七 再会

 彼は高校に進学していた。地元では少し有名な進学校だった。どうやら、自分の通っていた中学校からは彼を含めて数人しか合格することのできなかったらしい。進学校は伊達ではないということだろうか。

 その少ない合格者数のため、彼の中学校からの交友はほとんど途絶えてしまった。よくよく調べてみると、小学校の頃から一緒の生徒がいたが、中学校からほとんど会話することがなかったため、あまり印象に残っていない。ショートヘアの女の子だったと思うがあまり自信がない。機会があれば喋りかけてみるのも良いかもしれない。


 クラスには浮ついた雰囲気が漂っていた。入学したてである。浮ついてしまうのも仕方がないといえば仕方がない。期待と不安を織り交ぜたような、実に初々しい表情の生徒ばかりで微笑ましい。皆、高校での友達を作ろうと、近くの生徒と積極的に会話を試みていた。彼にとっても、友達作りは他人事ではない。中学校の時のような、頭の良い友人を選ぼうと思うような妙な思想はとうの昔に捨て去っている。あの頃は若かった。

 そんな変な感慨に耽っていたが、彼自身、あまり必死になって会話をしようとする気も起きなかった。

 彼の側には相変わらず巫女服の彼女がいた。彼女は彼にとって、小学校の頃からの話し相手であり、友人であり、そして神様である。ここまで長い間一緒にいるならば、少し気恥ずかしいが、恋人と言ってしまっても良いかもしれない。神様と恋人を同列に扱って良いのかは疑問に残る所ではあるが……

 兎にも角にも、彼には二十四時間一緒にいる友人がいるわけである。他の生徒よりも友達作りのモチベーションが低いのはある意味当然である。最悪、高校の友達が作れなくても構わないのである。いや、全く友だちがいないのは困るが……

「近くの子に話しかけないんですか?」

 巫女服の彼女は中腰になり、彼の机に顎を乗せながら彼に話しかけた。少々だらしがないように思える格好である。自分が神様だという自覚はないのだろうか。

「いや、そうしようかなとは思っているのだけど、やる気が出なくて……」

「そんなこと言っているうちに友達がいないまま高校生活を終えることになりますよ。中学校の時のように」

「うっ」

 痛いところを突かれた。中学校の時は自分が他の生徒よりも賢いと思い込み、変に高く構えていた。そのため、彼は全く友だちを作ろうとはしなかった。友達の重要性に気がついた時には、すでに周りは仲の良いグループで固まっていたため、自分の入り込む余地がなくなっていた。さらに運の悪いことに、学年が変わるクラス替えの時期になっても、生徒の入れ替えがほとんどなかったため、自分一人取り残されたような状態になっていた。

「中学校の時は一人いただろう。それに君もいるし……」

 幸い、一人だけ、彼に話しかけてくれる生徒がいてくれた。斜に構えていた彼に気を使ってくれる仏のような生徒だった。その生徒のおかげで、中学校生活友達ゼロとまではいかなかったが、非常に寂しい中学生活を送っていたことには違いなかった。

「今の時期を逃すと友達作りが面倒になりますよ」

 彼女の言うことは尤もだった。高校生活は中学校の頃のような悲劇を生み出さないためにも、仲良しグループの出来上がっていない今が大切だ。この時期を逃すと非常に面倒なことになるのは目に見えている。

「あの……」

と、彼女と雑な会話をしているうちに早速、隣の席の男子が話しかけてきた。短髪で童顔の、いかにも大人しそうな雰囲気を持つ生徒だった。実にいいタイミングである。

「どこの中学校から来たんですか」

 テンプレートに則った、お手本のような質問である。答えやすい質問をしてくる辺りが非常に好感が持てる。

「ええと、蛇の森中学校からだよ」

「へびのもり?」

「そう、蛇の森。ここの高校からは比較的近いけど、まあ、何の特徴もない田舎にある中学校かなあ。蛇の神様が祀ってある神社があるのがちょっと珍しいくらい」

 そうなんだ、と納得したのかしていないのかよく分からない返答をすると、男の子も自分の出身校を教えてくれた。へえ、そうなんだとオウム返しのごとく返答することしかできなかった。正直聞いたことがない学校だった。

 お互いに知らない出身校を紹介したせいか、少しの間沈黙が続いた。次は何について聞こうかとお互いに考えているようだった。そんな彼らの気持ちを察しているのか、巫女服の彼女はくすくすと笑っている。友人なら助け舟の一つは出してほしいものである。

 小学校の頃のほうがまだ会話する力があったなあと思いを巡らせていると彼が再び質問してくれた。やはりいい子である。

「中学校の頃は何をしてたの。部活とか……」

「部活には入ってなかったなあ。生まれつき心臓が弱くてね。運動の制限がかけられていたんだ。だから授業が終わった後はすぐに家に帰ってたかなあ」

 実際には、文化系の部活に入ろうと思えば入ることができた。しかし、入部してしまうと、当然、神社に寄って行く時間がなくなる。そうすると、彼女と過ごす時間が減ってしまう。だから、彼は部活動には参加しなかった。部活で中学校の生徒達と親睦を深めるよりも、彼女と会話することを優先したのだ。

