第8話 姫君達の懸想
「……はぁ」
都心部に位置する学び舎であるとは信じ難いほどに、艶やかな緑で彩られた庭園。人の心を鎮めるその景色を一望できる、絢爛な廊下の中で私――鷺坂千種は、ため息をついていた。
梅雨も過ぎ、季節は初夏を迎えているというのに。窓辺に差し込む陽射しに対して、私の貌はあまりに暗い。
「見て……素敵……! 鷺坂生徒会長よ……!」
「あぁ、なんてお美しい……」
「一体どうされたのかしら、あのアンニュイな表情……。もしや、恋の悩みっ!?」
「そんな……わたくしのお姉様が……!」
絢爛に彩られた廊下を歩む、純白の制服に袖を通す幼き淑女達が、羨望の眼差しで私を見つめながら通り過ぎていく。そんな日常の光景を一瞥しつつ、私は塵一つない窓に視線を移す。
その先には憂いを帯びた表情を浮かべる、私の貌が映されていた。
都内有数の進学校……いわゆる「お嬢様学校」である、この「聖エレフテリア女学院」は西洋の城を彷彿させる煌びやかさで有名だ。
――中等部に当たるこの学び舎はまだ小さな王宮のようであるが、お嬢様が御卒業された高等部の校舎はこの程度ではない。本物の城だ。
旦那様に拾って頂いただけの戦災孤児に過ぎない私は、本来このような場に相応しい人間などではない。それでも旦那様は実の娘のように私を育んで下さり、お嬢様は私を「妹」と言って下さった。
そんな旦那様とお嬢様を、私は侍女として……娘として、妹として、深く尊敬している。だから、だからこそ。あの不吹竜史郎という殿方の存在を、私は素直に受け入れることが出来ないでいた。
――彼のことを何一つ知らないわけではない。お嬢様が愛するに相応しい殿方であると、今なら理解している。
だが、3ヶ月前に起きたあの騒乱……「ダイノロド事件」を通して、彼の普段とは異なる一面を見るまでは。私は彼に、良い印象を抱くことが出来なかった。
普通の女の子のように暮らさせてあげたい……という旦那様のご意向により、一般の中学校に通っていたお嬢様は、当時の世情のせいで酷い苛めを受けておられていた。周囲に心配をかけまいとする、お嬢様の気丈さゆえに……私達は、その苦しみに気づけなかったのだ。
いくら幼かったとはいえ、当時の私は侍女としてあまりに力不足であり……その頃の不甲斐なさを、今でも悔いることがある。
そんな時、私達の前で力無く笑うお嬢様を、人知れず支えてくれていたのが……ドイツからの帰国子女だと言う、不吹殿だったのだ。私達がそのことを知ったのは、お嬢様が中学3年の進路相談を迎えた頃のこと。
苛めの実態を知り、ご自身の判断を深く悔いた旦那様は、高校進学を機にお嬢様をこの学び舎へと連れ戻されることに決められた。一方彼は「家庭の事情」とのことで、お嬢様と別れるようにドイツへと帰ってしまわれた。
苛められていた時ほどではないにしろ、当時はお嬢様も想い人と別れることに酷く悲しまれていた。旦那様も不吹殿のことはいたく気に入っておられている様子だったのだが……なぜか一度も、彼の帰国を止めようとはされなかった。
それでも長い時間をかけて心を癒し、高校卒業を控えた頃――防衛軍と深い関係を持つ、とある軍事企業の御曹司との縁談が決まった。お嬢様とは、いわゆる「幼馴染」の関係でもある人物だ。
……不吹殿とのことに一区切り付けさせようという、旦那様なりの気遣いだったのかも知れない。
お相手の御曹司は外見こそひ弱であるが、ひたむきで誠実な人物であり、社会的地位も含めて好条件であった。お嬢様も改めてその人柄に触れ、憎からず思っていたようにも窺えた。
――だが。お嬢様が大学2年に進学し、20歳を迎えたことを契機に。いよいよ、縁談が纏まろうとしていたところへ。
あの不吹竜史郎殿が、再び日本に帰ってきたのである。しかも今度は、お嬢様の後輩に当たる、大学の新入生として。
それはまさに、青天の霹靂であった。3年という月日を経て、少しずつ縁談に傾いていたお嬢様の御心が――たった一度、彼と再会しただけで。
