第20話 変な夢
「いいこと。昆虫の生活場所が専門用語でハビタット。職業にあたる生態的地位がニッチというのよ。同じゴキブリでもハビタットとニッチがズレる種類が幾つもいるわ。同じ地域に住んでいても、あなたのような多湿を好むクロゴキブリと乾燥を好むチャバネゴキブリとはハビタットがズレているわ。
ニッチは地位の他に適所という意味もあるのだけれど。これも種類によって違いがあって、温帯性で寒さに強いクロゴキブリが本州全体に主に分布するのに対し、熱帯性で寒さに弱いワモンゴキブリは沖縄より南でニッチを確立していて、逆にその地域にクロゴキブリは分布していないの」
「へぇ・・・・・・」
僕は生返事で答えた。
目の前を浮遊しているのは、まだ小学生ぐらいの女の子。穢れのない無垢な輝きを帯びた瞳と丸くてあどけない顔の輪郭が相まって実に幼く見えるが、どこか秘めたような美貌を持っていて、少し不思議な印象だ。きっと大人になればさぞかし美人になるだろう。
ただ、服装があまりに残念すぎた。眩いほど派手な黄色地のワンピースには、あちこちにゴキブリやらハエやら蚊やらムカデやらナメクジやらゲジゲジやらシバンムシやらコクゾウや、さらにはコクヌストモドキにヒメマルカツオブシムシとありとあらゆる害虫のイラストがプリントされていた。しかもデフォルメ一切なしのリアルプリントだ。
何を好きこのんでこんな服を着るのだろう。痛いを遙かに超越してもはや壊滅的だ。着せた親の頭蓋を開いて中をのぞき込んでやりたいし、苦もなく着ている本人の神経も異次元レベルだ。
髪型も酷い。多量の髪を頭上で束ねて巨大な二本の角のような形になっているが、派手な染料で虹色のように独創的に染められている。太さといい色合いといい、ロイコクロリディウムに寄生されたカタツムリの触覚を連想させた。ひょっとしたら本当に頭の中が虫に寄生されてるんじゃないか?
少女は足を組んでゆらゆらと空中に浮きながら、同じように浮遊する黒板にチョークで文字を書き殴っていく。
「ハビタットもニッチも多様性を含んでいて。地域的な分布や食性にも現れるわ。一つのニッチは特定の一種類が優勢的に利用する傾向があってこれはいわゆる棲み分け現象と呼ばれるの」
「はぁ・・・・・・」
僕はまたやる気のない返事をした。説明はわかりにくいし字も汚くて読めやしねぇ。ゴキブリになってまで勉強とかやってられるかよ。専門用語とかゴキブリに必要ねぇだろ。
だいたい、こんな素性の知れない不思議ちゃんな女の子に超上から目線でものを教えられるのも何だかしゃくだ。それにそもそも・・・・・・。
「先生!」
僕は便宜上この少女を先生と呼んでいる。
「何かしら阿久多くん」
「僕の夢なんですからもっと楽しいことさせてくださいよ」
そう、これは僕が毎晩(正確には毎昼)に見る夢なのだ。
「我慢なさい。睡眠学習は効果あるのよ。今のうちにみっちり学んでおけば後々楽になるわ」
「起きればどうせほとんど忘れるんですから、意味ないじゃありませんか」
「じゃ、阿久多くんは夢の中で私とどんな楽しいことをしたいのかしら?」
「先生にして欲しい事なんてありません」
まかり間違っても幼女嗜好などない。
「強いて言うなら、最近、Mに目覚めた僕がツンデレな女の子を口説く方法を教えてください」
被虐嗜好はある。
「ナンパ~をするなら~まかせ~ておくれよ~三に~も四にも~押しがか~んじ~ん♪」
「ネタが古すぎだろ。二十年以上も前の変態五歳児アニメのOPの歌詞なんか参考になるかよ。てか、世代が明らかに違うだろ。それにナンパなんて軽い気持ちじゃねぇよ!」
「それはそうと、一つ伝えておかなきゃならないことがあるわ」
「聞けよ。ゴキブリの話」
「近々、またあなたに試練が与えられるわ」
「どこの新興宗教だよお前は」
「今度のはとびっきりの難関よ。それを超えればあなたにはまた新しい力が与えられるわ」