「……家に帰ってからは何をしているの。退屈じゃない?」

 確かに、部活をしなければ、時間を弄んでいると思われても無理はないだろう。当然の質問だった。しかし、正直に答えるわけにもいかない。毎日神社に寄って、神様と談笑していました、なんて言えるはずもない。無難に答えなければ。

「家に帰ってからは読書をしてるかなあ。それぐらいしかやることがないからね」

「珍しい……」

 珍しい、のだろうか……そうかもしれない。一般的な学生は帰宅してからは本を読むことが普通ではないのかもしれない。他の生徒が家に帰ってから何をしているのか気にしたこともないし、知る機会もなかった。学生生活での友人がほとんどいなかった自分とごく普通に学生生活を過ごしてきた相手なら、相手の意見の方が正しいような気がする。

「君は帰ってから何して過ごしているのかな」

「……テレビを見てる」

 そうか、極一般的な生徒はテレビを見て過ごしているのか。そのことを知ると少し悲しくなる。あの三種の神器と謳われた立方体は何故か自分の家にはない。テレビが無いことを不便に思ったことはないが、他の生徒の話題についていけないのは非常に厄介である。むしろ今までその事実に気が付かなかったことが驚きである。他人との会話をしてこなかった自分ならではの出来事だと感じる。唯一の友人はテレビに縁はないし。

 ああ、あの立方体ね、と適当に返事をすると何故かキョトンとした顔をされる。もしかすると、自分の知らないうちにテレビは立方体ではなくなってしまっているのかもしれない。

 その後もたどたどしいながらも会話をこなすことができた。会話に間を置きがちなのが少々気になるが、大人しめの良い子であることには間違いない。彼と近くの席で本当に良かった。幸先の良さそうな高校生活を送ることができそうである。



「高校生になっても来てくれるんですね」

 彼女は本殿前の階段に座り込み、両手で頬をつきながら話しかけた。

「毎日続けてきた習慣を高校生になったからといって変えるわけがないだろう?」

 彼はいつもの神社に来ていた。いつ来ても神威が微塵も感じられないほどの朽ち果て具合である。自主的に手入れをしたほうがいいのかもしれない。

「それもそうですね」

 彼女はそう言うといつものように微笑みかけてくれた。純粋に喜んでくれているような表情だ。その表情に彼も嬉しくなってしまう。

「高校生活はどうですか、上手くいきそうですか」

「隣で見てくれていたとおりだよ。席の近くの彼のおかげでなんとかなりそうだ」

「良かったですね。中学校の時のようにならなくて済みそうですね」

「中学校の時はもう忘れてくれ」

 彼女はくすくすと笑っている。やはり彼女には笑顔が似合う。

「粋人くん」

 彼女は優しげに話しかける。

「私は存在すると思いますか?」

 酷く懐かしい質問のように思えた。当時はその質問に答えるのに苦労したが、今は迷いなく答えられる。

「いるよ。いつでもあなたのことを想っているし、信仰してる」

 そうすると、彼女はゆっくりと首を振った。

「そうではありません。概念的な意味や神的な意味ではなく、実際の人間として、実体を持つ人間として私が存在するのか、という意味です」

 どうなのだろうか。彼にとっては、彼女に実体があろうがなかろうが関係のないことなのではあるのだが。

「いる、とは思っているけどあまり自信がないかな。なにせ小学生の頃の記憶だから」

「もし、」

 彼女は自分の髪を撫でながら、話を続けた。

「実体を持つ私が現れたとしたら、どうなると思いますか?」

「どうなるって……」

 あまり考えたことがなかった。いや、考えることを避けていたのかもしれない。彼は現状に満足していた。実体の無い、架空の彼女と話をする、それだけで十分だった。それ以上のものを望んでいなかった。

「私は、どうなるのでしょう?」

 どうなるのだろうか。架空の、儚い存在の彼女は消え去ってしまうのだろうか。それとも、二人が共存するのだろうか。わからない。回答が見つけられなかった。

「どちらが本当の私なのでしょうか?」

 もし、彼女が実在するとして、それは彼の考えている彼女のままであるのだろうか。これまで会話してきた彼女とかけ離れているのだとしたら、それは彼女ではないではなかろうか。常識的に考えれば、実在する彼女が本物だ。当然の事実である。しかし、彼にとっては彼の考えてきた、彼と長い間話してきた彼女も本物だと思える。そうなると本物の彼女が二人いることになる。それはおかしいはずだ。同じ存在が二人いていいはずがない。しかし……

 彼は堂々巡りから抜け出せなくなっていた。考えがうまく整理できない。まるで頭の中で複雑に絡み合った糸を解こうとしているようであった。解こうとすればするほど、考えれば考えるほど、より糸が絡み合い、複雑になっていくのを感じた。本物とはなんだろうか。本当の彼女とは、何なのだろうか。

