六 カノジョ

 高校へ進学するときも、もちろん彼と同じ高校だった。延々と彼の一挙一動を見てきた彼女には彼がどこの高校へ進学するのか知ることなど造作も無いことであったし、彼と同じ高校へ進学するために、勉強することも全く苦ではなかった。

 これからも彼を見続ける……今の彼女にとってこれ以上の幸せは存在しなかった。

 彼女の世界は彼で満たされていた。

 昨日の彼、今日の彼、明日の彼。

 過去も未来も現在も彼抜きでは考えられなかった。

 ……時々、彼と付き合っている、自分の姿を妄想した。

 帰り道に彼と一緒にいる自分。

 自分の隣に彼がいる。

 今日学校であった下らない話をする自分。

 素直に聞いてくれる彼。

 彼の指に自分の指が触れる。

 優しく手を繋いでくれる彼。

 ふと、彼の方に目を向ける。

 すると、自分の方に目を向けてくれる彼。

 目と目が合い、互いに恥ずかしそうに赤面する。

 そんな、自分と彼の姿を思い浮かべた。

 しかし、想像しようとするほど、まるで頭に靄がかかったかのように映像がぼやけていった。彼の隣に自分がいる様子が不自然であるように思えた。自分の姿が掠れていき、薄れていき、やがて、彼の優しげな表情だけが残っていた。

 やはり、自分が彼の彼女になることなどとても恐れ多いことだ。

 幸いにも、彼女の思いに応えるように、彼には特に親しい友人――ましてや女友達などはいないようだった。

 彼を見守る……今の彼女にはそれだけで十分幸せだった。

 そんなささやかな彼女の幸せが崩れたのは高校一年生の夏だった。



 高校は幸運にも彼と同じクラスであった。なんて幸先がいいのだろう、そう彼女は思った。しかも彼より後ろ側の席だ。後ろ姿ではあるが、授業中にも思う存分彼の様子を見ることができる。

 彼女は高鳴る胸の鼓動を抑え、まずは友達作りに専念した。近くの席にいる女子に対して「どこの中学校から来たの」、「どこに住んでるの」、「入試の問題難しかったよねー」といった、中学校の入学当時と似たような当り障りのない会話をこなし、どの子と仲良くしていくかを厳選していた。

 もちろん、彼以外の人に対してはさほど興味はない。友達作りは、彼の情報を収集し、波風立たない平穏な学生生活を送る上で必要なことだった。

 理想はあまり彼女に干渉しない、ゆるい交友関係だ。休憩時間中は仕方ないかもしれないが、下校時間に一緒に帰ることになるような人材は好ましくない。いつもべったりくっついてしまうような子は論外だ。これらのことを踏まえてきちんと考えなければいけない。

 彼女の努力の甲斐あってか、高校生活の最初期に、ニ人程度の話し相手を見つけることができた。彼女らは、私を含めて、休憩時間中や昼食の時にちょっとしたおしゃべりをする程度関係だ。帰宅時間には、自分以外は部活動へ行ってしまうため、干渉されることはほとんどない。彼女の平穏な学生生活を送る上ではうってつけの友人である。彼の方も当り障りのないような交友関係を築いているようであった。

 準備は整った。これで彼に専念できる、そう思っていた。



 夏休みが終わり、いよいよ二学期が始まるという時期に、このクラスに転校生が来るという話が教室に広まっていた。普段は、彼以外の情報についてはそれほど興味の持たない彼女ではあったが、この珍しい時期に来る転校生については少し興味を持っていた。

 彼も、転校するにしては珍しい時期にやってきたのよね、と感慨に耽りながら、彼女はやはり彼の仕草を追っていた。姿勢の正しく、なぜか儚げに感じる、いつも通りの背中だった。

 そうこうしているうちに、担任が教室に入ってきた。

「時期外れではあるが、今日からこのクラスに転校生が来ることになった。今からその転校生を紹介する。入って来なさい」

 そう言うと、転校生は静かに教室に入り、担任の横に並んだ。

 転校生は長い黒髪がよく似合う、すらりとした女の子だった――

 ふっ、と世界が暗転するのを彼女は感じていた。彼女は酷く動揺していた。決して転校生を見たからではない。取り乱している彼を見たからだ。後ろ姿から見える体全体の小さな震え、微細に揺れ動く黒髪、少し上に上がった足先――どの仕草も異常だった。この異常な仕草は彼をずっと見てきた彼女にしか感じ取れないような些細なものであった。彼女が今まで見たことない彼の仕草だった。それでも彼は平静を保とうとしているのがわかる。

