九-三 榊間莉那
車はすでに止まっていた。桐生はただただ黙って榊間の話を聞いていた。聞かざるを得なかった。
彼女の話は、桐生の頭を揺さぶっていた。
この話は、現実なのか?
彼女は、榊間なのか?
この男の子は、自分なのか?
これは、一体……
もし、この話が本当なのだとしたら、目の前の彼女は、誰なのだ。
そもそも、自分は何者なのか?
わからない。
わからない。
わからない。
桐生には、何もわからなかった。何も理解できなかった。ただ、背中に這いずる、寒気のような感触が桐生にずっとまとわりついて離れなかった。
「……話はこれくらいにして、外に出ましょうか」
そういうと榊間は車の扉を開け、外に出ていった。
桐生は、まだこの場から動けずにいた。
彼女が会わせたい人物……それは間違えなく彼女の語った人物、この茶番の立役者だろう。その人物に会えば、彼女の話が本当なのかどうか分かるかもしれない。
しかし、と桐生は思った。もし本当だとしたら、どんな顔をして会えばよいのだろうか。なんて言葉を掛ければよいのだろうか。
これからどうやって生きていけばよいのか……
そんな桐生の気持ちを知ってか知らずか、榊間は桐生を手招きする。
そう、このまま座っていても仕方がない。桐生は意を決して、車の外へと足を進めた。
彼の目の前には白い壁が広がっていた。光沢のあるツルツルとした白い壁だった。上を見上げると、天井が閉じているのがわかる。ドーム型になっているのだろうか。いずれにしても桐生が見たことのないような家であった。桐生が呆けたようにその白い壁を眺めていると彼女から声がかかった。いつの間にか扉を開けていたようだ。
彼女に導かれるまま、桐生は囲いの中に入った。
目の前に入ってくるのは、まるで鮮血で染められたかのような、赤い、赤い風景だった。
庭、なのだろうか。鳥居が何本も綴られてできた道に、その両脇には彼岸花が所狭しと咲き乱れていた。そして、天井は閉じているはずなのに、妙に明るい。天井のどこかに光源があるのだろうか。ともかく、異様な光景だった。
桐生はその赤い光景の先に、何か建物らしきものを発見した。それは階段に縁側と、それはどこか神社の本殿を思わせるような作りをしていた。
彼女は鳥居でできた道を歩いていった。桐生も彼女の後に着いて行く。彼女はこの光景を異様だとは思わないのだろうか。それともこれが彼女の日常なのだろうか。
桐生がそんなことを考えているうちに、奥の建物の入り口まで辿り着いた。その入口には、巫女服を着た女性が待っていた。彼女の姉だろうか。その女性は彼女によく似ており、どこか大人びた雰囲気を纏っていた。
「おかえりなさい、お母様」
その女性は彼女にそう言った。
お母様? 何かの冗談なのだろうか。どちらかと言うと逆のような気がするが……
当然の疑問が桐生の頭を過ぎったが、そんな疑問を無視して会話が進んでいった。
「はい、ただいま帰りました」
「彼が……」
「はい。彼が桐生くんです」
「そう、彼が……」
そういうと、その女性は、まじまじと桐生を見た。桐生は少し気恥ずかしくなり、目線を逸した。
桐生を十分観察し終わったのか、しばらくすると、その女性はまた彼女の方を向き、話を続けた。
「……お母様に会わせるのね」
「はい、そのつもりです」
「これで、ようやく終わるのね」
女性がそういうと、彼女は頭を振った。
「いいえ、違います。これから始まるんです」
彼女はきっぱりと断言した。はっきりとした、力強い言葉だった。
「そう……そうね。その通りよ。ごめんなさいね。変なこと言って」
そう言い終わると、その女性は部屋の奥の方へ目を向けた。
「あの人ももう長くないわ。早く行ってあげて」
「はい、そうしますね」
そう言うと彼女は前へ足を進めていった。桐生も慌てて彼女の後ろをついて行った。
「ねえ!」
桐生の後ろから大きな声がした。あの女性の声だった。
「これが終わったら、どうするつもりなの!」
悲痛な叫びだった。一体何がその女性を悲しませているのか、桐生には分からなかった。しかし、桐生には、心を揺さぶるような、胸を引き裂くような、そんな声のように思えた。それにも関わらず、彼女は後ろを振り返らなかった。
「私は……もう……」
その女性の叫びに、彼女は一度も振り返ることはなかった。
「なあ」
桐生は前を歩く彼女に呼びかけた。
「なんですか? 粋人くん」
「さっきの女の人は、一体何者なんだ? 何か呼び止めていたようだけど、行かなくてよかったのか?」
「ああ、あの人ですか。粋人くんは、あの女の人が気になるんですか」
「そりゃあ、まあ。気になるよ。顔だって君によく似ているし……ひょっとして、お姉さんだったりするのか?」