まるで魔法に掛かったかのように、不吹殿への求愛に振り切れてしまわれたのである。結局縁談はご破算となり、幼い頃からお嬢様を想われていた御曹司殿は、壊れるほどに泣き崩れてしまわれた。
お嬢様が苛めに苦しんでいた間、海外に留学していた彼では、逆立ちしても埋められない「差」があったのだろう。
だが、問題はそこではない。その時の不吹殿の姿は、聞いていたものとはまるで違う「腑抜け」そのものだったのだ。
私は不吹殿と直接面識があったわけではなく、侍女達の間で広まっていた噂やお嬢様のお話、卒業アルバムに残されていた写真等でしか彼のことを知らなかった。
……知らなかったからこそ、お嬢様を救ってくださった彼に深く感謝し、敬愛もしていた。なんて素敵な人なのだろう、まさしくお嬢様にとっての、私にとっての王子様だ……と。
しかし。6年後に叶った再会で待ち受けていたのは、そんな印象からは程遠い、ぼんやりとした間抜けな殿方。いつもどこか上の空で、何を考えているか分からない奇妙な人物だったのだ。
教師を目指して進学して来たとは聞くが、お嬢様の後輩になっているということは、過去に留年若しくは浪人になっていた期間があるということ。しかも、その間何をしていたのかは全くの不明。
――そんな得体の知れない殿方になど、お嬢様を任せられるはずがない。まだ縁談相手だった御曹司殿の方がマシだろう。私はそれまで抱いていた幻想を壊された怒りもあって、彼に対しては常に刺々しく接してしまうようになった。
お嬢様はそんな彼に対しても甲斐甲斐しく接していらしたが……その時の私には、それが理解できなかった。
――3ヶ月前のあの日。颯爽と幼子を救ってみせた彼の、あの凛々しい横顔を見るまでは。
正直。お嬢様だけでなく、私までもが……あの瞬間の彼に、不覚にも見惚れてしまっていた。
元々容姿が悪くなかったせいもあるのだろうか。それとも子孫繁栄のため、
いつものぼんやりとした佇まいとはまるで違う、「戦士」のような鋭い眼差し。一体あれは、何だったのだろう。もしかしたら、あれが本当の彼だったのではないだろうか。
6年前のこともあってか……私はあれ以来彼に対して、そんな期待を抱くようになってしまっていた。しかし、彼の毅然とした姿を見ることが出来たのは、あの一度きりであり――事件が落ち着いて以来、彼はすっかり元通りの佇まいに戻ってしまっている。
……何より腹立たしいのは、こんなにも彼のことで何度も煩わされていることだ。全く……お嬢様ではあるまいし。
「……不吹殿……」
窓辺から青空を仰ぎ、ふと声を漏らしてしまう。自分でも信じられない程に、甘く上擦ったような声色だった。
――違う。私はただ、彼が垣間見せた「雄」に対して、本能的な反応を示したに過ぎない。今この瞬間も下腹部に滾る、芯から身を焦がすようなこの熱さは――浅ましい「劣情」に他ならない。
これほど私を惑わせておきながら、何事もなかったかのように振る舞う彼に「お預け」され、苛立っているだけのことだ。だから、違う。これは「恋」などではない。
私は6年前、お嬢様の力になることが出来なかった。だから今度こそ……お嬢様の幸せを叶えねばならない。そのためにも、邪魔な感情は早々に切り捨てる必要がある。
思想の自由までは憲法で保証されているが、口に出す言葉は公共の福祉に基づく制約を受けるのだ。間違っても、彼を求めるような言葉など口にしてはならない。
――そんなこと、分かりきっているはずなのに。
「……不吹殿」
1人でいる時。口をついて無意識に出てくるのはいつも、彼の名だった。
◇
定期考査も終わりが近づき、学内では徐々に夏休みムードが漂い始めている。どこを歩いても耳にする話題は、夏休みの予定ばかりだ。
部活やサークルの合宿。旅行。帰省。大学生の夏休みに出来ることは、数えきれない程にある。
私――唯川綾奈も、そうやって青春を謳歌したい女子の1人だ。
しかし……私が今、最も傍にいたいと想う「彼」とは、なかなか会えない日が続いていた。新しく始めたバイトが忙しいと聞くが……単位は大丈夫なのだろうか。最近は、所属していたテニスサークルにも余り顔を出していないらしい。
