四 カレ

 彼女が住んでいるのは田舎である。当然、彼と同じ隣町の中学校に通うことになった。彼女たちが通う学校は、中学校としては比較的小規模であり、彼女の学年は一クラスにつき三十人の、二つのクラスで成り立っていた。しかし、彼女にとっては小学校の頃と比べ、段違いに人が多い。同じクラスの顔見知りも四人程度しかおらず、彼とは別のクラスになってしまった。

 彼女は初めての環境に戸惑っていた。彼女は小学校までずっと知人に囲まれてきた。見知った人、見知った風景に囲まれて生きてきた。しかし、今、周りにいるのは知らない人ばかりである。見知らぬ人が、見慣れない風景が、そして何よりも彼がいないことが彼女を不安にさせた。

「どこから来たの?」

 隣の席の女子が遠慮がちに話しかけてくる。

「え……あの、えっと……」

 彼女は突然の呼びかけに、声が詰まった。返答は決まりきっているはずなのに、緊張のせいか、言葉が出ない。

「……にっ、西の森小学校から……来ました……」

「へえ、西小から来たの。私は四つ木小学校から来たの。隣同士、これからよろしくね」

「よっ、よろしく……」

 こんな短いやり取りにも関わらず、彼女は一日が終わったかのような疲労を感じていた。今までに感じたことのない疲労感だった。初対面の人と会話をすることに苦痛を感じていた。なぜ会話をしなければいけないのだろう。なぜこんな思いをしなければいけないのだろう。そう思いながら彼女は無意識に彼のことを考えていた。

 彼は今頃どうしているだろうか。同じように隣の席の人に話しかけられているのだろうか。彼のことだからきっとうまく会話をこなしているのだろう。

 ……彼に会いたい、そんな思いが彼女の頭の中を駆け巡った。彼の姿をひと目でいいから見たかった。安心したかった。知らない人ばかりのこの憂鬱を、この心細さを埋めてくれるのは彼だけだった。

 初日ということもあり、その後も初対面の人から次々と話しかけられた。その度に溜まる疲労と苦痛と憂鬱を、彼を思い浮かべることで紛らわせていった。彼女の中で、彼について考えることは、ある種の救済となっていた。彼女の頭の中は次々と彼で埋まっていった。その日一日が終わる頃には、彼女の頭は彼でいっぱいになっていた。


 彼女が中学校の新しい環境に慣れる頃には一学期が終わっていた。慣れるまでの期間は彼女にとって、地獄のような日々であった。クラスの生徒は新しいコミュニティを作ろうと必死になっていた。見知っている生徒はもちろん、自分の知らないであろう生徒にも話しかけ、新しい友人作りに精を出していた。クラス全体が、熱を持ったような、活気あふれる雰囲気を醸し出していた。そんなクラスの雰囲気に、彼女は疎外感を感じていた。自分だけがこの雰囲気についていけていないように思えた。小学校の頃からの知り合いも、新しい環境に溶け込もうと必死なのか、他の生徒と同じように、他の小学校から来た生徒に積極的に話しかけていた。当然、彼女に話しかける機会も目に見えて減っており、彼女はますます、クラスから孤立した気分になっていった。

 彼女も当然、見知らぬ生徒に話しかけられる時がある。見ず知らずの他人に話しかけられる度に、何を答えたらよいか、知恵を絞って考え、ぎこちない返答を繰り返していた。何度もそんな応答を繰り返す度に彼女は自己嫌悪に陥った。なぜ、上手く返答できないのだろう、喋れないのだろうと何度も考えた。心の折れそうな作業だった。彼のことを考え、気を逸らさなければ、とてもではないが耐えられなかった。

 その苦労の甲斐もあり、彼女の周りには彼女と同じような、シャイで寡黙な生徒が集まり、グループを形成していた。類は友を呼ぶとはこのことだろう。日常で彼女に話しかけ、コミュニケーションを取る人が次第に固定されるようになった。そのおかげで彼女は日常に少し余裕が持てるようになった。周りを見渡すと、クラスの中でそれぞれ、特徴的な集団が形成されているようだった。常に積極的で、クラス全体を動かす原動力、発言力を持つ大きな集団、そこまで積極的ではないが、クラスの行事にはきちんと参加する集団、消極的で常に意見を持たず、周りの決定に従う集団、その他どこの所属にも加わらず、個々人で活動する人など様々であった。

