九-ニ 昔話

 その人は、いえ、彼女は宗教家の娘として生まれました。宗教とはいっても、世によく知られているような有名な宗教ではありません。比較的新しい考え方に基づいた、いわゆる新興宗教と言われている類のものです。彼女の父親はその宗教の創始者の一員であり、宗教活動の根幹に関わっていました。

 彼女には、母親はいませんでした。母親は彼女を産んだ後、直ぐに亡くなってしまったからです。そのため、彼女は父親に男手一つで育てられてました。直ぐに彼女の母親が亡くなってしまった影響か、父親は彼女を、病的と思えるほどに、それはもう大切に育てました。その育てようといったら、自分の所有している敷地以外には極力出さないようにし、自分の信用できる信者以外の人間には決して彼女を会わせようとさせないほどでした。文字通り、箱入り娘のように育てられたわけです。

 そのため、彼女の生きる世界は世間一般の人と比べると非常に狭いものになりました。彼女の目に映るのは、よく見知った自分の家と、信者、そして父親だけでした。彼女は毎日のように、信者と父親に彼らの宗教についての話を聞いていました。もちろん、彼女は彼らの話を疑うことはありませんでした。その結果、彼女は小学生ぐらいの年齢になると、その父親の教えのもと、宗教活動に参加するようになりました。

 彼女には、父親の存在は絶対的なものでした。父親の考え方に異論を唱えることはもちろん、宗教の教えに背くことなど考えられませんでした。彼女は生まれながらの信者だったのです。その絶対的な信仰心が彼女の行動にも影響を与えたのか、彼女の振る舞いはまさに、神に仕える巫女そのものでした。彼女が巫女を務める行事はどこか神秘的で、それこそ神懸ったかのように見えました。その彼女の凄みを帯びた神事を見た人達は、彼女の宗教を信じるようになりました。こういった彼女の活躍もあり、新しい信者がみるみるうちに増えていきました。これまで小規模であった宗教活動が次第に大規模なものになってきたのです。

 このように、順調に見えた宗教活動でしたが、規模が増えることにも弊害がありました。内部の腐食が発生していたのです。最初は自分の考えを啓蒙するだけの清廉潔白な活動を貫いていましたが、規模が大きくなり、信者の寄付が増えるに従って、欲が生まれてくるようになりました。もっと宗教を広めたい、もっと規模を大きくしたい。人の欲に限りはありません。やがて、汚いことにも手を出すようになっていったのです。

 規模を大きくするためには、お金がかかります。信者の寄付だけでは決して十分とは言えません。十分な資金を持っている人の協力が必要になります。つまり、その宗教を後押ししてくれるようなパトロンを欲していたわけです。もろろん、その支援者たちは、宗教にある程度は興味を持っているわけですが、皆が、純粋に宗教を信じているわけではありません。見返りを求める人は少なからず存在していました。

 見返りとして要求するのは、大抵肉体関係でした。信者たちの体が目当てだったというわけです。もちろん、最初のうちは、そのような要求は拒否してきました。倫理観に反する行いだとして、決して要求を呑もうとはしませんでした。しかし、信者が増え、規模が大きくなると、運営にかかる費用が予想外に掛かるようになってきました。それこそ、数年で活動が立ち行かなくなるほどです。創始者たちは宗教家としては一流であっても、経営者としてはズブの素人だったので、そうなるのも無理はありません。彼らは支援者たちに頼らざるを得なくなってしまったのです。

 こうして、啓蒙活動をする裏で、特定の信者たちの体を売ることを始めるようになりました。もちろん、そのことを巫女を務める彼女は知る由もありませんでした。いくら箱入り娘の彼女であっても、その行為が決して許されないことであるのは容易に判断できます。彼女が反発するのは目に見えていたため、彼女に知られないように、極々小規模で行われていました。

 しかし、人の欲というのは恐ろしいもので、求める見返りがエスカレートしていきました。見返りを求める支援者たちは自分たちで信者の品定めを行うようになったのです。創始者たちは、その行為がやり過ぎであることは理解できていましたが、支援者たちを止めることはできませんでした。それほど、資金の援助が魅力的であったのです。このように、だんだん歯止めが効かなくなっていく中、いよいよ彼女に白羽の矢が立ちました。

