一 境内

 桐生粋人(きりゅうすいと)は境内の入り口に来ていた。

 親が寝静まった頃合いを見計らい、慣れない夜の道を通り抜け、彼にとって気が遠くなるほど長い神社の階段を上り、ようやく辿り着いたのだ。

 彼は荒々しい息をつき、汗を拭った。階段を登った直後であるため、彼の視線は自然と空に向かっていた。夜の空にはたくさんの星が散りばめられ、その中心には綺麗な円を描いた月が、空の主は自分だと言わんばかりに存在を主張していた。今宵は満月だ。その月明かりのおかげで辺りの景色がよく見えた。

 彼の頭上には小さめで古臭い鳥居が佇んでいた。暗くて見難いが幾つか塗装が剥げかけており、今にも朽ち果てそうだった。あまり人気のない神社なのだろうか。彼は少しばかり不安になった。

 涼しげな夜風と鈴虫の控えめな音が通り抜け、彼はようやく視線を前に向けた。空を仰いでいる場合ではないのだ。


 彼には叶えたい願いがあった。


 彼は生まれつき体が弱かった。生まれた時から心臓の病気を抱えており、走ることはおろか、歩くことさえ長く続けることができなかった。その虚弱な体質もあり、彼は学校に通うことを両親から止められていた。彼は同学年の子が楽しそうに学校に通う様子を自宅の窓から覗くことしかできなかった。

 当然のことながら行動範囲も狭かった。彼は両親から勝手な外出は禁じられていた。その上、両親と一緒であっても、長い階段があるような、彼の体力を消耗する場所に連れて行ってもらえることはなかった。

 彼は、人並みの体力が欲しかった。学校に通う同級生たちと同じようにグラウンドを走り回ることのできるような、毎日学校に行けるような体力を望んでいた。もう、自分だけが自宅で引きこもっているのも、他の子がはしゃいでいるのを指を咥えて見ているのも嫌だった。自分も他の子と同じようになりたかった。

 神社は神々を祀る場所。神様が願いを叶えてくれる場所。本でそのことを知った彼は勇気を出し、自分の願いを叶えたい一心で神社へ向かうことを決心した。


 彼は境内の入り口で呼吸を整え、気持ちを落ち着かせると、中へと足を進めていった。

 境内に入ると、赤い点が血液を散らしたように放射状にばら撒かれていた。その赤い点は輪生状についた花弁が外側に翻っている、珍しい形をした花であった。その特徴的な花は図鑑で見たことがあった。確か、彼岸花という名前だったはずである。月の光に照らされているせいか、その花の色は艶やかで妖しく思えた。彼岸花が咲いているのも神社特有のものなのだろうか。

 彼は神社に来ることは初めてであった。彼の中にあるのは本で知った拙い知識だけである。どこでお祈りすればよいのだろうかと考え、奥のほうを見渡すと、小さな建物らしきものが見えた。きっとあの建物が社だ。彼は慣れない景色の中、不安と高揚の両方の気持ちを抱えながら、ゆっくりと前へ、前へと進んでいった。

 小さな社に近づくと、そこには賽銭箱があった。ここでお祈りすれば良いのだろうかと社の周りをうろうろしていると、裏側にも小さな社があるのを見つけた。どうして裏側にも社があるのだろうと不思議に思い、興味本位で彼は裏側の社に近づいていった。

 裏の社の入り口は側面にあった。表の社の近くにあるため、正面に入口があると狭くて入りにくくなるからという配慮なのかもしれない。彼はその側面の入口に近づいて行くと、その縁側に人影が写っていた。こんな時間に自分以外にも神社に人がいるのかと不思議に思いながら、その人影にゆっくりと近づいていった。その人影もこちらに気付いたのか、ゆっくりと立ち上がり、彼に近づいていった。


 その人影の正体は女の子だった。彼と同じぐらいの年だろうか。彼は月夜に映る彼女に見蕩れていた。巫女装束を着た彼女が月の光に照らされたまま、ゆっくりと彼を見下ろしていた。淡い光で照らされた長い黒髪が風でなびき、白い頬にかかった。彼女の傍らで揺れる彼岸花と相まって、酷く幻想的な光景だった。

「このような時間に何用でしょうか」

と冷たい口調で彼に言い放った。十歳前後に見える彼女から想像もできないほど丁寧な言葉遣いだった。

「……神様に願いを……叶えてもらいたくて来たんです」

 彼は想定外の冷たい言葉に、物怖じした。しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。彼には叶えたい願いがあるのだ。

「神様……ですか……」

と少し間を開けた後、

「この神社にはもう神様は存在しません」

とはっきりとした口調で彼女は答えた。何者も寄せ付けないような、冷たく、はっきりとした物言いだった。

「……なぜ、神様がいないのですか。ここは神社なのでしょう」

 どういうことだろう、と彼は考えた。神社に神様がいないことなんてあるのだろうか。いや、こんな寂れた神社だ。神様も見限って出て行ってしまったのかもしれない。

「それは……」と彼女は言いよどむと目線を少し下に向けた。

「私にもわかりません。私たちを見限って出ていかれたのかもしれません。もしかすると最初から存在しなかったのかもしれません」

 気まずい沈黙が続いた。

 彼女は少し悩んでいるようだった。

 なにか思うところがあるのか、彼女の視線の先には彼岸花があった。その表情はどこか悲しげで、儚く感じられた。

 神様のいない神社、そこに巫女の存在理由などあるのだろうか。きっとそのことで悩んでいるのかもしれない。こんなに信心深い巫女がいるのにいなくなるなんて、なんて失礼な神様だろうか。

