第2章『ゾンビ・ガール』(2)
……さて。
ここは黒曜館という、いわゆる田舎の診療所。
駐車場を備えてもなお余裕のある敷地面積に、生活用の別宅を備えており、なかなか豪奢な造りの物件だったりします。
ちなみに現在、わたしたちが話し込んでいる場所は、一軒家の二階にある『閃祈の部屋』――つまりは、わたしの部屋になりますね。
で、目の前にいる〝あかりちゃん〟は駅前の塾に向かう前に、黒曜館に立ち寄ったわけですが。
「ほんっと、ここらへんは生活しやすそうですね。私の家は田んぼのド真ん中で、自動車がなければ不便きわまりないです。私自身もバスか自転車で、塾や黒曜館に通っていますし」
「いやいや、そういうところは鈴虫の鳴き声とか、なかなか風情があって愉しいでしょう。純粋な田舎の環境も、それはそれで素敵ですよ。このあたりなんて、自動車どもの排気音でうるさいだけなんですから」
「他人事だから、そう言えるんです。知ってますか? 田んぼは水場だから蚊が凄いんですよ。まあ、私は蚊に刺されづらい体質ですが」
「うへぇ。わたしには耐えがたいですね、そこは」
前言撤回。
わたし個人にとっては、黒曜館の方が素晴らしい場所でした。
ちなみに駅チカという好立地なこともあり、周辺には生活にあたって困ることのない商店を一通り揃えているなど……つまるところ〝漆黒ナース〟としての業務的にも、この立地は非常に助かっています。
が、それとは別に不満はあるのです。
「でも騒音とか、人通りが多くて、ときどき息が詰まりそうになったりとか。田舎とはいえ栄えている方ですから、夜は治安が悪くなりますし。便利とは引き換えに、色々と困ることがあったりするんですよ」
「そういうものなんですかね。塾よりも学校の方が遠い、私の家なんかよりは恵まれていると思いますよ……それはさておき。閃祈さん、蚊が右腕に止まってますよ」
「え、ほんと?」
あかりちゃんに指摘されたとおり、わたしが自分の右腕に視線を向けると、そこには腹をぷっくりと膨らませた大振りの蚊が止まっていました。
それだけでなく、あかりちゃんは視線を下に向けながら、さらに指摘します。
「閃祈さん、血液型がO型ですからね。私は刺されていませんが、閃祈さんは左足も刺されてますし。いままで気付かなかったですけど」
「うっわ、最悪。えいっ」
〝ばちんっ!〟
わたしは手で叩いて、それを〝ぷちっ〟と駆除しました。
すると向こうで『あっ、一匹潰された』という声がしたのです。
「いまの声って、灰城さん?」
「どうやら、そのようですねぇ……まったく」
つまり、いまの蚊は〝彼の仕業〟によるものでしょう。
「乙女の柔肌に、なんてことをしてくれるんですか」
「閃祈さん?」
わたしの中で、ふつふつと怒りが込み上げてきました。
ここは一度、キツめに言っておくべきでしょう。
部屋の換気目的で開けていた扉の先から、のっそりと件の彼が現れました。
おそらくは二階の書斎から、階段の方に向かう途中だったのでしょう。血液回収中の暇を読書で潰すのが、彼の習性なのですから。
それが終わったら、眷属を回収するため一階まで降りてくるという訳です。いわく、眷属の蚊は高所に弱いための対処法だとか。
「ツイてないなぁ。あと一匹で、今月分の血液が回収できたのに……あっ、閃祈さん」
「また貴方のせいですか、灰城さん! 黒曜館の中で、眷属さんを無作法に放つのはやめてくださいって言ったでしょう!? これ、わたしだけじゃなくて神楽坂先生も言ってましたからね! 彼も同じ血液型ですから!」
「もしかして蚊に食われちゃった? あー、えっと、ごめんね。閃祈さんの血液型はO型だから、蚊だけじゃなくて、吸血鬼も大好物だったりするんだよ。だから眷属でも、ついつい寄っちゃうんだ」
「ええ。ですから気を付けてくださいよ、眷属の扱い」
「……ここら辺の人、なぜかO型の人すくなくてさ」
「なにが言いたいのですか?」
小蠅みたいに両手を揉み合わせながら、灰城さんはニヤけた表情を作ります。
まるで〝ごますり〟でもするかのような態度が、わたしを余計に苛立たせました。
一発ぶん殴ってやろうか。
「あの、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけでいいから――ぼくのために献血して?」
「する訳ないでしょうがっ、この変態吸血鬼ぃ!!」
――ふっざけんなぁ!