「……その時になったら考えるよ」

 彼は考えるのをやめた。



「あっ、あの!」

 誰かが彼を呼んだ声がした。いや、もしかすると自分を呼んだのではないかもしれない。勘違いして返事をしてしまうことなんてよくあるベタな失敗だ。そもそも、友達のいない自分に用事がある生徒なんてほとんどいないはずだ。でも一応、様子は見ておいたほうがよいかな。

 彼は呼ばれたのが自分ではなかった時の誤魔化し方を考えながら振り向くと、そこには短髪の女生徒がいた。彼女の様子を見ると、どうやら自分を呼んだので間違いないらしい。自分と彼女以外に人がいないのだ。当然である。

 彼女は恥ずかしそうに少し俯くと、彼の前に手を突き出した。走ってきたのか顔がほのかに赤らんでいた。

「こっ、これ! さっき落としたから……」

 彼女の手をよく見ると、生徒手帳を持っていた。どうやらさっき自分が落としたものらしい。

「ああ、ありがとう」

 そう言うと彼は彼女から生徒手帳を受け取った。

 彼が手帳を受け取ると彼女はすぐさま走って何処かへ行ってしまった。廊下はあまり走らないほうが良いと思うのだが……

「行ってしまいましたね」

 いつの間にか隣りにいた巫女服がそう呟いた。

「……誰だったかな」

 彼は彼女を見たことがあった。確か、同じクラスの生徒だったはずである。残念ながら名前は覚えていないが。

「同じクラスの仲間の名前を忘れてしまったのですか。酷い人ですね」

「クラスの生徒全員の名前を覚えられるほど物覚えは良くないからね」

 まだ、一学期が始まってから日が浅いし、と覚えていない言い訳を心の中で呟いていた。

「そんな言い訳ばかりでは、お友達作りがまた一歩遠のいてしまいますよ」

 心の中を見透かされたような返事が帰ってきた。まあ、実際、見透かされているのだが。

「まあ、友達作りはなるようになるさ。席も恵まれているし。君も側にいてくれることだしね」

「そんなご機嫌取りみたいなことを言っても無駄ですよ。私が側にいてもあまり役に立ちませんしね」

 実際役に立ったことはない。まあ、側にいてくれるだけで気持ちを落ち着けることができるので、役に立たなくても問題ない。

「それにしても、彼女はなぜこんなところにいたのでしょう?」

 そう疑問に残るのは当然であった。彼が今いる場所は彼女が訪れる理由がない場所だからだ。今、彼は訳あって、男子トイレの前にいる。というのも、トイレの場所を知っておきたかったからだ。この学校では不便なことに男子トイレと女子トイレの場所が別々になっており、トイレの場所の把握が少々厄介である。そのため、彼はいざという時に備え、事前にトイレの場所をリサーチしてる最中であった。自分の教室周辺は調べ終えていたので、今は、移動教室用に用いられる旧校舎周辺の教室を散策していた。

 そして、彼が今いる男子トイレは廊下の突き当りになっており、その先に続く扉も階段もなく、完全に袋小路となっていた。こんな場所に訪れるのは事前にトイレの場所を確認しておきたい彼ぐらいなものだろう。

 こんな辺鄙な場所に何故彼女がいたのか。ぱっと思いつく可能性は二つある。

 一つは学校探索をしていた可能性。これなら、このような辺鄙な場所にいるのも頷ける。あまり、活動的な生徒には見えなかったが、案外、新しい場所を探索して楽しいと感じる生徒なのかもしれない。

 もう一つは、この近辺の教室に用事があった可能性。しかし、この近辺の教室は現在使われている様子がない。これは違うだろう。

「あなたの後をついてきたのかもしれませんね」

「そんなまさか」

 巫女服の彼女は第三の可能性を挙げた。冗談交じりで言っているのか、少し笑っているのがわかる。

 しかし、それはまあ、あり得ないだろう。わざわざ、自分の後をつけて来るなんて、そんな暇人はいやしないだろう。却下である。

 まあ、なんにせよ、落し物をわざわざ拾って届けてくれたのはありがたいことである。

「せめて彼女の名前ぐらいは覚えておかないとな」

 そう思い、彼は自分の教室へ戻っていった。



 運良く友人もでき、彼が高校生活に慣れてきたと思った時には、夏休みも終わり、二学期に入ろうとしていた。クラスの皆が夏休みの思い出に花を咲かせている中、クラスに転校生が来るという情報が流れてきた。

 珍しい時期に来るのだなと思ったが、二学期の始めなのだから案外キリの良い時期の転校なのかもしれない。よくよく考えてみると彼自身も小学校の頃に変なタイミングで転校してきたことを思い出していた。まだ会ってもいない転校生に奇妙なシンパシーを感じながら、彼は転校生がやってくるのを待っていた。

