第19話 努力は実を結ぶ

「それじゃ、ジロウさん行きますよ。三、二、一・・・・・・投下!」


「うおぉぉぉおお!」


 ジロウは何とか滑空をマスターし、後は羽の揚力や角度を調整して上昇や方向のコントロールを会得する段階にまで来た。


 あれから、試行錯誤に試行錯誤を重ね、編み出した練習がこれだ。


 僕がジロウを六本の脚で抱えて天井近くまで上昇し、ある程度速度を出して飛びながら投下する。ジロウは僕の出した速度を利用して放物線を描きながら自由落下するが、その間に羽の角度を調整したり羽ばたいたりして飛び方を練習するのだ。


 名付けて「爆弾投下型練習法」


「ほら! ジロウ。 羽をバタつかせすぎよ、もうちょっと落ち着きなさい!」


 食器棚の天板の上で声を張り上げているのはキヨミだ。相も変わらず自分は飛ぶところを見せず指図だけしている。


 ちなみに、「爆弾投下型練習法」を考え出したのはキヨミさんだ。なんだかんだ言って弟のために色々考えているようだ。


 そして脇にはもう一匹。成虫になる直前の八齢幼虫のメスゴキブリがいた。このメスゴキブリこそジロウの片思いの相手。ミミコだ。


 キヨミがジロウの士気向上のために連れてきたのだ。ミミコ自身には成虫になった際の“成虫の儀”の予習として練習を見学しようと言ってあるらしい。もちろんジロウの想いなど露ほども知らない。


 ジロウにとっては多少の士気の向上にはなったようだが、同時に片思いの相手に無様な練習風景を見られなければならないので、相当なプレッシャーがかかっている。さっきから焦りや緊張が酷くて練習がおぼつかない。


 キヨミさんももう少し空気を読んで欲しいというか、男心をわかって欲しいというか、公開処刑はさすがに酷というか、そんなドSな羞恥プレイは僕に対してやって欲しかったと切に思う。


 僕は落下したジロウを回収し、再び飛び上がった。


「ジロウさん。緊張しすぎですよ」


「すみません。あの子がいると思うとつい力が入っちゃうんです」


「ちょっと休憩しましょうか」


 僕はジロウを抱えたまま食器棚の頂上に戻った。


「おかえりなさい」


 ミミコが実に愛らしい笑顔で出迎えてくれた。


 ジロウが顔を真っ赤にして目をそらした。


「まったくなってないわよ、ジロウ。昨日より記録が随分落ちてるじゃない」


「そんなこと言ったって・・・・・・」


ジロウは上目遣いに姉を睨んだ。原因はあんただよと言いたげだが、口は動かさず目だけで訴えていた。


「あの・・・・・・ジロウさん」


 ミミコがもじもじとしながら、伏し目がちに言った。


「頑張ってください。私はまだ飛べませんし、本当はとても飛ぶのが怖いんです。でもジロウさんが一生懸命練習している姿を見てたら自分も頑張らなくちゃって、そんな気になったんです」


 ジロウの顔がさらに赤みを増していく。


「だから、ジロウさんも是非飛べるようになってください。そしたら私、きっと頑張れると思うんです。ジロウさんの情熱をわけてもらうことができたら私、とてもうれしいです」