罵声を飛ばしながら、わたしは先生から頂いた〝純銀の十字架〟を懐から取り出し、変態野郎の頭頂部を思いっきり殴ってやりました。
〝ごつんっ!〟
「あいったぁ! うっ、うぅ……痛いよぅ、悲しいよぅ……というか純銀だよね、これ……禿げちゃうかも」
「それマジですか!? よし、もっと殴りましょう!!」
「やめて、やめてぇ!! 生えなくなったらどうすんのさぁ!?」
「禿げるくらいで男が喚くなっ! 女々しいったらありゃしない!!」
「酷い、惨すぎるぅっ!?」
涙目で逃げ惑う灰城さんを追いかけながら、わたしはぶんぶんと十字架を振り回します。
「仕方ないじゃないか! だってO型の血液が一番美味しいんだよ? 人間の味覚に当て嵌めるなら〝甘酸っぱいスイーツ〟なんだよ……おやつに最高なんだよ!!」
「知ったこっちゃないですよ! こっちは痒くてムカつくんですってば! くっそぅ、いまは秋ですよ、蚊に食われるのは季節外れなんですよぉ!」
ああ、とうとう右腕が痒くなり始めました。
おまけに気付かなかった左足の、くるぶしあたりも痒みが走ってきます。
灰城さんを追って走るたびに、痒みも走るというジレンマ。
そんな最中、わたしのイライラが頂点に達しかけた――そのとき。
「灰城――いえ、折挫さん」
わたしたち二人とすれ違った、あきらちゃんが灰城さんに声を掛けたのです。
振り向いた彼は「ちょっとタイムね」と言ってから、わたしに制止を意図する挙手をして、彼女に挨拶を返します。
「おや、あかりちゃんも来てたのかい。こんにちは」
「はい。えっと、こんにちは……っ」
恥じらいながらも、あかりちゃんは声を振り絞って、灰城さんに挨拶しました。
……んん?
どうして彼女は頬を仄かに赤らめながら、熱烈な視線を〝蚊人間(きゅうけつき)〟に向けているのでしょう?
さらにいえば、どことなく興奮しているような、やけに息が荒いといいますか。
わたしは状況を把握できず、そのまま立ち呆けてしまいます。
「よ、よければ、その……私の血液、貴方に捧げます」
「え? ちょっと、あきらちゃん。なんの冗談――」
「閃祈さんは黙っててください」
「あっ、はい」
あかりちゃんから〝ぶっ殺されそうな〟視線で射抜かれて、わたしはたまらず閉口してしまいました。
えっと、なんですか?
女としての本能が告げています。今のあかりちゃんには手を出すな、と。
恐れ慄いたわたしは一歩引いて、彼女からの視線を一身に受ける誰かさんを窺いました。
あかりちゃんには何もしようともせず、ただ彼女を眺めては、時折〝くんくん〟と匂いを嗅ぐ仕草をしている、紛うことなき変態の姿がそこにはありました。
――犬畜生の真似をしている場合ですか、灰城さん!?
「どうしたのですか。ほら、どうぞ」
「いや、ちょっと待って。確認がしたいんだよ。ぼく、正直そこまで飢えてないから」
「……待てません」
焦れったそうに悶えながら、あかりちゃんは灰城さんに懇願する眼差しを向けていましたが。やがて彼女は堪え切れなくなったのか、灰城さんの制止を無視して首筋を露出しようとワンピースの上着に手を掛けて――
って、マジに何してるんですか!?