 ……いつもなら、巫女服の彼女がふっと現れて、何かしら茶々を入れるタイミングなのだが今日は何故か出てこない。もちろん、今までに彼女が出てこなかったことは何度もあったが、彼女の出てくるタイミングを外すのは最近ではあまりなかった。

 珍しいこともあるものだなと彼が思考を巡らせている内に、担任の教師が教室に入ってきた。

 担任は転校生が来る旨を一通り説明した後、転校生を教室へ招き入れた。

 転校生は、長い黒髪がよく似合う、すらりとした女の子だった――

 

 キーンと劈くような音が頭の中で鳴り響いていた。

 それはまるで警告音のように彼に注意を喚起していた。

 目の前の光景に理解が追いつかなかった。

 目が、耳が、脳が、あらゆる細胞が、目の前の事象を理解することを拒んでいた。

 目の前のあらゆる光景、情報が濁流のように押し寄せ、頭の中を掻き回していた。

 彼の思考はもはや、混沌としていた。

 彼は目の前の転校生に見覚えがあった。

 彼は目の前の女の子をよく知っていた。

 転校生は。

 女の子は。

 彼女は。

 あの夜の”彼女”だった。


 ――なぜ?

 頭の中の警告音が止まらない。

 ――なぜ、彼女がここに?

 見てはいけないものを見てしまったかのように。

 ――なぜ、今になって?

 知ってはいけないものを知ってしまったかのように。

 ――なぜ、この教室に?

 ――なぜ?

 ――なぜ?

 ――なぜ?

 押し問答のような疑問が、繰り返し、繰り返し、彼の頭の中で鳴り響いていた。


 気がつけば、彼女は言葉を発していた。

「私の名前は榊間莉那と言います」

 なんてことはない、ごく普通の自己紹介である。

 しかし、彼には、そんな普通の言葉が、普通足り得なくなっていた。

 彼女の言葉を正常な状態で、正常な精神で聞き取ることができなくなっていた。

 彼女が話している……彼自身だけではない、クラスの生徒全体に語りかけている。

 ここにいる彼女は、彼自信が生み出した妄想などではない。幻想などではない。一つの個体として、社会全体に認められた存在である。

 彼女はこの世に顕現している。

 そんなことがあり得るのだろうか。そんなことが起こりえるのだろうか。

 本当に。

 本当に。

 彼女は”存在”するのか?


 彼には思考を繋げることができなかった。

 論理的に、客観的に、思考を紡ぐことが妨げられていた。

 彼女という存在。

 彼女がいる意味。

 それは今の彼には手に負えない、あまりに複雑な問いだった。


 彼は無意識に内に、巫女服の彼女を探していた。彼は落ち着けるもの、安心できるものを無意識の内に求めていた。

 しかし、彼がいくら探しても、いくら考えても、いくら絞り出しても、彼女が現れることはなかった。

 なぜ彼女がいないのか。

 なぜ彼女がいるのか。

 矛盾しているようで、相互に成り立つ問い。

 問えば問うほど、思考は絡み合い、複雑になってゆき、ますます混迷を深めた。

 絶え間なく注がれる膨大な情報量に、やがて彼の頭はオーバーフローを迎えた。

 彼の思考は、頭は、彼女に白く塗り潰されてゆき……

 頭の中の大半が真っ白に染まり上がると……

 やがて……

 何も……

 考……

 ……

 

 

 彼が正気に戻った時には、彼女は自己紹介を終え、自分の席に着いていた。その席は運悪く彼の後方にあり、彼女の姿を観察することができなかった。

 もちろん、このあとの授業に集中できるはずもなく、ただただ、自分の心を落ち着かせるためだけに時間を費やすので精一杯であった。

 授業が終わると、クラスの生徒達は、一斉に彼女の元へ集まった。

 季節外れの時期に転校してきた彼女への生徒達の興味は、殊の外大きいようで、次から次へと質問を繰り出していた。

 彼はというと、その様子を遠巻きに観察するので精一杯であった。

 彼にはまだ、気持ちの整理がついていなかった。

 彼の側には、もう巫女服の彼女がいない。彼を健気に、時に戯けて、励ましてくれる存在はもういないのだ。

 この問題は、彼女が”顕現した”という問題は、彼自身で、彼一人だけで考えなければならなかった。


 彼女は何者なのか。


 彼は本能的に、彼女が”本物”であると思ってしまった。彼には、彼女がただ似ているだけだと割り切ることができなかった。彼女は本当に、巫女服の彼女とそっくりであった。あの夜、神社で出会った彼女がそのまま成長した姿、彼がいつも思い描いていた、イメージしたそのままの姿であった。