「いいえ、違いますよ。強いて言うなら、そうですね……」
彼女は後ろを向き、肩越しにこう答えた。
「共犯者、ですかね」
共犯者……桐生は頭の中でもう一度その言葉を繰り返した。この事件の協力者という意味だろうか、それとも……
「まあ、ある意味犠牲者とも言えますが、仕方がないですね。何事にも失敗はつきものですから」
彼女はまたくるりと頭を前に戻し、何事もなかったかのように歩みを進めた。
犠牲者……失敗……桐生は彼女の言葉が気にかかっていた。どこか引っかかるその単語群はまるで靄の掛かったかのように輪郭が滲み、ぼやけ、霧散していった。
「ところで、」
彼女は急に話題を転換した。
「粋人くんは、信じていますか」
「何を……」
「私が車の中で言った話を、です」
「それは……」
桐生は即座に答えることができなかった。桐生の中でもまだ整理できていない話なのだ。真実と言い切るには、話が壮大過ぎる。かといって、嘘だと断言することもできない。彼女の話には思い当たる節が幾つもあるからだ。
「ちゃんと理解できていますか」
理解……そう、彼女がその話を桐生に話した理由を考えなければいけない。彼女の話を理解しなければならない。
「なぜ、私はこの話をしたんでしょう?」
桐生は考えた。
なぜ、彼女は茶番の張本人の身の上話を自分にしたのか。
それは、自分に関係のある話であるからだ。今日の茶番に関わった当事者として桐生は関わっている。その茶番を引き起こす経緯は、桐生と無関係とは言い難いだろう。よってこの話を桐生にするのは納得の行く話ではある。
しかし……それだけだとは、とても思えない。もっと深い理由があるはずだ。
「なぜ、話の中の彼女は、私を想起させるような人物なのでしょう?」
なぜ、その話の彼女は、榊間本人だと思わせるような人生を辿っているのか。
その話に出てくる女性と、今桐生の目の前にいる彼女が同一人物なのか……いや、そんなはずはない。話を信用すると、その女性は随分と年を取っているはずである。同じ人である訳がない。
それでは、他にどんな理由があるのか。彼女の創作? だとしてもその意図が分からない。
「なぜ、その話に出てくる男の子は、粋人くんを連想させるような人物なのでしょう?」
なぜ、自分だと思わせる男の子が出てくるのか。
もちろん、その男の子は、桐生ではない。それは自分自身がよく分かっている。しかし、なぜ、自分の体験をなぞるかのような話が出てくるのか。それがわからない。
「再現とはなんですか?」
再現……過去に起こったことを今に復元すること、繰り返すことだ。彼女の語った話は過去であるなら、必然的に、再現されたのは今、ということになる。
では、今、何が再現されているのか。
再現されていることには思い当たる節がある。
あの夜、神社で彼女と出会ったこと。
弓立と言い争いがあり、桐生が殺されたこと。
そのどれもが、桐生が体験しており、彼女の話で語られたことだ。
つまり、桐生は……
「あなたは、誰ですか?」
「私は……」
もし、彼女の話が本当だとしたら。
本当であるとしたら。
「私は、桐生粋人のコピー、なのか……」
そう、ここにいる桐生は何十年も前に死んだ桐生粋人のクローンだ。
彼は彼女たちによって再現された存在だった。
すべては桐生粋人を、榊間莉那の恋人を蘇らせるため。
彼の今まで見てきた風景も、人物も。
友人も、両親も、そして彼女も。
すべて彼を桐生として再現するための役者。
容姿も口調も思考も感情も。
すべて作り物。
運命的な出会いをしたあの夜でさえも、だ。
彼女は桐生の言葉に足を止め、振り返り、彼の目を見た。
そして、薄く微笑み、彼に送るべき言葉を紡いだ。
「正解です。桐生粋人くん」
「これから会う人は、粋人くんを再現した人です。過去の粋人くんの、恋人であり、神様であり、そして、今の粋人くんを作った人です」
そう、桐生は作られたのだ。その途方もない再現によって。
「彼女は粋人くんを本気で愛していました。粋人くんの知っていることや見たことを手に入れるためには手段を選びませんでした。粋人くんに関わる情報を手に入れるためなら、例えどんな人物であっても、殺すことを厭いませんでした。ストーカーであっても、粋人くんの両親であっても、です。粋人くんが蘇ることのできる時代まで幾らでも待つことができましたし、その膨大な準備も苦になりませんでした。粋人くんのためなら、愛する恋人のためなら、どんなことであろうとも実行したんです。本当に、本当に、彼女は粋人くんを愛していたんです」
そうなのだろう。これだけ、時間のかかる、長い、長い計画をやり遂げたのだ。彼女は、本当に、桐生を愛しているのだろう。