混乱したわたしを他所に、彼女は灰城さんに一歩、二歩と詰め寄りつつ、催促し続けました。そうしている間に、幼い柔肌が露わになってゆきます。
「いかがですか? 子供相手だからって、なにも遠慮することはありませんよ。だって私は、貴方になら――」
「こ、こらぁ!? はしたないですよ、あかりちゃん!!」
あかりちゃんの暴走を止めるべく、わたしは彼女の背後に回ってしがみ付きました。
外した肩紐は零れ落ちていて、ワンピースの方が両腕で支えることで、なんとか胸元から下を隠しているだけの現状。彼女の髪型は〝おかっぱ〟なので、すでに背中の大部分が露出しています。
そんな彼女を見て、灰城さんは困った顔をしながら返事しました。
「……うーん。君、匂いからして〝AB型〟だよね?」
「はい。さらにはRHマイナスと、大変レアな血液型です。どうぞ、お召し上がれ」
「それはちょっと頂けないかなぁ」
「え……?」
首元から、ほっそりとした肩まで露わにしている彼女が、まるで愛の告白でも断られたかのような絶望を顔に浮かべながら、ぴきっと静止してしまいました。
……あかりちゃん、ほんとにどうしちゃったんですか?
「だって、AB型の血は〝ものすごく渋くて苦い〟んだよねぇ。一部の方には好まれるけど、ぼくは残念ながら〝甘党〟だから飲めないんだ」
理由を述べた灰城さんは、あかりちゃんの頭に掌を乗せてから言いました。
「ごめんね、あかりちゃん。その気持ちだけでも嬉しいからさ。本当にありがとう」
「は、はい……」
彼女の頭を撫でながら、灰城さんは感謝を口にしました。
いつもなら『事案ですっ!』といって止めさせるところですが――あかりちゃんの様子を見るかぎり、どうやら嫌がってはいないようですし。
でも、なんでしょうか。今のあかりちゃんは嬉しそうなのに、どこか憂いているような。
彼女の顔を見ているだけで、わたしの胸も締め付けられるような気持ちになってしまったから、入り込む余地が無かったのです。
……そっか。あかりちゃんは灰城さんに、はじめての想いを寄せているんですね。
でもちょっと男の趣味が悪いんじゃ――いえ、蓼食う虫も好き好きと言いますし、わたしがとやかく言う資格はありませんね。本音を言えば、あかりちゃんの将来が不安ですけれど。
とりあえず彼女の背後から、そっと肩紐を元に戻して、はだけた衣服を整えておきます。
それから、わたしは気になったことを灰城さんに訊いて、いろいろと気まずい空気を変えようと試みました。
「ところでA型とB型の味って、どんな感じなんですか?」
「うーん。実をいうと、なんとなく人間の味覚に当て嵌めているだけで、合ってるかは自信ないのだけれど。A型は〝しょっぱい〟のと〝うまみ〟っていうんだっけ? ほら、肉や魚とか、メインディッシュに相当するような味がすると思う」
「えっと……つまり〝普通の味〟なんですか」
「そうだね、A型が〝普通に美味しい〟基準の味かな。で、B型は〝スパイシー〟〝辛い、酸っぱい〟とか、刺激的な味だね。A型を主食、O型をデザートと捉えるのが〝一般的〟だけど、B型が一番大好きっていう吸血鬼は結構多いんだよ。複雑な味わいにハマってさ」
「きゅ、吸血鬼にも〝グルメ〟はあるんですね……」
引き気味に答えながら、わたしはあかりちゃんの様子を窺います。
先程まで鼻息荒くしていた彼女ですが、いまではすっかり大人しくなっていました。
そんな彼女に、灰城さんは〝ぽんぽん〟と頭を優しくタッチしてから、ゆっくりと一歩ずつ離れてゆきます。
「そりゃまあ、吸血鬼にも〝好みの味〟ってのはあるさ。だから、あかりちゃん。あんまり気を落とさなくてもいいんだよ。きっと、君の味が好きだっていう吸血鬼がいるからさ」
それを聞いて嬉しく思うヒト、いますかね?