 ……巫女服の彼女の方はどうだろうか。彼女も彼にとって本物である。彼女は彼の友人であり、理解者であり、そして神様だ。

 今いる彼女も、巫女服の彼女も、どちらも本物の彼女であることには違いない。何の疑いようのない真実だ。

 では、転校生の彼女と巫女服の彼女は同じ存在なのだろうか。

 両者の決定的な違いは、認識されるかされないかの違いにある。

 転校生の彼女は生身の人間である。当然、彼以外の人間にも認識されている。彼女が言葉を発すれば、クラスの生徒達が注目することからも容易に裏付けが取れる。

 巫女服の彼女はどうであろうか。彼女はいくら言葉を発しても、彼以外には聞き取ることができないし、何かに触れたりすることもできない。彼女は彼以外の存在に影響を与えることができないのだ。それも当然だ。彼女は彼の妄想でしかないのだから。

 では、転校生の彼女は、巫女服の彼女が彼以外の人間に認識された姿なのだろうか。巫女服の彼女が顕現した姿なのだろうか。

 それは、わからないとしか言いようがなかった。転校生の彼女は、あの夜から彼とずっと会っていない彼女なのかもしれない。巫女服の彼女が顕現した姿の彼女なのかもしれない。もしくは、全く関係のない人物なのかもしれない。彼には判別する方法が見当たらなかった。

 しかし、現実問題として、今は、転校生としての彼女だけがこの場に存在している。

 いつも隣にいた巫女服の彼女は現れない。どこに行こうが、どれだけ時間が経とうが、もう二度と現れない。そんな予感がした。

 同じ存在が、同じ場所にいてはいけないのだ。共存しあえないのだ。同じ存在は、互いに互いを喰い合い、より強い存在が、より正しい存在がその場に残るのだ。

 ……無意識の内に彼は転校生の彼女をより正しい存在として認識していた。

 なぜ?

 まだ一度も言葉を交わしたことのないのに?

 彼以外の人間に認識されるから?

 転校生の彼女=巫女服の彼女だからなのか?

 ふと、彼女の方へ視線を向ける。彼女は周りに集まったクラスメイトの質問に答えているようであった。彼はその様子をじっと見つめていた。

 見れば見るほど、転校生はあの夜の”彼女”であった。容姿、口調、雰囲気、どこを切り取っても彼女は”彼女”であるとしか思えなかった。

 今、彼の抱いている疑問など直接転校生に聞いてみればすぐさま回答が得られるだろう。

 しかし、彼はどうしても彼女に聞くことができなかった。答えを知ることが恐ろしかったからだ。答えを知ってしまえば、真実を知ってしまえば、もう後戻りができない。やり直すことができないのだ。

 もちろん、彼女と話をしないことはただ問題を先送りにしているだけだ。いずれは答えを知ることになるだろう。しかし、今はまだ、心構えができていなかった。彼女が現れた動揺が、衝撃が、彼の中にまだ残っている。

 彼は間違いなく、人生の転機にいた。彼の人生を、価値観を問うような、修正不可能な地点に立っていた。彼が何を考えようと、何をしようと、結果はもう決まっている。彼が選べるのはタイミングだけだ。それ以外に選択の自由はない。

 彼は未だに足を踏み出せずいた。堂々巡りのような問答をただただ繰り返すばかりであった。

 そうしている内に今日一日の授業が終わり、下校時間となった。



 彼は神社にきていた。夜の帳が下りて、周りは鈴虫の声が鳴り響いていた。

 下校時間の後、学校には残らなかった。転校生がすぐさま帰宅してしまったため、学校にいる必要がなくなったからだ。通常であると彼はそのまま神社に向かうのだが、今日はそうはしなかった。神社に行き、巫女服の彼女が現れないのであれば、もう二度と会うことはできない。そう考えてしまったからだ。

 しかし、家に帰ってからも落ち着くことができなかった。本を読んでも、布団の上に寝っ転がっても、頭に浮かんでくるのは彼女のことばかりだった。

 寝ても覚めてもいられない彼は、意を決して神社に向かっていた。例え残酷な結果が待っていたとしても、彼は選択せざるを得なかった。

 外は夜にも関わらず、明るかった。ふと上を見ると空には無数の星々と一つの大きな月で覆い尽くされていた。その月はあの夜の日のように美しい円を描いた満月であった。

 彼は階段を登り神社の入り口に辿り着いた。鳥居は相変わらず塗装が剥げかかっており、今にも朽ち果てそうなほど古びていた。

 ひょっとすると、と彼は思った。ひょっとすると彼女に会えるかもしれない。そんな予感がした。彼は今、完全にあの日の夜をトレースしていた。この空が、この音が、この鳥居が昔の思い出を蘇らせていた。

 彼は足を踏み出した。もう戻ることはできない、変更不能な一歩を踏み出していた。吸い込まれるように、一歩ずつ前へ前へと歩みを進めた。

 境内には赤い花が咲いていた。血を散らしたような真っ赤な彼岸花が今日、この日を待ち焦がれていたかのように、あちらこちらで咲き乱れていた。今日になって満開になったこの花は何かを暗示しているかのように思えた。それは良い予兆であるのか、悪い予兆であるのか、彼には判断することができなかった。しかし、何かが起こる、ということは確信することができた。

