五 神様

 彼は隣町の中学校に通うことになった。同じ小学校からの顔見知りもいたが、中学校ともなると、大半が初めて見る生徒ばかりだった。初めて見る生徒ばかりで緊張しているのか、そわそわと落ち着かなかったり、初対面の相手とぎこちない会話をしている生徒が大勢いた。そんな様子を彼はぼんやりと観察していた。

 彼は他の生徒を見るたびに、生徒たちの子供っぽさが気になって仕方がなかった。話している内容、言葉遣い、仕草――何をとっても不満しか残らない。彼はうんざりしていた。 彼は小学校で会話の仕方というのを必死になって学んだ。運動の出来無い彼にとって会話は他人と自分をつなぐ生命線だったからだ。そのおかげもあり、何を話せば相手の興味を引き、話を盛り上げることができるのかをある程度熟知していた。しかし、その会話にも彼はもううんざりしていた。自分が知識を与える一方だったからだ。自分が本で得た知識を相手に与えるだけの一方的な会話。そんな会話に彼は飽きていた。自分と知識を与え合うような、考え方を共有し合えるような、そんな対等な相手が欲しかった。彼は中学校になればそんな相手もできるだろうと楽観的に考えていた。しかし、周りの様子を見る限り、そんな相手はいないようだった。

 彼は無理して周りの生徒と仲良くしようとは思わなかった。小学校に初めて入学した時には周りと孤立しないようにと必死だった。初めて続きで何もかも手探り状態だったのだから無理をするのも頷ける話である。今となって考えてみれば、十人程度で全員仲の良い小学校では、周りと孤立することはクラスから切り離されることに等しいことだ。正しい選択だったと思える。しかし、今は状況が違う。一つのクラスに三十人も生徒がいるのだ。しかも、それぞれが違った小学校から集まってきている。確実に様々な集団に分かれてくるはずだ。コミュニティが多くなればなるほど、それだけクラスの団結力も弱くなるだろう。多少孤立していてもそこまで問題ない。

 つまり、彼が行うべきことは、多少まともに会話できる相手を一人、二人見つけることだ。しかも、そこまで急ぐものでもない。とても気が楽だ。

 彼はそんなことを思いながら、クラスの様子を眺めていた。隣の席の男子がたどたどしくも話しかけてくるのを暇つぶし代わりに応答しつつ、話しかける人がいない時には、再び周りを観察するうちにいつの間にか一日が終わっていた。


 彼は中学校になっても運動制限がかけられていた。体育の時間は大体は見学して過ごす事になる。

 彼は日陰に置いてある適当なベンチに腰掛けながら、生徒たちが元気に走り回る風景を他人事にように眺めていた。

 彼は特に運動がしたいとは思わなくなっていた。ただ、自分の関係のない無為の時間が流れる。それだけが不満だった。

 彼は退屈だった。何か退屈しのぎはないものかと、ぼんやりと生徒たちの方角を眺めていた。

 すると、彼の隣に誰かが来た気配を感じた。不思議な事に砂の上を歩いたようなジャリジャリというような音はせず、突然ふっと湧いて出てきたような、そんな感覚だった。

 現れた気配の方に目を向けると、そこには巫女服姿の少女が立っていた。あの夜にあった少女がそのまま大きくなった、そんな姿をしていた。その赤と白の衣装は学校のグラウンドにはあまりに場違いな格好に思えた。