……ああ、いました。
ここに一人だけ、そういう奇特な趣向を持っている女の子が、目を潤ませながら身を震えさせていました。
「……あなたでなければ、いや」
「え? いま、なんて?」
なにかを小さく呟いた彼女は、一歩離れた位置の灰城さんに手を伸ばして『征服王に、俺はなるっ!』とプリントされた〝痛Tシャツ〟の裾を掴みました。
――ひょっとして、それはギャグのつもりで着ているんですか灰城さん?
「あ、あかりちゃん? そろそろ手を離してくれないと、僕のシャツが伸びちゃうんだけど……?」
「いやぁ。だめ、なの」
まるで二度と離したくないと云わんばかりに、あかりちゃんはぎゅっと手を握りしめます。
灰城さんを見上げている、その表情を窺うと、下唇を噛んでは意地でも言うことを聞かないという、いつもの彼女らしからぬ子供っぽい頑固さを露わにしていました。
そんな様子に困惑しつつも、わたしは彼女を元気づけるべく言います。
「そうですよ。というか吸血鬼の舌に合わない血液っていうのは、逆に安心できることじゃないですか。変態に襲われても助かりますし」
「ちょっと待って。どうして変態に襲われても助かるのかな?」
「自覚ないんですか? 変態は貴方のことです。それにね、あかりちゃん。他人を好きになるのに〝美味しい〟かどうかなんて関係ありませんから、まったく気にしなくていいんです。味なんかより、あかりちゃんの可愛さや人柄を好きになってくれた方がいいんですよ」
「……はい」
「閃祈さんって、どうしてぼくにだけは辛辣なのさ――もしかして好きとか。じ、実はぼくも、以前から君のこと、ちょっと良いなぁって……あっ、言っちゃった。なんか照れちゃう」
「自意識過剰にも程がありますよ。キモいし。しかも、あかりちゃんの気持ちを察しようとせずに他の子を口説き始めるとか……男としてサイッテー」
そ、そこまで言うかなぁ……と崩れ落ちながら、情けなく灰城さんは項垂れます。
どうでもいい彼を横目に、わたしはしばらく物思いに耽りました。
ばっさり切り捨てたのはいいですが、実をいうと、わたしも甚だ疑問だったりするのです。
「そういえば、なぜでしょうね。はじめて出会った時から、なぜか防衛本能といいますか。すこしでも気を許すと〝色目を使われる〟って思っちゃうんですよ」
「そ、そんなこと、もう二度としないよ!」
「は? もしかして、わたしの記憶がない半年も以前に――」
「……あっ」
失言をしたことに気付いた灰城さんは、両腕を慌ただしく振って否定しながら、みっともなく釈明しようとします。
が、はっきりいって、わたしは許す気がありませんでした。
というか、もうキレてました。
「ち、違うよ。っていうか、そんなに最近のことじゃ――」
「じゃかあしいっ! 言い訳なんて聞いてませんよ!!」
「ちょっとは話を聞いてくれよ! そんなにぼくを変態にしたいのか!?」
「聞いて欲しいのでしたら、すこしは自分のしている〝女の子の血を蚊で吸って嬉しそうにする性癖〟の罪深さを自覚してくださいっ! この虫刺されフェチ野郎!!」
「その言い方だと確かに犯罪臭すごいね!? というかぼく、虫刺されにまで興奮しないから――じゃなくて。そもそも君に〝魔眼〟を使ったのは……たしか黒曜館に訪れたばかりの三一年前、しかも別個体であって」
「……ぐすっ」
「え、あかりちゃん!?」
なにやら変態が重大なことを口走ったような気がしますが、それどころではありません。
わたしたちが気付いた頃には、ぼろぼろと涙を零し始めながら、あかりちゃんが泣いていたのですから。
「だって、だってぇ……折挫さんのばかぁ」
「――ど、どうしてくれるんですか、灰城さん!!」
「えっ、ぼくのせい!?」
びぃびぃ泣き喚く彼女の姿には、いつものような大人っぽさは何処にも無くて。
わたし達は必死で、ただの可愛い女の子を宥める他はありませんでした。
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