 当然、彼女の父親はもちろん、他の信者たちは猛反対しました。自分たちが大切に育ててきた彼女にそのような行為は絶対にさせられないと激しく抵抗しました。しかし、この宗教に経営はすでに、支援者の援助なしでは立ち行かなくなるほど依存しきっていました。援助がなくなってしまうことは、この宗教の崩壊を意味していました。創始者たちは、支援者の提案を受け入れざるを得なかったのです。

 もちろん、提案を拒否し、一度この宗教の体制を解体することもできました。昔に戻り、小規模で細々と啓蒙活動をする道もありました。しかし、その決断を下すことはできませんでした。大切に育ててきた娘を売ってもいいと思うほど、今の宗教家としての地位が、多くの人に認められた自分たちの宗教が、大切だったのです。

 父親たちのこのような決断を知らない彼女は、支援者に教えを説くという名目で、とある神社に連れて行かれました。支援者と二人きりであったり、人気のない神社が会場であったりと、如何にも怪しい会合だったのですが、父親に対して絶対的な信頼を寄せている彼女は、その会合を微塵も疑うことはありませんでした。

 彼女が付き人に連れられて神社の本殿に入ると、そこには一組の布団が敷かれていました。当然彼女はその布団の存在を疑問に思いました。ここで一晩を過ごすことなど聞いていなかったからです。そこまで長い会合になるのかと、付き人に聞くと、そのようなことはありません、一時間程度で終わると思いますと、何故かバツの悪そうな顔で答えました。彼女は疑問に思いながらも、巫女服に着替え、付き人の指示に従い、布団の前で支援者を待ちました。

 しばらくすると、一人の男がやってきました。恐らく話に聞いていた支援者なのでしょう。その男は不気味な笑みを浮かべながら、彼女の隣に座り込みました。彼女は戸惑いを隠すことができませんでした。話を聞くのなら対面に座るはずだと考えたからです。その男の態度は明らかに話を聞く様子ではありませんでした。その男はさらに、撫でるような仕草で彼女の肩に手を置きました。その男は彼女を舐め回すような目で見ていました。嫌っ、と彼女はとっさにその男の手を払い除けました。彼女の中で、その男に対する嫌悪感が募っていくのがわかりました。

 父親から話を聞いていなかったのかい、とその男は彼女に言いました。何を……と彼女が答えると、その男は今日の目的を下卑た顔を浮かべながら説明しました。

 彼女はその男の言うことが信じられませんでした。今まで信じてきた人達が、父親が、自分を売るなんて考えられない、と彼女は主張すると、その男は一枚の紙を彼女に手渡しました。

 その紙には今日の行われる内容が簡単に記されていました。その内容はその男の言ったものとほとんど一致するものでした。そして、その筆跡には確かに見覚えがありました。見間違えるはずがありません。その筆跡は紛れもなく、父親のものでした。

 彼女は血の気が引いていくのがわかりました。紙を手に持ったまま、動くことができませんでした。その紙には、はっきりと彼女に対する裏切りが記されていました。

 しかし、彼女は信者たちに、そして父親に裏切られたことをまだ完全に飲み込むことができませんでした。彼らは今まで自分を大切に育ててきた人達です。その人達は彼女の世界のすべてでした。自分の世界に裏切られることを簡単に容認できるはずがありません。何かの勘違いだと、何か間違いがあったのだと思うのも無理はありません。彼女は、必死に、必死に、理由を、解釈を求めました。しかし、それらしい理由も解釈も見つけることができませんでした。

 君はね、売られたんだよ。男が彼女に囁きかけました。売られた、と彼女が男の言葉を反復すると、紙にぽたり、ぽたりと雫が落ちていきました。彼女はいつの間にか涙を流していたのです。彼女の世界はもうここにはありませんでした。彼女の世界は完全に崩壊していたのです。

 それからは、彼女はその男の為すがままにされました。男が彼女に触ろうとしても、抵抗せず、脱げといえば服を脱ぎ、奉仕しろといえば奉仕をしました。彼女の意識はもうこの世界には存在していませんでした。彼女の神は死んでしまったのです。

