け入れてないんだったら、まだ大丈夫なんじゃ——」

「違いますよ。彼は『魔族じゃない』って言っているんです」

看護官は言った。

「彼、自分の肌を見て、こんなのは魔族じゃないんだ、って言っているだけなんです。その時点で、もう彼は、自分の肌が魔族のモノになってしまったことを自覚してしまっている」

自分の肌が人間のものではなく、魔族のものだと認識してしまった。

自分が魔族になってしまったと、彼は悲嘆してしまった。

——受け入れてしまったのだ。

彼が魔族になることを受け入れたのではない。人間をやめることを選んだのではない。

自分の肌が人間のものではなく、魔族のものだという事実を、受け止めてしまった。

自覚してしまった。

体は、彼の脳は、それを受け入れたと判定した。同じことだからだ。

そこに彼の意思は関係ない。

「彼の体はもう、変化を決めてしまったのです。本格的な変化が始まれば、そこに体力は持って行かれて、生きる為に必要な力まで搾り取られてしまいます。——ですから、彼はもう手遅れなのですよ」

——手遅れって、そういう意味だったのか。

「魔族じゃない……魔族じゃない……」

別の患者の打撲の処置をしようと向かう途中、また彼の側を通りかかった。

「俺は……魔族じゃない……魔族じゃない……」

弾かれたように、隣のベッドで寝ていた人間の兵士がぼろぼろと大粒の涙を流し始めた。

「魔族になんか……なりたくない……なりたくねえよぉ……」

ダァンと大きな音がしてびくりと身を縮こませた。

「何が……」

振り向くと、斜め隣のベッドから魔族の兵士が立ち上がっている。

「うるせえ! てめえら、俺ら魔族の目の前でなんて言い草だ! 魔族の世話ンなっときながらよくもそんな口が利ける!! 」

「あ、おい——」

止めに入った途端、ガンと頰骨に衝撃が走った。

口の中に血の味が滲む。

(痛っ……! )

しかし俺を殴った魔族はそのまま床に崩れ落ちた。

それでも右手は床を殴り続けている。

「はいはい、落ち着きなさい」

看護官が駆け寄ってきて、床に伏した魔族を抱え上げた。

何かの器具を額にあてると、その瞬間、魔族が脱力する。

隣のベッドの人間はまだ嗚咽を漏らして泣いている。

白目を剥いた魔族をベッドに乗せるのを手伝いながら、俺は駆けつけた看護官に訊いた。

「あの、どうされたんですか、この人……じゃない、魔族は」

「ん? ああ。ここは人間も魔族もごっちゃになってるでしょ。その上ストレス溜まるからね。こういうこと、よくあるのよ」

「よく、あるんですか」

「手っ取り早く薬打っちゃうけどね」

看護官はそう言って、忙しそうに去ってしまった。

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