第18話 姉弟

「キヨミさん」


 そこに立っていたのはキヨミだった。腰に手を当て見下すように仁王立ちしている。


「・・・・・・姉さん」


 ジロウがおもむろに呟いた。


「え、お姉さんなの?」


「はい。キヨミは私の姉です」


「弟が随分と世話になっているようね。変態野郎」


 僕はもう変態野郎で確定なのか。


「飛び方一つ教えられないなんて、本当にウドの大木ね」


 罵倒の言葉が蔑むような視線と相まって僕の背中をぞくりと撫でた。


 今のはなんだろう? 馬鹿にされたときの悔しさとは全然違う感覚だった。


「私にムサノブさんのことを教えてくれたのは姉なんです。飛び方がもの凄くうまいと」


「余計なこと言うんじゃない!」


 キヨミはいきなり顔を真っ赤にしてジロウを怒鳴りつけ、さらに僕をキッと睨みつけた。


「あんた、このていたらくはなに? 救世主とか何とかじゃないわけ?」


「・・・・・・面目ない」


 僕は項垂れた・・・・・・正確には項垂れる振りをして、キヨミの綺麗な顔を視界に捕らえていた。僕を睨みつける視線。その瞳はなんて綺麗なんだろう。


「まったく。少しは使えるかと思ったのに。これじゃあたしが教えた方が早いじゃない」


「キヨミさんは飛べるの?」


「バ、バカにしないでよ! 宙返りくらい楽勝よ」


「ジロウさん。何で最初からお姉さんに教わらなかったんですか?」


「姉は、高いところからの滑空しかできないからです。しかも他のゴキブリの三分の一くらいの飛距離で・・・・・・」


 ドッ!


 キヨミの拳が弟の顔面にめり込んだ。


「あら、この弟は何を妄想しているのかしら?」


 ジロウは顔面パンチを食らった勢いで仰向けにひっくり返って大の字に伸びてしまった。


「・・・・・・酷い姉貴だ」


 と言いつつ、僕はそのパンチが自分に放たれる状況を想像し、何だかとてもムズムズとした言葉にしがたい感覚に襲われていた。


 さっきからなんなのだろう。キヨミの一挙手一投足が僕の神経の奥深いところを刺激してくるようだ。


「でくの坊のためにあたしが一肌脱いであげるわよ」


「どうするの?」


「とりあえず、弟を食器棚の上まで運んでちょうだい」


 無茶な要求をしやがると喉まで出かかったが、僕は黙ってジロウを担ぎ、垂直にそびえ立つ巨大な食器棚をよじ登った。自分だけなら難なく登れる壁も荷物を抱えれば過酷きわまりなかった。


「なにしてんの? 早くしなさいよ」


 先に登ったキヨミが上から煽り立てる。自分で気絶させた弟を僕に押しつけたくせに、とムッとしたのは一瞬だけで、なぜかもっと煽って欲しいなという意味不明な願望が思考の隅を過ぎていった。


「ふぅ~~~やっと着いた」


 僕は食器棚の頂上に着くと、今もって夢の中のジロウを下ろし、座り込んで一息ついた。


「キヨミさん。ここへ来てどうするの?」


「決まってるじゃない。滑空訓練よ」


「なんだい? それ」


「そんなことも知らないわけ? ゴキブリの常識でしょ」


「知らないです、すみません、教えてください」


「うまく飛べないゴキブリが最低限の飛び方を習得するためにやる訓練よ。あたしもここで飛び方を習ったの。成虫になったゴキブリはみんな、“成虫の儀”としてこの訓練を受けるわ」


 なるほど、ここから飛び出せば自力でジャンプして羽の力で上昇するよりも、使うエネルギーは少ないし、羽ばたくのは無理でも滑空の練習はできるだろう。

 しかし、ゴキブリの社会に訓練などと言う仕組みがあるとはいささか驚いた。


「ジロウさんは最初からこの訓練を受けなかったんですか?」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・細かいことはいいわよ。」


