三 小学校

「今日の調子はどう?」

 彼は車の中にいた。彼は少し手が汗ばむのを感じながらおとなしく座っていた。運転席には母親が乗っており、しきりに彼の様子を気にかけていた。

「うん、大丈夫」

 彼の隣には、陽の光に反射して眩しく輝くランドセルがあった。このランドセルの艶やかさは、まるで今か今かと出番を訴えているように思えるほどだ。そう、今日は記念すべき初登校の日である。この日のために体調を整えてきたのだ。体の調子はすこぶる良い。

「よかったわ。粋人はこの日を楽しみにしていたものね。でも、あんまり張り切り過ぎたらダメよ。初登校の記念日に倒れることになっちゃうから」

「わかってるよ、お母さん」

「あと、昼食後にはちゃんとお薬を飲むのを忘れちゃダメよ。まだまだ病気が治ったわけじゃないんだから」

「わかってるって」

 そんな会話を繰り返すうちに小学校の前まで来ていた。母親は学校の中にある教員用の駐車場に車を止め、彼の手を引き、学校の中に入っていった。

 学校の中は、少し古びているようだった。床は木製の長い板が敷き詰められており、ワックスを掛けてあるのか、光に反射すると光沢が見えた。天井には黒っぽいシミがいたるところに存在し、何年も改修していないことが伺えた。

 学校の中を観察していると、何人かの生徒とすれ違った。どの生徒も皆、見知らぬ彼が珍しいのか何度も振り向いて、彼の様子を確認しているようだった。生徒とすれ違う度に彼は気恥ずかしさから、顔を下に俯いてしまった。

 そのうちに職員室まで辿り着いた。扉を開け、母親が挨拶をすると一人の先生が隣にある応接室に案内した。母親と一緒に応接室にあるソファーに座り、先生の話を聞いていた。話によるとこの先生が彼のクラスの担任らしいことがわかった。

 簡単な会話を終えると、

「では、この子をよろしくお願いします。先生。……帰る時間になったらまた迎えに行くわ。頑張ってね」

といい母親は去っていった。母親が出て行くと同時に、キーンコーンと甲高い音が学校中に響いた。これがチャイムかと初めて聞く音に感心しながらも、担任の先生に引かれ、階段を登っていった。どうやら、彼が転入する教室は二階のようだ。教室に入ったら簡単な自己紹介をしてもらう旨を歩きながら伝えられ、教室の前までやってきた。

「合図があるまで廊下で待っていなさい」と彼に伝え、先生は教室に入っていった。

 別に一緒に入っていっても問題ないのではなかろうか、と思いつつも、彼は教室の中で話す先生の言葉に集中していた。

「今日は朝礼の前に、大切なお知らせがある」

 彼は俄に緊張してきた。心無しか手が汗ばむのを感じる。

「このクラスに新しい仲間が増えることになった」

 そろそろだろうか。自己紹介の話出しの言葉を思い出し、準備していた。上手く喋ることができるだろうか……少し不安だった。

「入りなさい」

 先生の言葉とともに彼は扉を開け、教室の中に入っていった。教室の中には十人ほどの生徒がいるようだった。クラスの生徒全員が、彼を観察しているようだった。彼は緊張で、顔がほんのり火照るのを感じていた。

 先生が彼にチョークを渡し、黒板に自分の名前を書くように促した。初めて手に取るチョークは粉っぽく、手が簡単に汚れてしまった。あんまり触れていたくないなと考えているうちに、自分の名前を書き終わっていた。

 チョークを黒板の受け皿に置いた後、彼はクラスの生徒の正面に向き合った。やはり、生徒全員が彼に注目している。彼は俯きそうになる顔を必死に上げた。少し呼吸を整え、彼は自己紹介を始めた。

「はじめまして、桐生粋人です。これから、このクラスで一緒に授業を受けることになりました。体の弱さから、皆さんにご迷惑をお掛けすることもあるかもしれませんが、その時は、どうぞよろしくお願いします」

 上手くいっただろうか……周りの様子を伺うと皆が彼に注目していた。誰の表情にも共通して、少し驚いた様子だった。何かおかしなことを言ってしまっただろうか。

 彼が自己紹介を終えると、先生は彼が転校する経緯を簡単に話し、後ろの方の窓際の席に座るように促した。彼はクラスの生徒からの視線を感じながらも自分の席まで辿り着いた。窓際の席だけあって、眺めがよく、学校内の小さめなグラウンドを一望することができた。

 彼が席につくと早速授業が始まった。彼は授業を受けるのを楽しみにしていた。授業を受けるのはもちろん初めてである。最初の時間は国語の授業らしい。たくさんの人と一緒に座って話を聞くということに多少の居心地の悪さを感じながらも、緊張半分、興奮半分で授業を受けていた。そのせいか、自然と背筋を伸ばすようになっていた。

 周りの様子はというと、新入生である彼の様子が気になるのか、そわそわと落ち着かない雰囲気になっていた。チラチラと彼の方に視線を移す人が多く、そのせいか、先生は苦笑を浮かべていた。

 やがて授業終了を知らせるチャイムが鳴ると、先生は生徒に対して、授業に集中するように注意した後、教室を出て行った。

 先生が教室のドアを閉めると、クラスの全員が彼のもとに集まり、次々と質問していった。

 ここに転校する前の生活を聞く生徒、自分の病気について興味をもつ生徒、自分の趣味趣向について尋ねる生徒、好き勝手質問するのを窘める生徒等々、様々だった。もちろん、彼はこのように質問攻めに合ったことは初めてである。どうすればいいのか分からないため、彼はとりあえず、一つ一つ丁寧に質問に答えていった。