「……あなたは神様はどのような存在だと思っていますか」

 唐突な質問に彼は戸惑った。神様がどんな存在だなんて深く考えたことがなかった。

 どのように答えればいいのだろうか。

 彼はしばらく考えた後、

「願いを叶えてくれる存在だと思います」

と答えた。すると彼女は一瞬だけ悲しそうな顔を見せた。

「そうです。神様とは願いを叶えてくれる存在です。しかし、もし、願いが叶うことがなかったら、願いが届かないことがあったら、そんな神様は存在する意味があるのでしょうか。そんな神様は……」

「不要です」

 そう言うと彼女は目を伏せてしまった。口調は落ち着いているが酷く感情的になっているように彼には思えた。心無しか彼女の手は少し震えているようだった。

 彼は考えていた。何が彼女を悲しませているのかと。彼には、彼女が悲しい顔をしているのが耐えられなかった。自分には何ができるのだろう。どうすれば、彼女を励ますことができるだろうか。

「それだったら」

と彼が言い出すと彼女は目線を上げ彼の目を見た。彼は少し恥ずかしくなり、少し目を背けてしまった。

「それだったら、また別の神様に頼めばいいんです。日本には八百万の神の神様がいるっていうでしょう。ここにはもう神様はいないのは残念だけど、神様は一人じゃないから」

「代わりの人なんてそんなもの! ……そんな神様なんて考えられません」

 そう言った後、彼女は再び目を伏せてしまった。いつの間にか、彼女は涙を浮かべていた。自分の言葉が彼女を傷つけてしまったのだろうか、ただ元気になって欲しかっただけだったのに……


 彼は考えていた。彼女がどうすれば元気になるか。

 彼は苦悶していた。彼女になんと声をかけるべきか。

 彼は思案していた。彼女に必要なものはなんなのか。

 彼は思いを巡らせていた。彼女のために何ができるのか。

 彼は……


「神様を」彼女が答えてから少し時間が立った後、彼は答えた。

「自分で神様を創ればいいんです。自分の願いを叶えてくれる神様を」

 その瞬間、彼女は顔を上げた。彼女は驚いたような顔をし、じっと彼の目を見つめていた。彼も気恥ずかしさを堪え、視線を真っ直ぐ、彼女の目に向け続けた。彼女の目は月の光に照らされ、黒曜石のように輝いていた。吸い込まれそうな瞳の色だった。

「自分で……神様を?」

「そう、自分で神様を創るんです。ここから神様がいなくなったなら、別の神様も呼べないなら、創ってしまえばいい。自分の願いを叶えてくれるとっておきの神様を創ってしまえばいいんです」

「神様を創るなんてそんなこと……」

「許されます! あなたは今までずっとここにいた神様を慕ってきたのでしょう。それなのに神様が勝手にいなくなるなんてひどい話じゃないですか。望みを叶えてくれないなんてあんまりじゃないですか。あなたはこんなに信心深い。こんなに綺麗です。信仰する神様がいないほうが罪深いでしょう」

 彼の顔は赤らんでいた。興奮と恥ずかしさで混ぜこぜになり、すぐにでも顔を覆いたくなる気持ちを抑え、まっすぐ彼女の顔を見ていた。彼女も彼の顔をじっと見つめ、目を離さなかった。

「……創れる……でしょうか」

 彼女の目には大粒の涙が溜まっていた。声も震え、今にも泣きそうになっていた。

「私の神様を、創ることができるでしょうか……」

「できます」

 根拠はなかった。しかし、自信はあった。

「……そうですね。ならば手伝ってくれませんか」

 そう、彼女となら神様だって創れる気がしていた。

「私と一緒に」

 なぜなら、彼にとって彼女は……

「神様創りを」

 ”神様”だからだ。



 その後、彼と彼女は理想とする神様について語り合った。

 神様には何が必要か。どのような形をしているのか。どのような望みを叶えてくれるのか。どこに住んでいるのか……

 彼にとって当初の願いなどどうでも良くなっていた。ただこの瞬間、彼女といるこの時間がずっと続いてくれればと願っていた。

 しかし、そんな楽しい時間にもやがて終わりがやってきた。彼の体力の限界が来たのだ。

 彼の視界がだんだんと霞んでいき、いつの間にか意識を失っていた。


 彼の目が覚めた時には、彼は病院のベッドの上にいた。

 痛々しいほどの白い壁が、右腕に刺さる点滴の針が、彼が倒れたことを物語っていた。

 目覚めた後は、すぐそばにいた両親から一通り涙を流しながら抱きつかれた後、こっぴどく叱られた。

 彼が後から両親から聞いた話によると、境内の上で高熱を出して倒れていたのを、誰かが救急車を呼んでくれたらしく、すぐさま病院に運ばれたとの事だった。その後、彼は病院で三日間意識を失っていたようであった。

 彼は病院から退院した後、必死になって境内にいた巫女服姿の少女のことについて尋ねた。しかしながら、彼の両親も地元の人も、神社の管理人でさえも知らないということだった。

 彼女とまた会えるだろうか……彼は神社に咲く彼岸花を眺め、彼女のいない、いつも通りの日常に戻っていった。

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