「隣に座ってもいいですか」

 巫女服の少女はあの夜のままの声で彼に尋ねた。彼の返答は決まりきっている。

「もちろん」

 彼がそう答えると、彼女は音もなく彼の隣に腰を下ろした。座った席は少し砂で汚れているが、彼女にはそんなこと関係ないのだろう。彼女には実体がないのだから。

「体育は見学ですか」

「そうだよ」

「中学校になってもまだ体は弱いままなんですね」

「これでも良くなっている方なんだけどなあ」

 一切音の通わない会話が続く。音らしい音といえば、体育のしている生徒たちの楽しげな声と砂が擦れる音が環境音として存在するぐらいだ。

「彼らが羨ましいですか」

「別に羨ましくなんてないさ。体を動かすことなんて疲れるだけだからね。まあ、あれだけの時間継続して走り回れるのは便利だとは思うけどね」

 彼の景色にはボールを追いかけ回している生徒たちが映っていた。どうやらサッカーをしているようだ。

「それを羨ましいというんですよ」

 彼女は指先を手に当て、くすりと笑った。美しい笑顔だった。

「ねえ」

 彼女は少し声のトーンを低くして彼に問いかけた。

「あなたは私の存在をまだ信じてくれていますか?」

「当たり前だろ」

「どうしてですか? 誰に尋ねても私を知っている人はいないというのに?」

「それは……」

 彼はあの夜のことを思い出す。彼女と逢ったあの夜のことを。

「私があなたという存在を覚えているからだ。他の人が知っていようがいまいが関係ない」

「あなたの見た幻だったのかもしれませんよ。もしくは夢だったのかも」

「あの夜のことは決して夢や幻なんかじゃない」

「いま会話している私があなたの頭の中にあるただの幻だというのにですか」

 彼女は不敵に微笑んだ。彼を誂うような、虐めるような、そんな表情をしていた。

 彼は問いかけられていた。彼女の存在を。彼女が存在することを誰も証明することができなかった。彼自身も証明することができない。ただ、彼女と過ごした一夜、それだけが彼女を示す唯一の手がかりだった。彼女は本当は存在しないのかも知れない。彼自身の妄想なのかもしれない。だってそうだろう。彼以外誰ひとりとして彼女がいたことを主張する人間がいないのだから。

「それでも私は――」

 キーンと甲高いチャイムの音がなった。その音に意識を向けた途端、彼女は姿を消していた。まるで最初からここにいなかったかのように、音もなく、気配もなく、消え去っていた。


 彼女の幻影は事あるごとに彼の前に姿を表した。彼が参加できない体育の時間はもちろん、授業中、休み中、帰りの時間、彼が時間を弄ぶ、ありとあらゆる時間に彼女はいた。彼女との会話は彼の近況に関する話題が多かったが、最後にはいつも決まって同じ質問を繰り返した。


「私は存在するのか」


と、繰り返し、繰り返し、質問した。彼はその問いに対して明確な回答をすることができなかった。彼女は本当にいないのかもしれない……そんな思いが頭に残り、はっきりとした答えを言い出すことができなかった。彼が無理やりその質問に答えようとすると、彼女は泡のように姿を消してしまった。


 気が付くと彼は神社に来ていた。彼女と逢った神社だ。鳥居は管理が行き届いていないのか、相変わらず塗装が剥げかけており、今にも崩れそうなほどボロボロだった。

 彼は中学生になってからは、ある程度自由に移動できるようになっていた。昔は体力を使うからという理由で行くことが禁止されていた神社であったが、今は自由に行くことが出来るようになった。多少は体力がついてきたということだろう。

 彼は拝殿の裏にある本殿に向かっていた。

 小学生の時には知らなかったが、神社は拝殿、本殿に別れている。拝殿は通常、一般の参拝客のための施設であり、賽銭箱などが置かれている。一方、本殿は神主や巫女など神事に関わる人のための施設であり、ご神体が祀ってある。

 彼はもちろん神事に関わってはいないが、この神社の神様と仲良くしているのだし、関係者みたいなものだろうと、勝手な理屈を付け、本殿の方に居座っていた。

 彼は石畳でできた階段の上にゆっくりと腰を下ろした。頬に当たる土臭い風が何故か妙に心地が良かった。

「今日も来てくれたんですね」

といつの間にか隣に座っていた彼女が語りかけてきた。まるでここにいるのが当たり前、そんなふうに感じられた。

「ああ。学校が終わって特にやることもないからな」

「そんなこといって、照れ隠ししてもだめですよ」

 そういうと彼女は微笑みながら彼の方に顔を向ける。何故か嬉しそうだ。

「私と逢った夜のことが忘れられないんですよね」

「……」

「私と逢った夜が夢なんかじゃないと思いたいんですよね」

「……」

「夢じゃないと、幻じゃないと思いたいから、わざわざここに来ているんですよね」

 何もかも図星だ。その通りだった。あの夜が、彼女が、夢であっていいわけがない。幻であっていいわけがない。そう思うからわざわざ神社に来て、彼女はいたのだと、あの夜はあったのだと、確かめているのだ。