 気がつくと彼女は布団の上で横たわっていました。男ももういません。彼女は仰向けになり、ぼんやりと天井を眺めました。彼女は何も考えることができませんでした。彼女の心は空虚なものになっていました。今まで、育てられたこと、教えられたこと、信じてきたこと、活動してきたこと、すべてが無意味なように感じていました。

 二時間ほどすると、付き人がやってきました。付き人は申し訳なさそうに何かを呟きましたが、彼女の耳には届きませんでした。彼女は付き人に服を着せてもらい、そのまま、家へ送ってもらいました。

 家に帰り、玄関の扉を開けると、そこには父親がいました。父親は彼女を見るやいなや、彼女を抱きしめ、済まない、申し訳ないと何度も、何度も呟きました。彼女には何の感慨もありませんでした。父親の謝罪は、彼女のためではなく、自分が赦されるために、自分自身のために行われているのだと、理解していたからです。

 その日を境に、彼女が支援者に奉仕することが何度も繰り返されました。彼女にはもう抵抗も嫌悪感もありませんでした。ただただ言いなりとなって、黙々と作業を繰り返すだけとなっていました。彼女の心は完全に死んでしまったのです。



 そんな彼女にも転機が訪れました。

 その日の彼女は、支援者の奉仕を終え、本殿の縁に座っていました。その日の神社は赤いコスモスの花が咲き乱れていて、彼女はその様子を漠然と眺めていたのです。そうしていると、視線の向こうから、近づいてくる影が見えました。付き人が来る時間にはまだ早い時間です。彼女は不審に思い、その場で立ち上がりました。

 その影の正体は男の子でした。彼女とそこまで身長が変わらないことから、同じぐらいの年齢であることが察せられました。彼女が声をかけると、彼は少し怯んだ様子を見せました。地元の子供だろうか、と彼女が考えているうちに彼は彼女に話しかけました。

 彼が言うには、願いを伝えるためにこの神社にやってきたということでした。彼の言い分は無知で可愛らしい子供の発想そのものです。しかし、それは、自分の信仰する世界がなくなってしまった彼女にとって、笑えない冗談でした。

 彼女は直ぐさま彼に言いました。ここには神様は存在しないと、神様など不要であると断言しました。彼女にとって宗教も、神様も、父親も、すべてまやかしの存在であるという、今までの彼女の人生の解答でした。

 しかし、神社に来た理由を強く否定したにも関わらず、彼は、彼女に話しかけました。代わりの神様を探せばよいのだと、そう彼女に語りかけました。

 当然、彼女は怒りました。自分の今までの人生の否定に等しい言葉だったからです。しかしながら、彼の言い分はある意味、的を得ていました。彼女の宗教はもう、彼女自身も信仰していません。しかし、その宗教を手放してしまえば、彼女の居場所は本当になくなってしまいます。自暴自棄になり、何もかもがどうでも良いと考えていたはずであるのに、心の底では、彼女は居場所がなくなることを恐れていたのです。

 彼女は自分の本当の気持ちに気づきました。彼女は自分の居場所を求めていたのです。父親や信者に裏切られたこと、それでもその場所に居つくしかないこと。彼に言われて、彼女はその状況をようやく把握できたのです。

 彼女はもう八方塞がりでした。手放すこともできず、かといってそのまま抱え込むこともできません。彼女の目には自然と涙が溜まっていました。彼女はその涙を見せまいと俯くことしかできませんでした。

 彼女が挫けそうになる中、彼は彼女に語りかけました。自分で神様を創ればよいと、彼女に言ったのです。それは彼女にとって天啓でした。父親たちの宗教を乗っ取り、自分好みの宗教にしてしまえばよいという、シンプルな解答でした。そうすれば、自分の今までの人生も居場所もすべてが肯定される。彼女にとってこれ以上ないほど、完璧な答えでした。

 彼女はようやく自分の居場所を見つけることができました。深い、深い、真っ暗闇の中でようやく自分のするべきことを見つけることができました。彼女は心の中が満たされていくのを感じていました。