 本殿に近づくとそこには人影が映っていた。彼はもう動揺したりしなかった。ゆっくりと人影の方へ足を進めていく。人影の方も彼の存在に気付いたのか、ゆっくり立ち上がり、彼に近づいていった。


 彼は月夜に映る転校生を見つめていた。黒い学校の制服を着た彼女が月の光に照らされたまま、ゆっくりと彼を見下ろしていた。淡い光で照らされた長い黒髪が風でなびき、白い頬にかかった。彼女の傍らで揺れる彼岸花と相まって、酷く幻想的な光景だった。

 この光景を彼は知っていた。完全に、六年前のあの夜の再現であった。違うのは身長と着ている服ぐらいだろうか。

「このような時間に何用でしょうか」

と彼女は微笑みながら彼に話しかけた。あの夜と同じく丁寧な言葉遣いだった。

「神様に願いを叶えてもらいたくて来ました」

「……どのような願いでしょうか」

「あなたに……」

「私に?」

「あなたに会いたい……いや、会いたかった。ずっと、ずっとこの時を待っていた」

 彼女は優しく彼を見つめていた。黒曜石のように黒く濡れたような瞳が、彼を見据えていた。

「私も」

 彼女は笑顔を浮かべながら、彼に答えた。

「私もあなたに会いたかったですよ。粋人くん」



 彼女は、小学生のあの夜に出会った”彼女”であった。



「どうしてここに?」

 彼は彼女に問いかけた。彼にとっては答えが分かりきっている質問であった。

「粋人くんと同じ理由だと思いますよ」

 そう、彼女がこの神社に、この思い出の地に訪れている、そんな気がして来たのだ。彼女も同じ気持だったのだろう。

「お久しぶりですね。六年ぶりでしょうか」

「……そうだったかな」

 彼は少し硬直した。彼女は顕現したわけではないことがはっきりと分かってしまった。中学校、高校と一緒にいた巫女服の彼女はもう彼の前には現れない。そう宣言されたのだ。

 彼は彼女に会えた喜びともう逢えなくなる悲しみを半分ずつ織り交ぜたような複雑な感情に襲われていた。出会いと別れは表裏一体なのだろうか。喜びと悲しみ、出会いと別れ、コインの裏表のような、本来共存することのない事象が彼の中で両立していた。

 そんな彼の気を察したのか、彼女は優しげに彼に話しかけた。

「あまり、離れていた気がしませんね。いつも粋人くんのことを考えていたからでしょうか。ずっと粋人くんの側にいた、そんな気がします」

 ふっと彼の頭の中が整理されていくのを感じた。彼の抱えている悩みを彼女に話しても良いと、話すべきだと、そう思った。

「……同じようなことを考えていたよ。いつもあなたのことを考えていて、いつもあなたが側にいて話し相手になってくれていた。今こうして話をしているのも不思議と懐かしい気がしない」

「話し相手になっていたのですか?」

 彼女が不思議そうに尋ねた。不思議に思うのは当然だろう。

「そう、話し相手になってくれていたんだ。通学中も、学校にいる間も、こうして神社にいる間も、冗談を言ったり、からかったりして、一緒に話をしてくれたんだ」

「一緒に話を……」

「そう、いつも一緒に話をしていたんだ。いつも巫女服を着ていて、話しかけてくれるんだ。全部自分の妄想だと分かっていたけど、妙に現実味があるんだ。話を重ねていくと、次第にそんな存在があってもいいなと思えるようになったんだ。自分だけに現れる神様みたいに思えたんだろうな」

「今もここにいるんですか?」

「いや、ここにはいない。多分、もう二度と現れることはないんじゃないかな」

「……私がいるからですか」

「そうかもしれないし、そうでないかもしれない。自分の妄想だってはっきりと自覚してしまった、彼女の存在を否定してしまった、それが大きな原因かもしれないな」

 言うことに迷っているのか、彼女は沈黙していた。

「あなたはここにいるのに、確かにここにいるのに、今まで別のあなたのことを、自分が生み出した妄想のあなたのことを考えていたんだ。一緒になって会話をして、冗談を言って、笑い合って……それが、その関係が、とても心地よかったんだ。あまりに心地よくて、現実にあなたの存在を、今ここにいるあなたの存在を疑ってしまったんだ。あの夜のあなたは、幻のような存在であってもいいのかなと、そう思ってしまったんだ。あの夜のあなたを唯一知っているのは、存在を立証できるのは私だけだというのに。現実にいるあなたではなくて、自分の妄想の中のあなたのことを考えていたなんて、失礼だと思うだろう。おかしいと思うだろう。そんな、そんな私を――」

 言葉が止まらなかった。自分の中の感情が、想いが、溢れて止まらなかった。

 唐突にこんな告白をされても困るだろう。架空の自分の話をされたら、ましてや今いる自分の存在を疑われていたなんて話をされたら、困惑するに決まっている。戸惑うに決まっている。