しかし、桐生は、今、ここにいる桐生は悩んでいた。
今まで行ってきた行動も、決断してきた覚悟も、すべて、最初から決まっていたのだ。自分で選んできたと思っていたことは、すべて、誰かに選ばれ続けてきたのだ。桐生にとって、それは、自分が自分であるというアイデンティティの喪失に他ならなかった。
桐生は、これから、会う彼女に対して、どのような感情を抱いたら良いのか、分からなかった。
「……彼女に、会ってくれますか?」
目の前の彼女は桐生に語りかけた。
桐生の中には不安や困惑といった、様々な感情が渦巻いていた。
それでも……と桐生は思った。それでも、彼女に会わなければならない、会って話をしなければならない、そう思った。この膨大な茶番劇に終止符を打たなければならないと、そう感じていた。
「もちろん、会うよ」
「そうですか、それでは、また、案内しますね」
彼女は再び歩き出した。
どれくらい歩いただろうか。桐生が気がつくと、目の前には、白く塗り潰された、小さめな扉があった。
この部屋です、と彼女が言うと、扉に向かってノックをした。
「私です。入ります」
そう言うと彼女は、扉を開けた。
部屋の中は真っ白だった。上も下も、右も左も、不思議と境界線が見当たらず、ただただ、真っ白な空間が広がっていた。部屋の中にはものと呼べるものがほとんどなかった。ただ、奥の方にベットのようなものがちょこんと置かれているだけだった。
彼女はそのベットに向かった。近づいていくと、どうやら、誰かがベットの上で寝ているようだった。
「彼を連れてきました」
一言、彼女が告げると、桐生を手招きした。
桐生は彼女に導かれるまま、そのベットに近づいていった。
ベットの上には、老婆が寝ていた。
その老婆は真っ白な寝間着を着ており、腕や頭から、透明なチューブが何本も伸びていた。その様子は、桐生には、無理やり生かされているように感じられた。
老婆は桐生の存在に気付いたのか、顔を僅かに桐生の方へ動かした。その目には今にも死にそうな老婆の体には思えないほど、強い光が宿っていた。
「……やっ……と」
老婆の口元が僅かに動いた。そのシワだらけの顔からは発せられる音は、弱々しいながらも、はっきりと桐生の耳に届いていた。
「……あなた…に……あえた……わた……しは……ずっ…と……ず……っと……あな……たに……あい……た…かった……なが…い……な…がい……じか……ん…が……か…かって……しま……った…わ」
もうすぐそこまで寿命が来ているのだろう。その言葉の一つ一つを出すのに、声を振り絞っているという感じだった。桐生は、その老婆の言葉を黙って聞いていた。聞かざるを得なかった。老婆の必死な呼びかけに桐生は動揺していた。心を、揺さぶられていた。どうして、自分のために、ここまでするのか。どうして、自分のことを、ここまで想ってくれているのか。どうして……
「……もう……にど…と……あなた……を……うし……なっ……たり……しな……い…わ」
老婆の視線も、想いも、すべて、桐生に向けられていた。桐生だけに向けられていた。桐生はその視線も、想いも、受け入れていた。桐生は目頭が熱くなっているのを感じていた。胸の中に、熱いものが渦巻くような、そんな感覚を桐生は味わっていた。
「……すい…と……くん……あの…ひ……いえ……なか……った……こと…ば……が……ある……の」
あの日聞くことのできなかった言葉……桐生が弓立に殺された日に何を伝えたかったのか。桐生は知らなければならないと思った。あの日の彼女の想いを今この場で、桐生は聞かなければならないと、そう思っていた。
「わた…し……は……あな…た……を……あい…し……て……いま……す…………ずっ……と……わた…し……の…そば……に……いて……くれ……ます……か……」
老婆の手がすっと桐生の方へ伸びていった。桐生はその手を取り、しっかりと握った。シワだらけの、柔らかく、そして冷たい手だった。
ずっと、側にいてほしい……これがあの日伝えたかった言葉だったのだ。その言葉を伝える前に、皮肉にも桐生は、側から離れてしまったのだ。あの日、彼女が伝えたかった言葉に、桐生はどう答えるか。桐生には、始めから回答が決まっていた。
「もちろん、側にいるよ」
老婆は桐生の言葉を聞くと、優しく微笑み、そして、ゆっくりと目を閉じた。
桐生は老婆の手をベットの上に戻すと、もう一度、老婆の顔を見た。
僅かにあった呼吸音は完全に止まっていた。
老婆は、満足そうな顔をしていた。
そしてこの日、榊間莉那はベットの上で息を引き取った。
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