 気がつくと、彼女は真正面から彼を見つめていました。その時に、溜まっていた涙が流れていきましたが、構うことはありませんでした。その涙はもう、悲しみを意味するものではなかったからです。

 突然現れた、見知らぬ男の子。邪険に扱ったのにも関わらず、彼女に言葉を投げかけてくれた彼。彼女に解答を与え、居場所を教えてくれた彼。そんな彼に、彼女は特別な感情が芽生えていくのを感じていました。恋心とも、信仰とも取れる、その感情が彼女を侵食していきました。

 それから、彼女と彼は、二人きりで、創る神様のことについて話し合いました。その内容に全く意味などありませんでしたが、彼女にとっては今まで味わったことのないほど楽しい時間でした。

 しかし、そんな幸せな時間にも終わりがやってきました。彼が急に倒れだしたのです。当然、彼女は動揺しました。慌てて彼女が助けを呼ぼうとすると、木陰から付き人がやってきました。どうやら、付き人は彼女たちの会話が終わるのをずっと待っていたようでした。もしかすると、普段から辛い目に遭わせていた彼女に対する配慮だったのかもしれません。 付き人は、直ぐに救急車に連絡しますから、と告げ、彼女に帰り支度を急がせました。彼女がこの時間にこの神社にいるのを詮索されるのは、都合が悪いと考えたのかもしれません。彼女は救急車が神社に着く前に自宅へ戻されました。

 この翌日、彼女は今いる自宅から引っ越すことになりました。逢引していた事実が部外者に、特に、事情の知らない信者に知られてしまうことを恐れていたためです。

 幸いにも、部外者の中で、彼女が神社にいたことを知る人はその男の子だけでした。自宅から遠い神社を逢引の場所に選んでいたおかげか、彼女の存在は神社周辺の住民に知られていなかったのです。当然、男の子は神社で彼女に会ったことを主張しますが、住民からは彼が見た幻覚だろうと無視されているようでした。

 しかし、男の子が彼女に再び会ってしまえば、幻覚ではなくなってしまいます。彼女がその夜に、神社にいたことがバレてしまいます。そうなってしまえば、疑問に思った信者たちが支援者が彼女と逢引していた事実を知ってしまうのも時間の問題です。事実を隠蔽するためにも、彼女と男の子を会わせないためにも、彼女が引越しすることが止む終えない選択だったのです。元々、宗教の拠点を移動する話も出ていたため、彼女が移動するのは対して不自然には映りませんでした。

 その引っ越しの最中、彼女は付き人からその男の子の名前を聞くことができました。彼女は、彼の名前を小さく口ずさみ、新しい拠点へと移動していきました。



 自分の神様を創る、宗教を乗っ取る……彼女はその目的のための行動を起こしていきました。彼女はまず、自分の味方を、自分の言うことを聞く人間を探し始めました。自分の言うことを聞く、とは言っても一般の信者では話になりません。宗教の運営に関われるような、内情を把握できるような人材を探していました。

 彼女はその人物に心当たりがありました。自分の父親です。

 父親は彼女に罪悪感を持っていました。娘よりも自分の宗教を取った彼ですが、大切に育ててきた自分の娘を支援者に売ってしまったことに少なからず罪の意識を感じていたのです。

 父親は彼女の意見をできるだけ尊重してくれました。彼女が欲しいものはできるだけ揃えるようにし、彼女が行きたい場所にも可能な限り行けるようにしてくれました。また、彼女の質問にもなんでも答えてくれました。彼女を売ってしまうこと以上に疚しい事など存在しないということなのかもしれません。

 このような父親の行動は、彼女に対する贖罪だったのかもしれません。こうすることで彼女に赦しを求めていたのかもしれません。

 長年、父親の様子を見てきた、父親を信仰してきた彼女にとって、父親がこういった苦しみを抱えていることなど手に取るように分かりました。父親の感情を知ることなど造作も無いことでした。

 しかし、彼女にはもはや父親に対して何の感情も抱いていませんでした。父親に対して憎むことも、悲しむことも、ましてや喜ぶこともありません。彼が自分の娘よりも宗教を選んだ時点で、すでに彼女の心は離れていたのでしょう。