 失礼にならないように丁寧に話すこと。

 緊張しないように、ゆっくりと話すこと。

 分かりやすいように身振り手振りを使うこと。

 質問した相手の方に顔を向けること。

 相手の目を見ること。

 彼ができることはこれぐらいであった。このように一つの質問に時間を掛けて対応していった。彼が時間を掛けて応答を終えると、また次から次へと質問がやってくる。そのため、休憩時間の間ずっと質問に答え続けるはめになった。慣れないことをしたせいか、学校が終わる頃にはヘトヘトになっていた。

 帰ったらすぐに寝てしまいそうだなと感じながら、登校の初日を終えた。



 彼が登校する次の日には、彼に対する生徒たちの対応は落ち着いたものとなっていた。初日の質問攻めが嘘のように彼に話しかける頻度が減っていた。彼について知りたいことが初日で大体聞くことができた、ということもあるだろうが、何よりも彼が虚弱であるということが生徒たちの興味がなくなってきた理由なのだろう。この田舎の学校では、外に出て遊ぶ、ということが大きな市民権を得ているようだ。

 彼は少し寂しい思いであった。自分だけがクラスの中で孤立しているように感じたからだ。もちろん、彼が自分から話しかければ孤独を感じずに済むのだろうが、彼にはそれができなかった。今まで学校のような集団生活をしたことのない彼には、どのように話しかければよいのか、何を話せばいいのか、わからなかったからだ。

 しかしながら、頻度が減ったとはいっても、休憩時間に話しかけてくれる生徒がいなくなったわけではない。生徒たちが気が向いた時には彼に質問したり、他愛無い会話をしてくれるようであった。

 自分から話しかけることのできない彼とって、そんな他愛無い会話であっても貴重であった。できるだけ、長引かせようと、話を続けようと、必死になって考えた。会話の中で広げられそうな話題があれば、すぐさま飛びつき、話を膨らませていった。幸い、彼は日常的に読書をしており、同級生たちが知らない知識をたくさん知っていた。それらの知識を会話に織り込むことで会話をしている相手の興味を惹くことができた。

 彼の話の広げ方が同級生たちに受けたようで、外で遊ばない時には、定期的に彼の元に集まり、質問や会話をするようになった。そのおかげか、教室の中で孤独を感じることが少なくなっていた。

 もちろん、彼に誰も話しかけないような空白の時間というものは存在する。そんな時は家から持ってきた本をランドセルから取り出し、机の上に広げ読むようにしていた。外で元気に走り回る生徒、教室の中で楽しげに会話をする生徒、彼ら彼女らと比べると、一人で本を読んでいる彼の姿はより孤立しているように映る。しかし、本を読んでいる時は不思議と孤独を感じることはなかった。目の前の本の内容にのめり込んでいるため、寂しいと考える暇もないためである。彼と読書の相性はすこぶる良かった。


 そのような学校生活を一月も続けるうちに、彼は周囲からクラスの一員として認められるようになっていた。クラスの生徒達は彼を転校生としてではなく、以前からいる見知ったクラスメイトのように接するようになっていた。

 彼は、クラスの中で大人しい優等生の立ち位置にいた。授業を真面目に受けており、知識も豊富。その上、暇な時間があれば本を読んでいる。周りが彼を優等生であると評価するのは当然といえば当然のことであった。

 彼は上手くクラスに溶け込むことができたことにホッとしていた。なんとか無事に学校生活を送ることができそうだった。

 しかし、彼は十分に学校生活に満足しているわけではなかった。依然として彼の体は弱いままだ。心臓の病気は快方に向かっているらしいが、まだまだ激しい運動をすることを禁じられていた。この学校の生徒は休憩時間の多くを外で遊ぶことに費やす生徒が多い。そのため、大体の場合、教室には彼を含めて二、三人の生徒しか残っていなかった。彼は自分の席から外を覗き、元気に遊びまわる生徒たちを見るたびに、ぼんやりとした不安を感じていた。自分と他の子との違いをはっきりと見せつけられているかのように思えて仕方なかった。まるで、自分がこの世界から取り残されたような気分に陥った。

 そんな時は、昔、神社で出会った巫女服の女の子のことを思い出していた。

 彼女と過ごした時間はまるで夢のようであった。彼女のことは誰も知らなかった。両親、近所の人、神社の管理人、誰に聞いても、彼女を知っている人はいなかった。彼女と神社で出会ったことを話しても誰も信じてくれなかった。夢でも見たのだろうと一蹴され、相手にされなかった。しかし、彼は彼女のことをはっきりと覚えていた。月に照らされた白い顔、頬を撫でる黒髪、吸い込まれそうな瞳、彼女と交わした言葉……どれもたった今体験してきたかのように鮮明に思い出すことができた。周りがどう思おうとも、彼女は確かに、彼の中に存在していた。まるで彼女を知っているのは世界で自分一人、そんなふうに思えた。

 彼にとって彼女は特別な存在だった。彼女のことを、あの夜のことを思い出すと心を落ち着けることができた。自分だけが知っている彼女。自分と彼女だけが知っている時間。そんなふうに思うだけで彼はどうしようもない孤独や不安から開放された。

 彼は孤独を感じる度に、彼女のことを想っていた。

 彼女のことを思い出す度に、彼女への気持ちが、信仰が強くなっていくのを感じていた。彼女のためなら何をしてもいい……そう思えるまでになっていた。

 ……もう一度、彼女に会いたい。

 そう考えているうちに、

 ……会って話がしたい。

 学校生活が消化されていき、

 ……この気持ちを伝えたい。

 彼は小学校を卒業した。

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