「ふふっ、あまり虐めても可哀想ですね」

 そう悪戯っぽく笑うと、彼女は足を少しバタつかせた。彼女は相変わらず巫女服のままだった。

「まあ、足繁く神社に通うことは信者として立派な心がけです。感心、感心」

「ここには神様はいないんじゃなかったのか」

 言われっぱなしは面白くない。彼は少し反撃に出た。

「あら、私達で一緒に創ったじゃないですか。忘れちゃったんですか」

「それだって中途半端で終わって、結局最後まで創れなかったじゃないか」

「そうですね。途中で誰かが倒れちゃって、中途半端になっちゃったんですよね」

「うっ……」

 痛いところを突かれたが、まだまだ戦える。

「まあ、何はともあれ、ここには今神様なんていないだろう」

「あら、いるじゃないですか」

「どこに」

「ここに」

 彼女は自分に指を向けていた。心無しか誇らしげな表情をしていた。

「なにを馬鹿なことを――」

「そうですか? 私はてっきり、粋人くんは私のことを神様だと思ってくれていると考えていたのですが」

「それは……」

 その通りだった。あの夜、彼は彼女のことを自分の神様だと思ってしまった。

「それでも、ここの神社の神様じゃないだろう」

「それでは、今から、ここの神様になります」

「……」

 彼の奮闘虚しく、反撃は失敗に終わった。完敗だった。彼女も満足したのか、嬉しそうに笑っていた。

「ねえ、粋人くん」

 彼女は彼を目を見ながら微笑みかけた。眩しい、真摯な視線を彼に向けていた。

「あなたは私の存在をまだ信じてくれていますか?」

 幾度と無く繰り返された同じ質問。即答すべきなのに、とっさに答えられない。

「こんな意地悪な質問ばかりするけれど、私は嬉しいんですよ。粋人くん。あなたはあの夜からずっと私のことを想ってくれるのですから」

 彼は黙ったままだった。

「いるのか、いないのか、そんな不安定な自分を想ってくれるのです。こんなにも幸福なことはないですよね」

 彼はまだ、答えられない。

「想う力は信仰の力です。想えば想うほど信仰も、神様の力も強くなります。あなたが私のことを想ってくれているからこそ、こうして姿を表してお互いに会話することができているのですよ」

 彼はもう少しで答えが見つけられそうだった。

「神様にも人が必要なんです。自分のことを想ってくれる人が、考えてくれる人が、願ってくれる人が、信仰してくれる人が、必要なのです。神様はとても、とてもか弱い存在なのです」

 彼女の双眸がじっと彼の目を捉えている。彼は彼女から目が離せなくなっていた。

「ねえ、粋人くん」


「私は存在するのでしょうか?」

 簡単なことだった。こんな簡単な質問に、なぜいままで答えられなかったのか不思議なぐらいだ。

「……私が想うから、あなたがいる」

 そうなのだ。自分以外の誰が知っていようが、知っていまいが関係のないのだ。自分が彼女を知っている、それだけが重要だったのだ。彼女が現実に本当に存在するかどうか、それすら考える意味のない問いだったのだ。彼女が現実にいようが、いまいが、自分の中には彼女がいる。自分が彼女のことを想っている、それだけで完結する話だったのだ。

 だって彼女は、彼にとっての神様なのだから。神様は誰か一人が信仰していれば、想っていれば、それだけで彼女は存在できる。非常に簡単なことだったのだ。

「そうですね。その通りです。よく辿り着きましたね」

 そういうと彼女は屈託なく笑った。まるで花が咲いたかのような華やいだ笑顔だった。その笑顔を彼は直視することはできなかった。

「……ごめん」

「どうして謝るんですか」

 彼女はきょとんとした顔で彼を見つめていた。

「時間がかかってしまったから」

「ええ」

「こんな簡単な、大切な質問に答えられなかったから」

「ええ」

「即答してしかるべきだったのに。信じてしかるべきだったのに。少しでも、たった少しでも、君を疑ってしまった。君の存在を疑ってしまった」

 気が付くと、彼の目には涙が溜まっていた。彼は自分が許せなかった。彼女を疑ってしまった自分が恥ずかしくて、悔しくて、苦しくて、堪らなかった。こんな自分が、こんな惨めな自分が君の側にいることが……

「いいんですよ」

 そっけない返事だった。あたかもそれが当然だと思わせるような、簡素で、平易な返事だった。

「私のことを強く想ってくれる粋人くんに免じて、全部許してあげます。私のことをちょっとでも疑っちゃうのはショックでしたけど、今回は特別ですよ」

 彼女は人差し指を立てながら無邪気に答えた。彼女は神様というよりは天使なのかもしれない。

「だから、これからも私とお話してくださいね」


 彼女は彼の側にいた。

 彼が一人だけになると、そっと横に付き、話しかけてくれた。

 退屈な時間、憂鬱な時間を過ごすとき、いつも彼女が側にいた。

 今までは最後に苦しみを伴うような、苦い、苦い質問をぶつけてきた。彼の今までの信仰を問うような、厳しい質問だった。彼女といるのが辛い、そのように思うこともあった。

 しかし、今はもう違う。彼は明確な回答を得たのだ。

 彼女を想うこと、彼女を信じること。実に簡素で平凡な回答だったが、彼にとってはこれ以上にない真理であった。

 彼女がいることは日常になっていた。彼女がいないことなんて考えられなかった。

 彼女は彼にとって、大切な話し相手であり、友人であり、そして神様であった。

 これからも彼女を信仰し続ける……そのことに何の疑いもなかった。

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