 ただ、彼女は、使える、と思いました。自分の理想の宗教を創るために、父親を利用できると考えたのです。

 彼女は父親に宗教の運営状況が知りたいと言うと、父親は寂しげな微笑を浮かべ、彼女に話をしました。信者の中には、彼女を特に信仰しているものが多いこと、彼女が行っているような支援者への奉仕は信者には内密にしておいて欲しいということ、支援者に頼らなくても良いような資金の集め方を徐々に進めているが、それにはもう少し時間がかかるということを彼女に語りました。父親は言葉の最後に、お前をまだしばらくは苦しめることになるが、もう少しの辛抱だ、と言うと彼女を強く抱きしめました。

 彼女は初めて今置かれている状況を把握することができました。それと同時にある計画が頭の中に浮かびました。宗教を乗っ取る算段がついたのです。

 彼女は父親に提案しました。これだけ自分を信仰しているものが多いのなら、その信仰をより一層強めてみればどうかと。聖女として奇跡を演出してみればどうかと。

 これ以上、お前の負担を増やすことは……という父親の消極的な反対に対して、彼女はダメ押しをしました。父親を手伝いたい、力になりたいという彼女の言葉に父親は折れ、彼女の提案を採用することになったのです。

 こうして、彼女は聖女として活動を開始することになりました。彼女は信者の協力の下、次々と奇跡を演出するようになったのです。事前に個人情報を調べ上げることで、心の中を読んでいるように思わせることや、これから起こることの予言など、常人にはできない考えられることを目の前で演出することにより、彼女が特別な存在であるかのように仕立てられていきました。

 そういった彼女の活動の甲斐もあり、”彼女”の信者が増えてきました。彼女を本物の聖女であると思う人が増えたのです。

 彼女の信者が増えてくると、彼女は、経営に詳しい人物を探しました。宗教の経営難の解決を図ったのです。彼女自身による信者たちへの問答の末に、彼女は運良くその人物を見つけ出すことができました。


 その人物は、男性で、元々商社に勤めており、成績は極めて優秀で、特にマーケティングに関しての知識は一流でした。また、彼には妻子もおり、休日は必ず家族と過ごすようにするなど、家庭を非常に大切に思っていました。

 こうして、順風満帆な人生を過ごしていた彼でしたが、一年前に不運な事故が起こりました。交通事故で妻子が亡くなったのです。幸い、彼自身は一命を取り留めました。しかし、彼にとっては妻子が、特に自分の娘を育てることが人生における生きる目的でした。生きがいを失った彼は、酷く絶望しました。これ以上、お金を稼いでも、しょうがないということで、仕事もやめてしまいました。

 自分の人生に落胆し、すべてにおいてやる気を亡くした彼は知人から、ある宗教を紹介されました。彼は根っからの無神論者でした。ましてや、事故で家族を失った今となっては神の存在など信じられるわけもありません。

 彼は冷やかしのつもりで、その宗教をしているという神社に向かいました。彼の目に映るのは、まやかしの宗教を信仰している哀れな信者ばかりでした。下らない、と思いつつも、他にやることもない彼は、神事を最後まで見ることにしました。

 彼が神社の拝殿の中で大人しく座していると、奥の方から、シャリン、シャリンと鈴の音が聞こえてきました。しばらくすると、奥から、巫女服を着た少女が現れました。彼はその姿に思わず目を見張りました。その少女は、自分の亡くなった娘にそっくりだったのです。よく見てみると、確かに、顔の輪郭が微妙に違いましたが、彼にとってそんなことは問題ではありませんでした。彼には、亡くなった娘が蘇ったように見えたのです。

 彼は気がつくと、亡くなった自分の娘の名前を呟いていました。すると、巫女服の少女はニッコリと微笑み、彼に近づいていきました。そして、こう、囁きました。


 あなたは、神を信じますか?