「なぜ、間が開いたんだ? 今の沈黙はいったい何なの?」


「一々細かいのよ。単に弟がついこの間、成虫に脱皮したばかりで、まだ訓練を受けてないだけよ」


「そうですか・・・・・・」


 顔の引きつりようを見るとそれだけではな気がするが、っていうかキヨミさん、引きつった顔も可愛いです。


「さて、それじゃ・・・・・・起きなさい、ジロウ」


 キヨミはジロウの腹を思いっきり踏みつけた。気絶すれば僕にもやってくれるだろうか。


 ジロウは開いた目が一周して白目になるとしばらく動かなかったが、やがて意識を覚醒しむくりと起上がった。


「あれ、姉さん。ムサノブさん。ここはどこですか」


「食器棚の上です」


「え、訓練場なんですか? 僕はここを落第しているんです。飛べなさすぎて。

 それで姉さんがムサノブさんのところへ行けって勧めてくれたんです。姉さん自身はそれに乗じてムサノブさんと会話するきっかけを掴もうと目論んでいだぶはっ・・・・・・・・・・・・」


 キヨミの拳がジロウの後頭部を強打した。頼むやめてくれ、さっきからあなた方姉弟のやりとりを見てると変なうずきが止まらないんだ。


「さて、訓練を始めるわよ。さあ、そこの変態野郎、飛んで見せなさい」


 キヨミは何事もなかったかのように仕切り直すと僕にやることを丸投げしやがった。


「キヨミさんは飛ばないの?」


「あたしは監督だから自分からは飛ばないわよ。教育係のあなたがまずやって見せなさい」


 無茶苦茶な理屈だが言い争う気など毛頭無かった。事実、僕が教えてもジロウは飛べなかったのだ。根拠こそ無いがものは試しで、キヨミの言うことを聞くしかない。


 僕は食器棚の天板の淵に立つと、下を見下ろした。人間の頃なら間違いなく足が震えて膝をつくレベルの高さだ。だが、今は何の恐怖もなかった。


「弟はまだ羽ばたけるレベルじゃないから、軽く滑空する姿を見せてあげてちょうだい」


「了解しました!」


 僕は淵からジャンプすると、羽を広げ、羽ばたきを最小限に抑えて空気に身をゆだねるように空間に身を投じた。


 僕の体はたゆたうように滑空した。これはこれで何だか気持ちよかった。雲の上で寝転がりながら空を漂っているようだった。時間すらもゆっくりに感じられた。


「あ」


 ぼけっとしていたらいつの間にか眼前に壁が迫っていた。前翅でなるべく揚力を殺さないように方向を調整し、壁すれすれを旋回。Uターンして滑空を続け、食器棚の中腹あたりに戻ってきた。


 体を縦にし足に力を入れて垂直に着地し、素早く頂上まで駆け上った。

「どうだった? うまくできてた?」


 ゴキブリ姉弟に感想を聞いてみる。


 二人とも口をぽかんと開け、目が点になっていた。


「・・・・・・一周してきた奴なんて初めて見たわ」


 キヨミは素直に驚愕していたようだ。いえですね、キヨミさん。ここは超蔑むような視線で「この程度で得意になってんじゃないわよ」とか「はっ、ま、変態野郎にしては上出来じゃない。変態レベルでの話だけど」とか「あたしの足下にも及ばないわねこのグズ」とかそんな感じで罵って欲しいんですけど。


「・・・・・・すごく、綺麗でした」


「じゃ、ジロウさんもやってみてください」


「よし。やりますよ!」


 ジロウは羽を広げ、天板の淵から思いっきりジャンプした。


 そして、一センチも飛翔することなく、あっちゅうまに垂直に床に向かって自由落下を始めた。


「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁれぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ」


 ジロウの間抜けな断末魔が夜の台所に響いた。


 僕とキヨミは二人して溜息をついた。

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