 彼女が所属しているグループはもちろん消極的な集団である。行事などで意見を出すことはしない。しかし、その分周りの様子をじっくりと伺うことができた。周りを取り仕切る生徒、ジョークを言って周りを盛り上げようとする生徒、冷静に意見を上げる生徒、あからさまにやる気のない生徒、おとなしく意見を聞くだけの生徒……と様々な生徒の様子を見ていた。小学校の頃と比べ、非常に多様であった。

 彼女は誰となら上手くいきそうか、誰と関わるべきではないかを真剣に考えていた。小学校の頃までと違い、自分だけの小さなコミュニティだけを見ているだけでは生きていけない。自分が興味がなくても、向こうから自分に関わってくることがあることを痛いほど理解させられた。必要最低限の特徴を踏まえておき、上手く避ける方法を考えておくことが彼女にとっての中学校生活の凌ぎ方であった。

 そうして、中学校生活に多少余裕が持てるようになると、愛しい彼について調べるようになっていた。

 彼を見る度に、彼女の目線は彼の一挙一動を追っていた。彼のクラス、立ち位置、昼食、成績、使っている筆記用具、読んでいる本。彼に関する情報なら、どんなものでも手に入れた。登校時間はもちろんのこと、下校時間もしっかりと確認し、彼に気づかれないように、そっと後ろをついて行き、彼の様子を確認することが日課になっていた。


 彼は帰り道、よく神社に立ち寄っていた。彼の家の近くにある、古びた神社だ。

 小学校の頃にもしばしば訪れているイメージが合ったが、中学校になってから訪れる頻度が急激に上がったように感じた。

 彼は裏にある社の階段の上に座ると、何かを思案しているのか、そのままじっと動かないでいた。彼女も彼に見つからないように注意しながらずっと彼の様子を観察していた。

 そうして、しばらくすると、また立ち上がり、彼は家まで帰っていった。

 彼が神社にいるのは、短くて二十分、長い時であると二時間にも及んだ。

 当然、彼女は彼がこの神社に居座る理由が気になった。この神社に何か秘密があるのだろう、そう思い、地元の人や図書館などで神社についての情報をかき集めた。

 こうして分かったことといえば、この神社にはこの地域特有の蛇をモチーフにした民族神が祀ってあること、参拝客がほとんどいないこと、管理人が神社を整備するお金をほとんど持っていないこと、ぐらいである。

 調べても、調べても、彼がこの神社に興味を惹く理由がわからなかった。蛇を祀る神社であれば、学校の近くにももっと有名な神社がある。そもそも、ここの神社の神様など、文献にも僅かな情報しか載っていないほどマイナーであり、わざわざ信仰する意義を見出すこともできない。さらには、この神社の管理人は別の宗教団体に所属しており、この神社のことなどまるで頭にないように思える。この神社で特筆すべき点といえば、秋の初め頃に、平らな花弁の付いた赤い花がたくさん咲くということぐらいであろうか。これらのことから、少なくとも、彼はこの神社に参拝目的で来ていないことが伺える。

 では、どうしてわざわざ神社に寄ったりするのだろうか。この神社に深い思い入れがあったりするのだろうか。体の弱い彼がわざわざこのような寂れた神社に訪れたくなるようなエピソードがあるとは考えにくいが、彼女の持ちうる情報ではこのぐらいのことしか考えられなかった。

 しかし、彼女にとっては彼が神社に訪れることはありがたいことだった。彼の秘密を独り占めしているように感じられたからだ。

 この神社には、私と彼が二人きり。そう想うだけで幸せな気分に浸ることができた。

 二十分から二時間、ただただ彼を見守るだけであったが、彼女にとってはこれ以上にない幸福な時間だった。恐らく一日中であっても彼女は飽きずに彼の様子を見続けることができるだろう。

 神社に訪れる理由は気になる所ではあるが、この際知らなくても問題ではない。彼といること、彼の秘密を知っていること、このことが重要なのである。


 彼のために多くの時間を割いている彼女であったが、それにも関わらず踏み込んだ行動を取ることはなかった。それどころか、彼女から話しかけることさえなくなってしまった。彼に嫌われたらどうしよう……そんな思いが頭のなかで渦巻き、話しかける勇気を出すことができなくなっていた。

 そんな生活に彼女は満足していた。彼との関係は進むこともなかったが、彼を見つめる日々に確かな幸福を感じていた。ずっとこんな時間が続けばいい、そう思っていた。

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