 ……彼女は信者のツテを頼って非常に都合の良い人物を見つけることができました。彼女はその男が妻子を亡くしたことも、そしてその娘が自分にそっくりなことも知っていました。そう、すべては彼女の仕組んだ茶番だったのです。その茶番が見事に成功し、彼女はその男を自分の信者として手に入れることができました。

 後は簡単でした。彼女は彼に対して、支援者から得られた資金を提供し、その資金を増やすように命じるだけでした。

 彼は以前の仕事で培ったマーケティングの知識をフルに活かして、彼と同じ信者たちへ、伸び筋の有りそうな様々な分野へ起業を促しました。その殆どは失敗に終わりましたが、三つほどの企業は見事に成功し、収益を上げることが出来るようになりました。その余剰利益を宗教の経営に回すことで、次第に資金不足も解消できるようになってきました。支援者に頼らなくても運営できるようになってきたのです。

 後は不要な上層部と支援者を排除するだけとなりました。彼女にはその方法には良い考えがありました。

 彼女はすでに高校生となっていました。正確には、一般の高校生と同じ年齢になったというほうが正しいでしょうか。彼女は学校には、小学生の年齢から一切通っていなかったのです。

 ちょうどそのぐらいの年齢になった時に彼女は父親を経由して、支援者の一人を自宅へ呼び寄せることになりました。最近、奉仕をしてもらっていなかった支援者は喜んで、その招待に応じました。

 彼女は支援者が来る前にするべきことがありました。

 彼女は父親の部屋を訪ねました。父親は扉を開けると酷く動揺しました。彼女が服を着ていなかったからです。

 どうして服を――と父親が問いただそうとすると、彼女は父親の喉元に刃物を突き立てました。一瞬の出来事でした。刃物を突き立てられた父親は言葉にならない声を立てながらその場に崩れ去りました。彼女は父親の鮮血を浴び、体を真っ赤に染めながら、ただ静かに倒れた父親を見つめていました。

 今まで大切に彼女を育ててきた父親。

 彼女を裏切り、自分の宗教を優先した父親。

 彼女に贖罪を求めていた父親。

 そんな父親の死に彼女はやはり、何の感慨も湧くことはありませんでした。今はもう、水と脂質と蛋白質でできた塊としか見ていなかったのです。

 彼女は風呂場で丁寧に血を洗い流すと、巫女服を着て支援者が来るのを待ちました。

 支援者が来ると彼女は何事もなかったかのように、普段通りに奉仕を行いました。支援者も久しぶりの奉仕で興奮しているのか、彼女の父親の所在を問うことは一切ありませんでした。

 そうして、支援者が去ると、彼女は腹部に痣や切り傷を加えていきました。その作業が終わると彼女は付き人へ連絡をしました。父親が支援者に襲われた、助けて欲しい、と付き人に電話をし、慌てた様子で受話器を切りました。

 付き人たちが彼女の自宅へ向かうと、そこには虚ろな目で倒れた彼女がいました。彼女には痣や切り傷、それに下腹部には白い液体がかかっており、付き人たちの目には、彼女が襲われたことは明白でした。付き人たちは彼女を介抱しつつ、彼女の父親の部屋に入ると、そこには刃物を突き立てられた彼の死体がありました。

 彼女は弱々しい声で、事の顛末を話しました。父親の部屋へ支援者が入っていくと、口論らしき音が聞こえたこと、彼女が様子を見ると、支援者が父親を刃物で刺していたこと、支援者がそのまま、刃物で彼女を脅し、彼女を犯したこと、それらすべてを説明しました。

 付き人たちは怒りに燃えました。彼女の言うことを皆、信じて疑いませんでした。付き人たちは皆、彼女の信者だったのです。

 彼女はさらに、口論の内容を途切れ途切れに説明しました。支援者の一部は、好みの信者を慰みものに使っており、上層部はそれを今まで容認してきていた。そしてついには、彼女もその対象に入れようとしていたということを話していたと彼女は付き人たちに告げました。

 付き人たちは警察に連絡しましたが、支援者のことは黙っていました。支援者が捕まってしまうと、制裁を加えることができなくなるためです。

 信者の中に警察の関係者もいたおかげか、この父親殺しと彼女への暴行の事件は通り魔の犯行である未解決事件として扱われるようになりました。

 この事件と彼女の語った話は瞬く間に信者たちへと広まっていきました。もちろん、彼女が犯されたことなど、伏せるべき情報は伏せられましたが、それでも、信者たちは怒りました。彼女の話を真に受けた信者たちは、支援者と上層部の徹底的な排除を行うようになりました。その活動には、宗教をやめるように迫る消極的なものから、リンチのような過激なものまで、様々でした。その活動の甲斐もあり、宗教は見事に彼女を信仰するもの一色に染まり上がりました。

