第22話 驚異来襲
ゴキブリとは仕組みが異なる八つの単眼、鋭利で身震いするほどに巨大な毒牙、そして長く頑強な八本の歩脚。
間違いない。ゴキブリの天敵、アシダカグモだ。
全員が体内から冷え込むような恐怖を感じた。僕も例外ではない。脳内で大音量の危険信号が鳴り響いている。コイツはヤバい。危ない。死が迫っている。
窓から入ってきた気配の正体はコイツだったのだ。体の全てがゴキブリを狩り捕るために進化したようなクモだ。当然ゴキブリに察知されにくい仕組みを持っているのだ。だから、存在それ自体が掴みきれなかったんだ。
こんな危険なモンスターであるにもかかわらず、僕の目にはやはり人間がクモの格好をしているように見えていた。
ゴキブリよりも遙かに長身で、胸部の突出具合や腰の丸みから女性だとわかる。アシダカグモの体色である灰褐色のまだら模様のボディースーツは忍者のくノ一をイメージさせるデザインで、体に張り付くようにフィットしている。凶暴なまでに扇情的な体つきで、顔も鋭利な刃物のような美貌を誇っていた。日本の古い伝承に出てくる、美しい容貌で男を取って喰う女郎蜘蛛を連想させた。先天的に男を惑わす妖艶を備えているようだ。
だが、欲情などするはずもなかった。ゴキブリとクモでは種類が違うのは当たり前だが、奴の手元を見たとき、あまりにも残酷な戦慄が走ったからだ。
アシダカグモは両手に巨大なアイスピックを思わせる刺突型の武器を持っていた。きっとアレは奴自身の毒牙だ。
その先には、今仕留めたばかりの獲物が刺さっていたのだ。
「ミミコちゃん!」
ジロウが目を見開いて叫んだ。アシダカグモの巨大な毒牙に捕らえられているのは、脱皮したての乳白色のゴキブリ。成虫の証である羽は無残にひしゃげ、顔には毒によるどす黒い死相が浮かび、苦しさのためか口からは多量の体液を吐き出している。
苦痛に悶え瀕死のゴキブリは、間違いなくミミコだ。目で確認できる事実なのに、僕はそれを受け入れたくなかった。バカな。こんな事があっていいのか。ミミコはこの後、ジロウともっと仲良くなって、愛し合って、結婚して、子供を沢山産んで、幸せに子孫を繁栄させるんじゃなかったのか。
こんな突然の不条理があっていいものか。
アシダカグモの目が、こちらを捕らえた。
「逃げろぉぉぉおお!!」
僕の叫び声でメスゴキブリたちは弾かれたようにその場から逃走した。
しかし、ジロウだけはその場にへたり込んだまま動こうとしなかった。
「・・・・・・そんな。嘘だ。ミミコちゃん・・・・・・」
目は虚ろで譫言を呟いている。ダメだ。ショックで思考が麻痺している。
「ジロウさん。しっかり!」
僕はジロウの頬を思いっきり引っぱたいた。はっと、目に理性が戻りジロウはよろけながらも立ち上がった。
「ぐずぐずするな。逃げるぞ!」
一緒にダッシュで逃走しようとしたそのとき、かすかな声が聞こえた。
「・・・・・・けて・・・・・・・・・・・・たす・・・・・・けて・・・・・・・・・・・・」
絶望にまみれ、今にも消え入りそうな魂の懇願は、聞く者の心を深く抉る。
いけない。聞いちゃいけない。聞いてはいけないんだ。クモの毒はすぐに体中に回る。助けるにはもう遅すぎる。だから、今は自分たちの保身を最優先にすべきなんだ。
だが、悲劇なことに、ミミコが最後に発した願いはしっかりと想い人に伝わっていた。
ジロウは方向転換すると、アシダカグモの方へと、ミミコの元へと走り出してしまった。
「ジロウさん!?」
「ミミコを、ミミコを離してくれぇ!」
恐怖と悲しみと混乱で歪んだ顔を涙でぬらし、ジロウは叫んだ。
ダメだ。行っちゃだめだ。その状態ではミミコはもう助からないんだ。
それに、アシダカグモが僕たちを視界に納めたときにわかったんだ。そのアシダカグモはまだ・・・・・・。
「ジロウさんダメだ! そいつは・・・・・・」
ジロウを助けなければならない。だが、自然と動いたはずの脚はこの時、震えるばかりでぴくりとも動かなかった。
理由はすぐにわかった。恐怖だ。僕は怖いんだ。生態系ピラミッドの底辺に位置するゴキブリが、より上位の捕食者に感じる先天的恐怖。生命として揺るぐことのない絶対的恐怖が、今の僕を支配している。
人間に殺されかかったときですら、ここまで怖くはなかったのに。
ジロウはアシダカグモの眼前まで近づいていた。
「ミミコちゃん・・・・・・」
ジロウは泣きながら、今まさに事切れんとしている想い人に手を伸ばした。
「ダメだ! ジロウさん。そいつはまだ・・・・・・」
瞬間、アシダカグモは腕を一振りしミミコの体から牙を引き抜いた。
ミミコの体がまるでスローモーションのようにゆっくりと床に向かって落下していく。
受け止めようと手を伸ばし、足を踏み出すジロウ。その動きも酷くゆっくりに見えた。
アシダカグモが動いた。驚愕すべき瞬発力でダッシュし、一瞬でジロウの後ろに回り込んだ。
逃げてくれ。ジロウさん。そいつはまだ・・・・・・。
ジロウは手をいっぱいまで伸ばし、前のめりになってミミコを抱き留める姿勢になる。
ミミコの体がゆっくりと、ジロウに向かって落下していく。
アシダカグモの触肢がジロウの肩を掴んだ。
ジロウの腕がミミコの体に触れようとした、その刹那、巨大な二本の毒牙がジロウの首筋に突き刺さった。
ジロウはもの凄い力で後ろへ引っ張られ、ミミコの体は抱き留められることなく、無残に床に叩き付けられた。
毒液が注入されるとジロウの顔がすぐに死に色に染まり、全身が痙攣して苦しさのあまり口から体液が吐き出された。
そうなのだ。そのアシダカグモは、まだ餌の量に満足していないのだ。
アシダカグモは短時間のうちに獲物を複数発見すると、その全てを食い殺す習性がある。
自分が獲物を捕食したばかりでも、目の前を別の獲物が通り過ぎれば、食べかけの獲物を放り出して殺しにかかるのだ。
醜悪なほど突出した貪欲さは、ゴキブリにとって最大の脅威だ。
アシダカグモの殺傷能力はゴキブリの繁殖速度を上回ることさえある。
このまま狩りが続けば、ミカワファミリー自体が全滅する。
チョウロウにキョウタにキョウタママ。そしてキヨミ。
ゴキブリでも、せっかく仲良くなって大切に思える仲間がいるのだ。
皆にこの脅威を知らせなければ。
皆を護るために僕はこの場を生き延びなければいけない。
僕はきっと歯を食いしばり、震える脚を全霊の力で動かした、やたら重くそして遅い。
僕は逃げた。まだ生きている皆を護るために。助かる見込みはないが、まだ生きているかもしれないジロウとミミコを置き去りにして。
「・・・・・・・・・・・・」
胸のがぐずりと疼いた。
本当はわかっている。どんな都合のいい理由を付けても、どんなカッコイイ言い訳をしても、僕はただ、怖くて逃げたいだけなんだ。二人を助ける勇気がないだけなのだ。
僕はやはり一匹のゴキブリに過ぎず、無力だった。
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