学費も生活費も1人でやり繰りしていると聞くし、本当は私なんかに構っている時間も惜しいのでは……と、不安になってしまう時もある。
……そんな引け目もあったのだろう。3ヶ月前のあの事件以来、距離を縮めることは出来たが……私達はまだ、恋人未満の関係を続けていた。
30年以上も戦争を続けてきただけあって、防衛軍による復興の速さは目を見張るものがあり、あれだけ壊された街も今ではすっかり元通り――なのだが。いくら技術が進歩しても、人の心ばかりは思うままにはならないようだ。
「綾奈ちゃん、試験お疲れ! 俺達これからカラオケ行くんだけど、一緒にどう?」
「……まだ明日の試験がありますから」
「まったまたぁ、綾奈ちゃんの成績なら明日もよゆーじゃん!」
「そうそう、華の女子大生が遊ばなかったら損だよ損!」
そんな私を見かねてのことかは知らないが……最近、特にこうして男子達に声を掛けられることが増えた気がする。夏場ということもあり、薄着になって目立つようになった私の胸や脚を無遠慮に見つめる彼らは、私の胸中を嘲笑うようにへらへらと声を上げていた。
「それにさぁ……あの不吹ってヤツ? あんな何考えてるか分かんねぇヤツと一緒にいたって、絶対つまんねぇって!」
「……ッ!」
――いつもなら露骨に嫌そうな顔をしつつ、軽くあしらって早々に立ち去るところだが。「彼」のことで思い悩んでいる最中に、その「彼」を悪し様に言われた私は……気がつけば眉を吊り上げ、怒気を露わにしていた。
だが、私が何か言い返そうとするよりも早く。
「お嬢、ちょっといいか」
「げッ……!」
山のような体躯と、岩のような強面の持ち主が、ヌゥッと顔を出してきた。彼が現れた瞬間、私に寄り添おうとしていた男子達は頬を引き攣らせて、距離を置くように引っ込んでしまう。
――父の部下であり、大学に入ってからの私を護衛してくれている
その御堂さんは、いつものように鋭い視線で男子達を追い払うと――真剣な眼差しで、私と対面する。……彼がこういう顔をする時は、大抵よくない話をする時だ。その中でも1番多いのが……ストーカー。
御堂さんや千種が言うには、私の見た目は悪い人に狙われやすいのだという。男子禁制の聖エレフテリア女学院にいた時ですら、私の後をつける人が何人もいたらしい。そういう人達は全員漏れなく、御堂さん達に捕まっているのだけど。
……また誰か、悪い人が近くにいたのかな。
「そんな怪訝な顔すんな。あの坊主……不吹竜史郎のことで、ちょっとな」
「えっ……ふ、不吹君!?」
「あぁ。最近バイト増やしたとかであんまり顔見ねぇから、お嬢も心配だったんだろう? ちょっと部下達に、アイツの様子を見させてたんだ」
「な、んなっ……!」
そこで出てきた思いがけない案件に、私は目を剥いて固まってしまう。そんなところにまで気を遣われていたのと、そこまで私の胸中が筒抜けだったことが明らかになり、私の顔は火を噴き出したかのように紅くなってしまった。
「……まぁ、ちょいとばかり忙しそうではあるが……何も心配はねぇよ。そのうち繁忙期も終わって、お嬢とイチャつく時間も出来るさ」
「も、もうっ! 御堂さん、もうっ!」
「ハハ、悪い悪い。あんまりお嬢が不安そうにしてっからよ。……おおそうだ、来週の記念パレードが終わる頃には駅前に新しい店が出来るんだ。そこでパフェ奢ったるから勘弁してくれや」
「御堂さんが食べたいだけでしょっ!?」
人のプライバシーにズケズケ入ってくる困った人に、私は拳を振り上げる。……でもまぁ、不吹君も元気そうなら……良かったかな。あの事件の時は、本当に大変だったんだから。
「……ま、今はアイツを信じてやるしかねぇしな」
「え?」
「いんや、こっちの話。それよりあの事件以来、随分仲良くなったらしいじゃねーか。で、どこまで行った?」
「なっ、ちょっ……ん、んもぉーっ!」
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