「ゲームみたいにそうぽんぽんレベルアップできるかよ。つーか、新しい能力なんてのもいらないから試練もやめてくれ。いい加減沢山だ」
「試練を与えるのは私じゃなくて自然の摂理よ。じゃ、今日はここまで」
「おい、待て。せめて試練の内容が何か言っていけ。この前もそれで酷い目に・・・・・・」
一気に視界がぐるぐると渦を巻き、僕は振り回されるような感覚と共にどこかへ放り出された。
「・・・・・・・・・・・・」
周りを見渡したがいつも寝ている台所の裏の空間だ。
何かとんでもなくおかしな夢を見ていた気がするが、内容は綺麗さっぱり忘れていた。
「兄貴~」
「おぅ。キョウタ・・・・・・って、わぁぁぁああ! なんだその姿は!?」
キョウタの体はあの黒色のツヤツヤの表面が見る影もなく、触覚の先から足の先までプニプニやわやわ感MAXの乳白色になっていた。
「脱皮したんだ」
「そ、そうか脱皮か」
よく見ると体も二回りくらい大きくなっていた。
「乾くまでもうちょい時間がかかるんだ。っていうか兄貴、脱皮に一々驚いてたらゴキブリとしてやっていけないぜ」
確かにそうだ。自分がゴキブリなんだからその生態に毎度目を剥いていたのでは神経がすり減ってしまう。
ゴキブリはサナギを経ずに脱皮を繰り返して成長する、不完全変態の昆虫だ。キョウタは若齢期だから成虫になるまでまだ何回も脱皮を繰り返すことになる。
「それによ、ファミリーのゴキブリが脱皮に成功したら賛辞を送るもんだぜ」
「・・・・・・そうなのか? キョウタくん。脱皮成功おめでとう!」
「わざとらしすぎだぜ。ま、いいや。この勢いで脱皮しまくって兄貴を追い越してやるからな!」
「上等だ。頑張れ」
「キョウタ~~ どこにいるの~? 戻ってきなさ~い」
キョウタママの声がした。
「いけね。じゃあな兄貴」
キョウタは颯爽と母親の元へ戻っていった。
出会った当初と比べると随分と改心してくれた。成長したものだ。
そんな歳でもないのに何だか父親みたいな心境になってしまった。そう言えば、僕の体は成虫ゴキブリのそれだ。もう脱皮することはないだろう。ということは、成長もしないって事だ。
ちょっぴり切なくなった。人間のときも体は人より大きかったから、さらに成長したいとは思っていなかった。
だが、いざ大人の体になってしまうと自分がこれ以上精神面でも成熟できないような気がして、自分の可能性が限られてしまったような錯覚を抱いた。
人生経験こそが人格の成熟を育むというのはゴキブリになった今でもわかる。
こんな事で悩むのは、まだ僕が人間としてもゴキブリとしても年少だからだ。論より実行、悩むよりやることだ。色々なことを経験して色々なことを勉強すればいいんだ。
こういうときは食事だ。腹が空いた。メシを食いに行くとしよう。
台所へ出ようとしたとき、ゴキブリたちの井戸端会議が耳に入ってきた。
「タカコさん。昨日から見かけませんね」
「そういえば、ヨシオさんもいませんわね」
「ねぇ、聞いた? ハマコちゃんのところのテルオくんも行方不明らしいのよ」
ゴキブリが行方不明?
誰がどこを縦横無尽に這い回っても気にもとめないゴキブリだが、誰かの姿が見えないと所在を気にするようだ。また一つ勉強になった。
噂をしているゴキブリたちもそれほど深刻そうではなかった。行方不明とは大げさだ。ベイト剤は以前に無効にしたし、どうせどこかで油かすでも囓っているに違いない。
僕はいつも通り、母親のビスケットをたらふく囓り取り、流し台の水滴を啜って満足すると、寝ぐらへと足を運んだ。
先日の筋肉痛がまだ残っている。飛行の練習はまた今度にしよう。
そう思って、また一眠りしようとしたとき、向こうからオスゴキブリが駆け寄ってきた。
「ムサノブさん。大変です!」
ジロウだ。血相を変え、体中汗だらけだ。
「どうしたんです? ジロウさん」
「ミミコちゃんが行方不明なんです」
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