 それでも、自分の中の罪悪感、彼女への罪の意識を吐き出して止まらなかった。まるで罪の告白をしているような気分だった。自分が許しを請う哀れな罪人のようだと、そう思えた。

「私はそうとは思いませんよ」

 彼女ははっきりとした口調で答えた。

「長い間、私のことを想ってくれた結果、私の分身のような存在ができてしまったのならそれはそれで仕方のないことではないでしょうか。私としては、たった数時間しか過ごさなかった私のことをここまで想ってくれていた、この事実だけで十分嬉しいんです」

 少し気持ち悪いですけど、と最後に小声で一言付け加えた。

「それに、私の存在を疑ってしまうのも無理もありません。あの夜に私がこの神社にいることを知っている人間なんてほとんどいなかったはずですから。ちょっとしたお忍びで来てたんです。近所の人に私のことを尋ねても、誰もがそんな子は知らない、覚えがないと答えていたはずです。たった数時間しか一緒にいなくて、周りの人間も覚えがないというのなら私のことを幻のように思ってしまうのも仕方のないことではないでしょうか」

 彼女はそう言うと、彼に悪戯っぽく微笑みかけた。

 彼女は、彼の告白を、わがままで自分本位な、本当にどうしようもない彼の告白を受け入れてくれていた。

「……許してくれますか」

 彼は消え入りそうな、弱々しい声を発していた。

「ええ」

「……あなたの存在を疑ってしまった私を、罪深い私を許してくれますか」

「もちろんです。だから、」

 彼女は彼に手を差し伸べた。

「これからは、私と仲良くして下さいね」

 これは紛れも無く”救済”だった。



 彼と彼女は本殿の階段に座っていた。お互いに隣り合い、小学校、中学校、高校の話をこれまで一緒にいなかった期間を埋めるように話し合った。

 彼女の家は宗教一家であるらしい。あまり聞いたことのない新興宗教であった。彼女の家族はその新興宗教を開祖したメンバーの一員らしく、方々の地を訪れていたそうだ。ちなみに、彼女も宗教活動には参加しているらしい。彼女があの夜にこの神社にいたもの宗教活動の一環であるとの事だった。どうして周りの人に知られないように訪れていたのかは教えてくれなかったが、宗教絡みの話である。きっとややこしい事情があるのだろうとそのように解釈した。

 そのような事情もあり、彼女は転々と引っ越しを繰り返す生活を送っていたようだが、ちょうど一ヶ月前に身内に不幸があった。彼女の父親が亡くなったのだ。彼女の母親は彼女が生まれる前から亡くなっているため、彼女には両親がいなくなってしまった。幸いにも彼女の祖母が彼女を引き取ってくれたため、彼女の祖母の家の近くであるこの高校に転校してきたという訳だ。

 どうしてあの夜にこの神社にいたのか、どうして悲しげにしていたのか、その理由は話してくれなかった。その話をすると、彼女は人差し指で彼の唇を塞ぎ、いつか相応しい時になったら教えてあげますよ、と囁きかけるのだった。そんなことをされてしまえば、彼がこれ以上追求することのできないのも無理はない話であった。


 夜も遅くなり、そろそろお開きにしようかという話になった。彼女は立ち上がり、スカートを少しはたくと、近くにあった赤い花を手折った。

「粋人くん、この花の名前、知っていますか?」

「彼岸花だね」

 あの夜も彼岸花が咲いていた。そして今夜も。

「そうですね。彼岸花です。それでは、彼岸花の花言葉は知っていますか?」

「えっと……なんだったかな」

 確か悲しい意味が込められていたと思うのだが、はっきりとは思い出すことができなかった。

「いろいろ意味があるのですが……そうですね、今この時に相応しい花言葉は」

 彼女は勿体つけてこう答えた。

「”再会”です」

「再会?」

「そう、再会です。この夜にピッタリの花言葉だと思いませんか?」

 確かにそうだ。これ以上ピッタリと当てはまる花言葉はないだろう。

「確かにそうだな。ピッタリだ。そういえば、あの夜も彼岸花が咲いていたな」

「そうですね。咲いていましたね。なにか運命的なものを感じます」

 口元に手を当て、ふふっと彼女が笑った。

「実はですね。この場に相応しい花言葉がまだあるんですよ」

「へえ、どういう意味があるのかな」

「それはですね、ちょっと恥ずかしいんですけど」

 そう言うと彼女は彼に向かってちょいちょいと手招きをした。彼も彼女の手招きに従って彼女の元へ近づいていった。

 彼が彼女の元へ行くと、彼女はさらに彼の側面に回りこみ、顔先三センチのところまで近づいていった。風のせいだろうか、ふわりと彼女の髪が揺れた。彼女の髪からはほんのりと甘い香りがした。シャンプーの匂いだろうか。彼女は自分の唇を彼の耳元に近づけ、そっと囁きかけた。