「私の名前は榊間莉那(さかきまりな)と言います」

 彼はなぜ、取り乱しているのか。転校生を見たからで間違いはない。しかし、取り乱しているその理由がわからない。転校生は確かに綺麗ではあるが、動揺するほどの見た目をしているわけではない。転校生が彼のタイプなのか。いやそれは違う。似たような女の子はいたが、彼はそこまで食指を動かすことはなかった。

「家庭の都合でこの学校に転校することになりました」

 では、彼と転校生との間に特別な関係があったのか。彼女の知る限りではそれはない。ではなぜ動揺しているのか。なぜ取り乱しているのか。どうしても原因がわからない。

 彼女は全身に冷たい汗が流れるのを感じ取っていた。

「途中からの仲間入りですが、どうぞみなさん」

 何があったのか。彼に一体何があったのか。いつの間にか彼女の視線は転校生に向いていた。彼女の意志とは関係なく、大きく目を開き、じっ、と転校生を見つめていた。瞳孔が開いていくのを感じ取っていた。しかし、いくら転校生を見つめても彼女の満足する回答が得られることはなかった。彼に一体何があったのか。わからない。わからない。わからない。

「私と仲良くしてくださいね」


 ……彼女が錯乱状態に陥っている間に転校生は黒板に名前を書き、簡単な自己紹介を行っていた。転校生は担任に指示され、後ろの方の空いている席へ座った。

 その後は時間割通りに授業が行われた。もちろん、授業の内容など一切頭に入ってこなかった。転校生の様子が気になってしょうがなかった。しかしながら、転校生は彼女よりも後ろの席である。様子をうかがうことはできない。彼も彼女の様子が気になるのか、いつも以上にそわそわとしていた。彼も授業に集中できていないらしかった。

 授業中も彼に何があったのかずっと考えていた。やはり答えが出るはずもなく、悶々とした時間を過ごすうちに、休憩時間を知らせるチャイムが鳴った。

 当然のことながら、転校生の周りにはクラスメイトが集まっていた。クラスで中心となるグループのメンバーだ。その間に割って入ることもできず、また、なんと声をかけるべきかわからなかったため、彼女は聞き耳を立てることに専念した。彼も転校生が気になるようではあったが、彼女と同じ気持ちであるのか、遠巻きから様子を伺っていた。

 聞き耳を立てて得られた情報といえば、住んでいる地域や出身校などといったどうでもいい情報ばかりであったが、気になる情報もあった。この時期に転校した理由についてである。どうやら、父親が亡くなったとのことらしい。元々父子家庭であった転校生はそのまま祖母の家に引き取られたらしい。その時のショックで一ヶ月ほど家に引きこもっていたが、ようやく立ち直り、学校に来るようになったという。想定外に重い経緯であったが、転校生はその当時のショックを微塵も感じさせないほど明るく話していた。取り繕っているような様子もない。立ち直るとはこういうことなのだろうか。

 その他に得られた情報と言えば、転校生は意外にも社交的な性格である、ということだった。その容姿と丁寧な口調から、どこかのお嬢様といった雰囲気を漂わしているが、その雰囲気と異なり、会話の中では時折気の利いた冗談を交えるため、見た目からは想像できない気安さを感じる。また、身振り手振りも使って話をすることから話し上手であることも伺える。シャイな彼女とはあまり相容れない性格である。

 彼の様子はというと、彼女と同じように転校性の様子を伺っているようではあった。転校生の入ってきた時のような動揺はすでになくなっているようだった。しかし、やはり様子が気になるのか、彼の目線は、転校生の方向を向いたままであった。

 結局、一日中、ずっと転校生のことを考えることになった。短めに切ったボブカットの髪を指でくるくるといじりながら、自分の思考を整理しようとしていた。彼女がいくら考えても、彼が転校生に興味を惹く理由はわからず、いつの間にか下校時間となっていた。一瞬、日課を放棄して転校生の後を着いて行くか悩んだが、いつも通り、彼の後を着いて行くことに決めた。彼も転校生が気になるようではあったが、さすがに、一緒に帰宅したり、ましては、後をつける、なんてことはしないようであった。家に帰ってからも、彼女は胸に残る気持ち悪い違和感を拭い切ることはできなかった。彼女の幸せの日々にヒビが入りそうな……そんな不安を抱えたまま、その日を終えた。