 ジロウの顔がいよいよ湯気を立て、羽ががたがたと震え始めた。マズい。発情のサインだ。


 小柄なミミコの熱弁する姿もどこか愛玩動物的でそれが男の感性を随分と刺激しているようだ。もし本人が自覚してやっているなら相当あざとい。


「ジロウさん。今日はこの辺にしておきましょうか?」


 集中力を乱されている上に発情までしては練習にならない。ここは仕切り直しが得策だ。


 と、思ったがしかし・・・・・・。


「いえ、やります。やらせてください。今日こそは飛んで見せます! 絶対にです!!」


 逆にスイッチが入ったようだ。こうなったら僕もとことんまで付き合おう。


 それから僕とジロウは数十回にわたり「爆弾投下型練習法」を繰り返した。


 驚いたことにジロウは徐々に上達し始め、もう少しで自力で飛べそうなところまで来た。


 しかしながら、とうとう百回の大台にさしかかろうとした頃、僕もジロウも体力に限界が来た。疲労感と体のきしみがもの凄い。


 見物していただけのキヨミもミミコも座り込んで肩を寄せ合ってうつらうつらとしていた。


「ジロウさん・・・・・・今日は終わりにしましょう」


「いえ、まだやれます・・・・・・」


 顔に似合わずガッツを見せるジロウだが、目は半分以上睡魔に押しつぶされていた。


「これ以上続けても体力を消耗するだけで練習にはなりません。明日にしましょう。ミミコちゃんはきっと明日も来てくれますよ」


「・・・・・・では、最後に一回だけ」


「わかりました。やりましょう」


 僕自身も相当キツいがジロウの情熱には答えてやりたい。


 ジロウを抱えて天井スレスレまで上昇し、本日のラストフライトに入る。


「きゃ!」


 速度を上げようとした直前、短い悲鳴のようなものが聞こえた。


 見ると食器棚の頂上で居眠りしていたキヨミとミミコが、下へ向かって落下していくところだった。きっと本格的に寝こけて、天板の淵から転げ落ちたんだ。


 ゴキブリだからあの高さから落ちても全然平気だ。人間みたいに臓物を一面にぶちまけることなどない。事実二人の表情はまるで焦燥していない。


 だが、女性二人が谷底へ落下している様を見過ごせるような男は男ではない。


「ムサノブさんッ!」


 ジロウが叫んだ。


「わかってます。やりますよッ!」


 すべて言わずとも心が伝わった。


 僕は急加速すると一気に高度を下げ、ジロウを渾身の力でミミコちゃんに向かって放り投げた。


 ジロウは勢いをそのままに羽を展開し、思いっきり羽ばたかせた。ミミコちゃんに向かって急接近し、その体をキャッチ。体を立てて羽の揚力を全て真下に向けた。


 ブーンという、カナブンの羽ばたきにも似た音が響き、二人はふわりと床に着地した。十分な飛行成功と言える結果だ。


「怪我はないですか?」


「あ、ありがとう。大丈夫です」


 見つめ合う二人。お互いに顔を真っ赤にし、すぐに目をそらした。きっとこの出来事が二人に距離を一気に縮め、ゆくゆくは・・・・・・。


 う~ん! 窮地を救ったとは言いがたいが、ありきたりな恋愛ものの王道的展開。実にすばらしいではないか!


「いや~~よかったよかった」


「大げさすぎじゃない?・・・・・・てか、あんた大丈夫なわけ?」


 僕はと言うと、空中でキヨミをキャッチするのは間に合わなかったので、床に落下する直前、体を滑り込ませてその体の下敷きになった。うつぶせになって文字通り尻に敷かれている。


 やはりゴキブリの体は軽い。下敷きになったところで大して衝撃などなかった。


 さらには、背中に乗せられた尻の感触が僕に得も言われぬ幸福感を与えてくれた。


「そりゃもう。キヨミさんに踏んでもらえるなら・・・・・・ぐふふふふ」


「あんたやっぱり変態じゃない!」


 キヨミは僕の背中に乗っかったまま頭をぽかりと叩いた。ポイント一つゲット。


 それから僕たちは皆でジロウを胴上げし、初の飛行成功を祝った。


 窓を見ると空が白み始めていた。もう夜明けだ。


 キヨミはジロウにミミコを送っていくよう命じ、二人は仲良く並んで台所の隅へと消えていった。


「さて、僕たちも解散しましょうか」


「そうね」


「ん!」


 その時、僕の感覚が何か不穏なものを捕らえた。


 居間の窓が開いている。きっと母親がエアコン代をケチるために少し開けておいたようだ。


 そこから巨大で獰猛な何かが部屋に侵入したような気がしたのだ。その気配は明らかな殺気と、そしてとてつもなく肥大した原始的な欲求を孕んでいるように思えた。


「・・・・・・どうかしたの?」


 キヨミに問いかけられ、わずかに意識がそれた瞬間に、その気配は消えてしまった。


「いや、何でもない。気のせいだよ」


 この時、気のせいで済ませなければあのような惨事は起きなかったと、後で痛烈に後悔することになる。

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