「”想うのはあなた一人”です」

 くすぐったい、甘い囁きだった。顔がみるみるうちに赤くなっていくのがわかる。彼女の方を見ると、彼女も恥ずかしいのか、興奮しているのか、頬が紅潮しているようだった。

「ね、ピッタリの花言葉でしょう」

 彼女は黒い髪とスカートを揺らしながら、踊るようにくるりと翻った。

「それでは、また明日」

 そう言い残すと彼女は嬉しそうに駆け出しながら、闇夜に溶けていった。黒い制服を着ているせいか、すぐに彼女の姿は見えなくなってしまった。家まで送ろうか、と彼が言う暇がないほどに早い動作であった。照れ隠しなのかもしれない。


 彼は一人、神社に取り残されていた。時々吹く風が、調度良く火照った体を冷やし、気持ちがいい。

 長い一日だったな、と今日一日の出来事を思い返していた。感情の起伏が激しい一日だった。様々な出来事に一喜一憂していたが、その中心にいたのはやはり彼女であった。

 彼女を見る。

 彼女と話す。

 彼女に触れる。

 彼女の仕草が。

 彼女の口調が。

 彼女の黒髪が。

 彼女の双眸が。

 彼女の容赦が

 彼女の純情が。

 彼女の慈愛が。

 たまらなく、たまらなく好きだった。愛しかった。美しかった。

 言葉では言い尽くせないほど、表現しきれないほどの感情が彼を満たしていた。

 巫女服から学生服へ、紅白から黒へ、不在から存在へ、一日で彼にとっての彼女は忙しないほど変貌を遂げていた。それがどんな意味を持つのか、何を暗示しているのか、彼にはわからなかった。

 しかし、はっきりとわかっていることがある。今までも、そしてこれからも、彼の生活は彼女中心の生活であるということだ。今までとは意味合いが、関係性が違う事にはなるだろうが、根本は変わりはしないだろう。

 彼にはもう、彼女しか見えない。



 おはよう、と柔らかな、天使の声が聞こえた。この言葉は他の誰でもない、彼に向けられた言葉であった。

 彼の学校に転校してきた女子高生、榊間莉那は、教室に入るやいなや、他の生徒に目もくれず、真っ直ぐに彼の元へ向かい、朝の挨拶を行った。

「おはよう、榊間」

 彼は当然のことのように彼女の挨拶に答えた。

 周りが少し動揺しているのが感じられる。どうして、転校生が桐生の元へ向かっているのか、どうして桐生も彼女と親しげに挨拶しているのか、分からないからだ。昨日、全く接点のなかったはずの彼と彼女が、さも当たり前のように親しげに接しているのは、周りから見れば不思議に思えるのも無理のない話である。

 彼は優越感に浸っていた。クラスの話題になっていた彼女を、彼が独り占めにしているように感じられたからだ。

「えっ、何なに、榊間さんは桐生くんと知り合いなの?」と周りの女子からの黄色い声が上がる。彼女も、「ええ、そうなんです、どうやら古い知り合いだったようで」と微笑を浮かべながら返事をした。

 女子の黄色い声に誘われたのか、クラスの生徒が続々と彼と彼女のもとに集まってくる。

 彼と彼女は自分たちの出会った経緯を周りに簡単に説明することになった。小学生の頃に出会ったこと、その時に二人で話をしてそれきりであることを彼ら、彼女らに話した。もちろん、自分たちの根本に関わる大切な情報は伏せたままである。

 周りも納得したのか、「そーなんだ」「それだったら、初日から話しかければいいのに」「もう付き合ってるの?」等々、囃し立てる声が次々と上がった。少し苦手な騒がしい声であったが、どこか心地よい感じがした。彼女の存在が、彼と彼女の関係が認知されることに喜びを感じていたのである。

 二人を一通り煽った後、周りの生徒達は解散していった。気を遣っているのか、何なのかよく分からなかったが、彼にとって有り難いことであることには変わりはない。ようやく二人だけの時間が取れたのだから。

「それで、粋人くん。突然なんですけど、ノートを写させてはもらえませんか。放課後で構いません。授業内容を見た感じではそれほど必要ではないとは思うのですが、一応念のために」

「別に構わないけど……よかったら内容も教えようか」

 放課後、二人っきりになるための口実作りでもあった。うまいことを考えたものだと、彼は自分で自分を褒めていた。

「ああ、それは大丈夫です。こう見えても私、頭はいいほうですから。二人っきりになることは吝かではありませんが」

 彼の考える事などお見通しのようだった。でも、吝かではないなら、賛同してくれてもいいのに。

 急に彼女が顔を近づけた。その近さといったら、彼女の息遣いが聞こえるほどであった。彼女の双眸がしっかりと彼の両目を捉えている。彼は鼓動が早くなるのを感じていた。

「放課後に、あの神社でまた会いましょう」

 彼女がそう囁きかけるとキーンとチャイムが鳴った。約束ですよ、と人差し指を立てながら、彼女は自分の席へ戻っていった。

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