ニ ユダチユキ
許せない。
弓立百姫(ゆだちゆき)は憤っていた。
なぜ彼女が、彼と一緒にいるのか。
なぜ彼女が、彼と話しているのか。
なぜ彼女が……
考えるだけでも苛々する。
私は彼をずっと見てきた。
彼が高校生になる前から。
彼が病弱であった頃から。
ずっと、ずっと見てきた。
彼は美しい。
彼は愛おしい。
彼は神々しい。
私にとって、彼はたった一人の天使様だ。
そんな彼が、彼女の側にいてはいけない。
そんな彼が、誰かの側にいてはいけない。
汚れてしまう。
穢れてしまう。
天使ではなくなってしまう。
私だけの彼。
あなたを守らなければ。
私のあなたに永遠を……
弓立百姫が彼と初めて逢ったのは小学生の時だった。
彼女の住む町はいわゆる田舎である。町の中心にはほんのささやかな商店街や住宅街があるだけで、中心を抜けるとすぐに、辺り一面が緑で覆われる。このような小さな町であることもあり、目新しい噂があれば、たちまち町中に知れ渡り、その噂を共有することがこの町の中で一種の娯楽となっていた。
とはいっても、今まで彼女が聞いてきた噂話というものは、「隣の家の飼い犬が逃げ出した」、「向かいの家の人が宝くじを当てた」、などといった自分には関係のない、下らない話ばかりであった。
彼女にとって他人がどうなっていようが、どうでもよいことであった。彼女は他人にさほど興味を持っていなかった。自分と、その周りの人が、彼女を取り巻く世界のすべて。彼女の世界は、自分の住む田舎よりもさらに狭いコミュニティで成り立っていた。彼女は、自分の世界の外で何が起きようが何の関心も湧かなかった。そのため、他の子のように、噂話に対して特別興味を持つということはなかった。
しかし、今回の噂話には、彼女は大いに食いついた。
その噂話というのは彼女のクラスに新入生が入ってくるということだった。
新入生は元々、この町にいたらしいのだが、心臓の病気のため、学校に通うことができなかった。しかし、小学五年生になってからは心臓の調子もよくなり、体力も少しずつ付いてきたため、不定期的ではあるが、学校に通うことになったということらしい。
彼女は不安だった。どのような子が来るのだろうと。彼女は自分の持つささやかなコミュニティが、日常が、変わることを恐れていた。自分の世界が侵食されることに怯えていた。彼女の学校は田舎の学校であるため、クラスのメンバーは彼女を合わせて十人と非常に少ない。そのため、彼女の意志とは関係なく、新入生と関わりを持たざるを得ない。自分はその子と上手くやっていけるだろうか……そんな不安を抱えながら当日の朝を迎えた。
新入生が入ってくる当日、クラス中はその子の話題で持ちきりだった。普段はシャイな彼女であったが、この時ばかりは、彼女もいささか興奮した面持ちで友人と新入生について話し合っていた。
チャイムが鳴り、先生が入ってきて、いよいよ新入生と対面する時がやってきた。先生の「入って来なさい」という言葉と共に、その子は教室へ入ってきた。
新入生は、いや、彼は、驚くほど白い肌をしていた。田舎には娯楽がそれほど多くないため、たいていの子供は外で遊ぶ事が多い。そのため、日に焼けている子供が大半なのである。彼女も、彼女の友人も比較的、室内で遊ぶことが多いため、周りと比べるとあまり日に焼けていないほうではある。そんな彼女たちと比較しても、比べようようもないぐらいに彼の肌は白かった。櫛で解いたように真っ直ぐで、濡れたように輝く黒髪をしていることもあり「まるでお人形さんみたい」と彼女は思った。
他の子も彼の容姿に気付いたのか、少しざわついていた。そんな中、彼は先生に促され、黒板にチョークで名前を書き、自己紹介を始めた。
「はじめまして、桐生粋人です。この度、このクラスで一緒に授業を受けることになりました。体が弱いため、皆さんにご迷惑をお掛けすることもあるかもしれませんが、その時は、どうぞよろしくお願いします」
同学年の男子とは比較にならないほど丁寧な口調だった。どこでそんな話し方を覚えたのだろう。育ちが良いのだろうか。普段から丁寧な口調なのだろうか……
あれこれ考えているうちに、いつの間にか先生による紹介も終わり、先生の指示の下、彼は彼女の後ろ側の空いている席に座った。
その後の国語の授業は全く頭に入ってこなかった。頭の中がふわふわとしていて、熱が篭っているような感覚を味わっていた。
彼女は転入生の様子が気になって仕方がなかった。
どのような姿勢で授業を受けているのだろう。やはり、背筋はピンとしているのだろうか。それともだらしなく猫背のようになっているのだろうか。いやそんなことはない。きっと姿勢正しく授業を受けているはずだ。彼が姿勢よく授業を受けている様子はきっと絵になる。見てみたいな。眺めてみたいな。ああ、彼が前の席にいれば簡単に見ることができるのに……
彼女は彼の方向にちらちらと頭を動かし、彼の様子を確認しようとした。しかし、彼の席は彼女の真後ろの席であったため、彼女からは彼の様子を見ることはできなかった。
他の子も転入生が気になるのか、教室全体が少し落ち着かない様子だった。先生は苦笑いを浮かべながら授業をこなし、休憩のチャイムが鳴る頃には「転入生のことを気にかけるのもいいが、授業もきちんと聞くんだぞ」と言い、教室を出て行った。
先生が教室を出るや否な、クラスの全員が――とはいっても十人ほどしかいないが――転入生のもとに集まり、質問攻めにした。