 すべて、彼女の描いたシナリオ通りとなりました。宗教には、今や、彼女を信仰するものしか残っておりません。自分を裏切った父親たちが創った宗教を乗っ取り、自分の宗教に塗りつぶすことができたのです。



 彼女は心身の衰弱を理由に少しばかり休養を取ることになりました。休養の間、彼女は信者のコネを使い、高校へ通うことにしました。もちろん、神社であった、あの男の子と同じ高校です。

 男の子の名前はすでに知っていたため、所在を知ることは容易でした。今まで何をしてきたか、どこの中学校に通い、どこの高校へ進学したか。手に取るようにわかりました。

 彼女を暗闇から救い出してくれた彼。今まで会いたくても、会うことの叶わなかった彼。彼は今どんな容姿になっているのだろう。どんな喋り方になっているのだろう。どんな考え方になっているのだろう。

 彼女は彼に会う日を楽しみにしていました。これからはもう、自分を遮るものなどないと、幸せな日々が始まるのだとそう信じて疑いませんでした。

 そして、彼女は転校生として再び彼に出会いました。最初のうちは、全くの別人として振る舞い、密かに彼の様子を観察していました。彼は彼女の出現に戸惑っているようでした。彼は確かに、彼女を覚えている、そういった反応だったのです。

 彼は、あの夜の日から成長しているようでした。背が高くなり、顔つきも彼女の記憶に比べ、幾分細くなったように感じました。声色はどうなっているのかは知ることができませんでした。彼が誰かに話しかけている様子を見ることができなかったからです。あまり友達がいないほうだったのかもしれません。

 彼と話をしないまま、やがて放課後を迎えました。彼女は真っ直ぐ家に戻り、神社の場所を確認しました。

 彼は必ず神社に来る。彼女には確信を持っていました。

 今日の様子から、きっと彼も彼女に会いたがっている。会いたいのなら必ず神社に向かっているはず、そう判断したのです。

 彼女は付き人に神社まで送ってもらいました。神社は昔と変わらない姿を保っていました。彼女の記憶通り、古臭く、誰も寄り付きそうにない神社そのものでした。

 彼女は彼が来るのを待ちました。しかし、彼は日が完全に落ちても、来る気配を見せませんでした。付き人が何度も彼女に帰るように催促しましたが、彼女は断りました。例え暗くなっても彼は来る、かならず来ると、根拠のない自信が彼女を支えていたのです。

 周りが完全に闇に落ちて、二時間ほど経った頃でしょうか。彼女は神社に向かう人影を感じました。足音から、彼女の付き人でないことは判別つきます。そうなると足音の正体は一つしかありませんでした。

 彼女はゆっくりと立ち上がり、影の方へ向かっていきました。

 近づいていくと、月明かりで照らされ、はっきりとその影の正体が映し出されました。その人物は、言うまでもなく、この神社であの夜を共にした彼でした。

 彼女はあの時と同じ言葉を問いかけました。目の前の彼もあの時と全く同じ台詞を返しました。このやり取りはまるで、秘密の合言葉を確認しあっているかのようでした。お互いの気持ちを確認するような、くすぐったいやり取りでした。

 彼は、彼女に会いたいと言いました。その彼の言葉に彼女は喜びを抑えきれませんでした。彼と気持ちが通じ合っているように思えたからです。

 それから、彼女と彼は長年の積もった感情をお互いにぶつけ合いました。ぶつけ合う、と言ってもそんな荒々しいものではなく、穏やかに、そして静謐に、言葉を交わしていったのです。

 彼は声変わりをしていました。声のトーンが記憶よりも低くなっていることがわかりました。しかし、それ以外の、口調や考え方……そして彼女への思いは彼女の記憶と変わりないものでした。

 彼女は彼と一緒に過ごす時間に確かな幸せを感じていました。時計の歯車が、ようやく動き出すのを感じていました。彼女の時間はここから始まるのだと、そう思わずにはいられませんでした。