「おはよう、粋人くん」

 転校生が入ってきた次の日、事態は彼女の想像以上に深刻なものとなった。彼と転校生が”親しげに”会話しているのである。

 彼と転校生が会話する……それだけでは、まだ想定の範囲内である。転校生は誰に話しかけても不思議ではないほどの明るい性格である。何か少しでも機会があれば、少し落ち着いた性格の彼に対しても、早かれ遅かれ話しかけていたであろう。あくまで”機会”があれば、である。話しかける優先順位としては相当低い、まだまだ先のはずだ。そう考えていた。しかし、今朝は明らかに異常な対応であった。転校生は教室に入ってくるやいなや、真っ先に彼に話しかけてきたのである。初対面の人にするような簡単な挨拶などではない。親しい友人同士がするような挨拶である。そもそもなぜ、彼の名前を知っているのだろうか。まだニ日目である。なんの接点もなければ、顔と名前なんて一致しないだろう。やはり、何か接点があるのだろうか――彼女の知らない接点が? 彼をずっと見てきた彼女の知らない接点が? 

「おはよう、莉那」

 彼の反応も異常だ。転校生が”親しげに”話しかけるのがまるで当然のような反応だ。なぜ、”親しげに”話しかけられるのが”当然”なのか。やはり、以前からの彼の知り合いなのだろうか……そうとしか思えない。そうなると、彼が小学校に入学する前の知り合いなのだろうか。それとも、彼女の監視の間を縫って、彼が転校生と出会っていたのだろうか。それもあり得る。彼女が彼を見ている期間はせいぜい登下校や学校にいる間だけなのだ。ずっと彼の家の前で張り付いているわけではない。その間に彼女の知らない何かがあったのだろうか。そもそも、彼がなぜ、転校生を敬称も付けずに名前で呼んでいるのか。普段の彼からは考えられない。彼女が見てきた中で、彼と親しいと思われた友人同士であっても、敬称はつけていたはずだ。なぜ。そこまで仲が良いということなのか。どうして。彼女の望んだ場所に転校生が。なぜ。そこに彼女がいないのだろう。ずっと。ずっと。欲しかったのに。どうして。仲が良いのだろう。なぜ。彼女がいないのだろう。どうして。転校生がいるのだろう。なぜ。いないのだろう。どうして。いるのだろう。なぜ。いないのだろう。どうして。いるのだろう。なぜ。いない。どうして。いる。なぜ。どうして。な――

「それで――」

「そう――」

「」

「」

 普段の汗とは違う、ねっとりした脂汗が、彼女の体を通り過ぎていくのを感じていた。会話の内容がまるで頭に入ってこない――彼女の頭はもう真っ白になっていた。これ以上何も考えることも、聞くこともできなかった。ただただ、二人が会話する光景をずっと眺めることしかできなかった。


 落ち着きを取り戻したのは、終礼のチャイムが鳴ったあとであった。一連の光景を目の当たりにした彼女は、友人に顔色の悪さを指摘され、保健室へ直行することとなった。保健室の先生からは早退することを進められたが、もちろん、そんな気持ちにはなれなかった。しかし、とても授業に出れる精神状態でもなかった。このような、早退する、しないの押し問答を一定時間ごとに繰り返すうちに下校時間となった。

 ベットの上で彼女は、激しく後悔していた。

 今の事態は遅かれ早かれ起こり得ることだったのだ。彼に近づく人が現れる。彼と仲良くしようとする人が現れる。彼を好きな人が現れる。彼が好きな人ができる。どれもこれも近い将来あってもおかしくないことだ。そんな簡単なことに気が付かず、日々を浪費し続けていたのだ。

 どうして勇気を出して行動しなかったのだろう。どうしてはやく思いを伝えなかったのだろう。そんな後悔が彼女の頭の中で渦巻いていた。今まで何度も、何度もチャンスはあったはずだ。それなのに……

 彼と転校生はまだ、付き合っているのかは断定できる状態ではない。だが、じきに付き合うようになるだろう。聞き取った会話からはそんな仲の良さを感じ取れた。そうとしか思えない。そう思わざる負えない。しかし……

「このままでいいわけがない」

 そう考えていた。彼と過去に何があったのかは知らないが、転校生が、彼女の”信仰する”彼に軽々しく話しかけていいわけがない。彼への思いも、彼へ費やした時間も、誰も彼女には勝てないはずだ。そんな彼女を差し置いて、親しげに会話していいわけがない。会話をする人がいていいはずがない。事態は一刻を争っている。このままでは彼が取られてしまう。私だけの彼ではなくなってしまう……それだけは避けなければならなかった。我慢のならないことであった。今も、そしてこれからも、彼が取られないようにするには、どうすれば良いだろうか。私だけの彼にするためにはどうすればいいだろうか……

 ……彼女は何をするべきかを決めた。

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