「今まで、何をしていたの」「どこに住んでいるの」「どれぐらい体が弱いの」「何が好きなの」「同時に質問したら答えられないでしょ」等々、好き勝手話すクラスメイトに対して彼は丁寧に答えていった。
そんな彼の様子を彼女は遠巻きからじっと見つめていた。
話し方。
声のトーン。
身振り手振り。
揺れ動く黒髪。
優しげな目線。
困ったような表情。
彼の一挙一動に、もう目が離せなくなっていた。
彼が何か動作をするたびに胸が高鳴っているの感じていた。
「ああ、これが……」
”恋”なのだと思った。
彼は大人しい性格だった。病弱で今まで同級生と話したことがないからか、自分から話しかけるということは滅多にしなかった。
しかし、話をすることが苦手という訳でもなかった。同級生から話しかけられれば、きちんと会話をこなす。彼が大人しい性格にも関わらず、会話をスムーズに行えるのは、偏に彼が博識だからである。
彼は同学年とは思えないほど物知りであった。彼は同級生の疑問や質問のほとんどを答えることができた。さらに、彼は同級生の知らない知識や話題をうまく会話の中に盛り込むことが得意だった。彼との会話は、同級生たちを飽きさせない。そのため、同級生たちは知らないことや分からないことがあれば、自然と彼の元に集まり、会話をするようになった。彼の話では、病院で寝ている時間を潰すために両親が何冊も買ってきた本をずっと読んでいたという。彼がいろんなことを知っているのはきっとその生活のおかげだろう。その生活の名残なのか、今でも暇があれば本をよく読んでいるそうだ。
実際に学校でも、空いた時間に本を読んでいる姿を見たことがあった。
同級生が外で無邪気に遊んでいる中、教室内で他愛のない話をしている中、彼一人だけが、ただ静かに本を読んでいた。
まるで、彼のいる場所だけは自分たちと切り離された場所であるように思えた。
彼がいる場所がひどく神聖な場所のように思えた。
彼が机に座り、本を広げる。
ゆっくりとページが捲られ、視線が少し揺れる。
彼女はその動きをじっと見つめていた。
彼女は彼の動きを、頭のなかでトレースしていた。
彼女には、彼の見ている光景がまるで自分の見ている光景のように、はっきりとイメージすることができた。
目に飛び込んでくる文字の数々、紙の触感、背表紙のザラザラとした手触り。
喧騒の中にも関わらず、彼が本のページを捲る音がはっきりと聞くことができた。
彼の微かな息遣いも感じることができた。
不思議な感覚だった。まるで、自分と彼が一体となったような、溶けて一つとなったような、そんな感覚だった。
その感覚はとても気持ちが良かった。
彼女は今までの人生の中で味わったことのない幸せを感じていた。
彼との出会いから、彼女の生活は一変した。
彼女の世界は彼を中心に動き出していた。
思えば、今までの彼女の生活は灰色そのものだった。
朝起きて、朝食を取り、登校し、学校で授業を受け、他愛のない会話をし、下校し、夕食を取り、お風呂に入り、寝る。そんな刺激もない、色のない生活だった。
毎日、毎日をただ淡々と、ルーチンワークのようにこなすだけの生活だった。
何の変化もない退屈な日々だったが、当時の彼女はそれで満足していた。むしろ、この生活リズムが変わることを恐れていた。
しかし、今は違う。
彼と出会ってから、彼女の生活に光が灯り始めた。
彼が動く度、表情を変える度に、彼女の世界は色付き始めた。
ペタペタ、ペタペタと刷毛でペンキを塗るように、彼女の見る景色は色彩豊かになっていった。
そして、いつの間にか彼女の世界は彼一色に染まっていた。
彼が転校してきて一月も経つと、彼の存在にクラスが慣れたのか、来た当時のような熱狂的な空気が収まり、以前ような教室の空気感を取り戻していた。まるで、最初から彼がいたような、彼がいるのが当たり前のような、そんな雰囲気になっていた。
彼は、クラスの中では大人しめの優等生の立ち位置を獲得していた。病弱で体力がないため、常に自分の席に座っており、家から持ってきた本を広げていた。
時折、窓際の席から物憂げに外の景色を覗きこんでいた。本から手を離し、頬杖をついて、溜息をついていた。そしてしばらくすると再び本に視線を合わせ、読書を再開していた。
その様子を彼女は友人との退屈なお喋りに興じながらもしっかりと観察していた。外に視線を合わせると、そこには無邪気に遊ぶ男子の姿があった。彼も外で遊びたいのだろうか。彼女は彼が持病のため外で遊ぶことを禁止されていることを知っていた。彼も外の彼らのように元気に走り回ったりしたいのだろうか。遊びたくても遊べない。走りたくても走れない。そんな哀れな彼が、不憫な彼が、彼女は愛おしくて堪らなかった。
もちろん、彼はクラスから仲間外れにされているわけではない。教室に残った生徒が彼との会話に興じることも珍しくない。彼女も空いた時間には、彼の様子を見計らい、会話をするようにしていた。彼女は彼とは世間話程度の他愛無い会話をよくした。しかしながら、自分の気持ちを伝えようとすると、踏み込んだ話をしようとすると、とたんに気恥ずかしくなってしまい、すぐに会話を打ち切ってしまった。
なかなか彼との距離が縮まらない……そんな悶々とした気持ちを抱えながらただただ日常を消化していった。そうして、彼は毎日学校に通えるほどの体力がつく頃には、彼女も彼も、小学校を卒業してしまった。
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