 しかし、彼女の幸せもそう長くは続きませんでした。


 次の日も、神社で彼と会う約束をしていました。彼女は覚悟を決めていました。彼に告白する覚悟を。

 もちろん、そんな言葉はもはや不要なのかもしれません。彼女と彼はそれほど通じ合っているように思えます。それでも、言葉にして伝えておきたい。そう思っていたのです。

 彼女は告白に相応しい衣装を用意しました。せっかくの記念すべき日に恥ずかしい真似はできません。黒いワンピースを着て、何度も何度も鏡で身だしなみを確認しました。

 彼女は一人で神社に向かいました。道中で、言うべき台詞を心の中で何度も何度も反復し、少しでも緊張を和らげようと努力しました。しかし、その緊張も何故か心地よいものに感じることができました。

 やがて、彼女は神社につきました。彼女は本殿へ向かうと、何かが倒れているのが見えました。

 彼女に悪寒が走りました。倒れているものの周囲には赤い水たまりのようなものが広がっていたからです。

 まさか、と思い彼女は急いでそこに駆け寄りました。

 そこには、刃物で滅多刺しにされた彼の姿がありました。彼はもはや脈もなく、直ぐに死んでいることがわかりました。

 なぜ? と彼女は思いました。

 なぜ、彼は刺されているのか。

 なぜ、彼は刺されなければいけないのか。

 なぜ、彼なのか。

 なぜ、自分ばかり不幸が訪れるのか……

 なぜ、なぜ、なぜ……

 彼女は直ぐに思考を切り替えます。彼女には彼を蘇らせる手段がありました。

 それはあまりに現実的ではなく、彼女にとってあまりに過酷な選択でした。

 それでも、彼女は決断しました。彼女にとって彼はかけがいのない存在です。もうこれ以上何も失いたくないと、そう思っていたのです。

 彼女は直ぐさま付き人を呼び、彼を冷凍保存するように仕向けました。彼女の宗教が抱える企業には、工業用の液体窒素を扱う企業もあったため、冷凍保存はさほど難しくありませんでした。

 なぜ、冷凍保存するのか……

 答えは簡単です。彼女は彼の”記憶”を取り出そうとしていたのです。彼女は記憶を取り出せるようになるまで、彼の脳を保存しておこうと考えていたのです。

 記憶を取り出す理由はもちろん、決まっています。彼をもう一度蘇らせるためです。

 では、どうすれば彼は蘇るのか。

 その答えも簡単です。

 彼の人生を再現すればいいのです。

 彼のクローンを作り、彼と同じ人生を歩ませる。

 もちろん、それは容易ではありません。まず、脳から記憶を取り出す。これは彼女のいる時代ではできない技術です。その技術が発達するまで待たなくてはなりません。もし、彼の記憶を取り出せたとしても、今度は彼の過ごした環境も用意しなければなりません。彼の過ごした場所、彼の出会った人、すべてを用意しなければならないのです。

 そして、もし仮に、すべてを実行できたとしても、長い長い年月がかかるはずです。その頃には彼女は彼より遥かに年を取っていることになります。もしかすると、すでに亡くなっているかもしれません。どちらにしても、彼と並んで歩むことは叶わないでしょう。

 それでも、と彼女は思いました。それでも、彼女は彼を蘇らせようと考えていました。彼女はそれほどまでに、彼を愛していたのです。

 彼女は彼を保存しました。しかし、それではまだ足りません。彼を再現するためには彼だけの記憶だけでは駄目なのです。周りの、特に彼をよく知る人物の記憶も必要だと考えていました。

 そう思うと、彼女は迅速に行動を起こしました。彼女は、彼の両親を保存し、そして、彼を殺した犯人であるストーカーも一緒に保存しました。

 彼女は待ちました。彼女の望む時代が訪れるまで。

 彼女は備えました。彼女の大願が成就する日まで。何年も何年もかけ、準備を整えてきました。そして、ついに、脳から記憶を取り出す技術が開発されたのです。彼女はその記憶を使って彼の再現を始めました。細かい所は齟齬がありましたが、大筋は成功することができたのです。

 そう、彼はついに蘇ったのです。

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