第15話 ベイト剤を無効化せよ

 お~あるある。


 扉がボロボロだったので、隙間はすぐに見つかり、そこから流し台下の収納に侵入できた。


 流し台の配管のすぐ脇に、真新しい箱が置かれていた。デフォルメされたゴキブリの絵がプリントされたそれは間違いなくベイト剤の箱だ。封が開いているのでその隙間に顔を突っ込んでみる。ゴキブリをだまし討ちする死の香りがぷんぷんした。


 当然だが中身は少なくなっていた。問題は個数だ。幾つ足りない?


 数えてみると十個残っていた。ベイト剤は十二個入り。さっき一個見つけたから残り一個がまだどこかにあるはずだ。


 触覚に意識を集中する。きっと探し当てられる。


「こっちだ」


 匂いをたどって収納から出る。ベイト剤の匂いは風の強い方向から漂っている。匂いが強くなる方へ右往左往しながら進む。


 あった。


 ゴキブリの体の自分からしたら遙か向こうの玄関先に黒い四角形が置かれていた。風と感じたのは玄関のすきま風のようだ。母親は玄関からゴキブリが出入りしているとでも思っているのだろうか。


 目標が容易く見つかり、安堵する。とりあえず後は入り口を塞ぐだけだ。


 しかし、最悪の事態は唐突に訪れた。近くにいた一匹のゴキブリがベイト剤に近寄り、中に頭を突っ込んだ。


「ダメだぁぁぁあああ!」


 僕は全速力でダッシュし、そのゴキブリに駆け寄ると首根っこを掴んで後ろに引き倒した。


「痛い! 何すんのよバカッ!」


 この声は先ほど聞いたばかりだ。


「あれ、キヨミさんだね」


「あぁ! さっきの欲情変態野郎ね!」


「とてつもないあだ名つけないでくれ!」


「いいから、人のご飯の邪魔しないでよね! まったく・・・・・・パクリ」


 キヨミは手に持っていたゼリー状の何かをひょと口に放り込んでもぐもぐとやり始めた。


「わぁあああッ! まて、何を食べた? なぁ、何を食べたんだ!?」


 僕はキヨミの胸倉をつかんで思いっきり前後に揺すった。


「なにひゅんのよ、ひょこのあなにあったのひょ。ほふぃかったら、あんふぁもふぁふぇれはいいひゃない」


「噛んで飲み込んでから言え・・・・・・って、そうじゃない。吐き出せ、飲み込んじゃダメだ!」


「ゴクリ」


「あ」


「何イキってんのよ。まだ沢山あるんだから囓り取れば?」


「それは餌型の殺虫剤だ!!」


「・・・・・・え?」


「吐き出せ。今すぐ出せ! 死ぬぞ」


「そ、そんな無理よ・・・・・・・・・・・・あれ、なんだろう。お腹が急に苦しくなってきた」


 キヨミの顔から次第に血の気が引き始めた。マズい。もう毒の効果が出て始めている。


「吐き戻すんだ。早く!」


「あぁ、ダメ。お腹が焼かれるみたい。どうしよう、どうしよう!」


 キヨミの顔が一瞬で涙に濡れた。酷く不自然で不快な心臓の脈動、内蔵の底から競上がってくる強烈な異物感、血管の血流に毒物がしみこむ絶望的な感触、死の事実を目前にした恐怖が溢れ出ていた。


 なぜ僕にそれがわかるんだ? なぜこんな恐怖が僕に伝わってくるんだ?


 僕の体も震えていた。寒い。とてつもなく寒い。死神が冷気をともなって近づいくるようだ。


「た、助けて・・・・・・ねぇ、助けてよ・・・・・・」


 そうか、普段殺虫剤で簡単にいびり殺されるゴキブリたちは、こんなにも絶望的な恐怖に苛まれていたんだ。


 どうすれば、どうすればいいんだ。


「この・・・・・・!」


 僕はなぜか反射的に拳を握って振りかぶった。なぜそうしようと思ったのかはわからないがそうしなければならない気がした。


 次の瞬間、僕はキヨミの腹に握り拳を叩き込んでしまった。


「うげぇぇええ!」


 うめきと共にキヨミは嘔吐し、先ほど飲み込んだベイト剤を吐き戻した。食べたばかりなのに溶けかかっている。もう少し遅ければ毒が確実に体に回っていた。


「よし、もう大丈夫だ」


「ゲホッ・・・・・・い、痛いわね。女に暴力振るうわけ?」


「ごめん。こうするしかないと思ったんだ」


「もうちょっとやりかた考えなさいよ。体だけでかくておつむは小さいわけ?」


 命を助けたのになんと酷い言われようだろう。


「兄貴~~~~~ッ」


 キョウタが駆け寄ってきた。


「皆に伝えてきたぜ~・・・・・・って、うわっキヨミだ」


「年上を呼び捨てにするんじゃないよ。ガキ!」


「腹抱えてるけど大丈夫か?」


「そこのでかいのに今殴られたのよ」


「兄貴! いくらなんでも・・・・・・」


 キョウタがうわ~とドン引きした表情になる。


「待て、キョウタ。違うんだ。かくかくしかじかでな・・・・・・」


 俺は先ほどの出来事をかいつまんで説明した。


「おい、腐れフェロモン! 兄貴が助けてやったってのになんて言いぐさだ!」


 味方してくれるのはありがたいが腐れフェロモンは言い過ぎだ。


「ガキ! フェロモンがなんだって!?」


 腹を殴られたダメージなど吹き飛んだのか、キヨミはすっくと立ち上がってキョウタの眼前に迫った。


「うわ~、鼻がもげる~」


 キョウタは半眼になり、わざとらしく鼻を押さえる動作をした。声のトーンからして明らかに挑発している。


「クソガキ、あたしの一番気にしていることを!」


 キヨミは額に大きな青筋を浮かべ、握り拳をぶるんぶるん振り回しながらキョウタを追い回し始めた。


「けけけけ、オイラについてこれるかな?」


「まちやがれ!」


 キョウタは一目散に駆出し、キヨミもそれを追いかける。二匹のゴキブリはあっという間に彼方に消えていった。


 あたりはしんと静まりかえる。なんと騒がしかったことか。あの二人は近づけないほうがいい。


 僕はとりあえずベイト剤の入り口を埃やらゴミやらで何とか塞いだ。


 設置されたベイト剤はこれで全部だ。母親のケチさが幸いした。


「ほっほっほっほっ・・・・・・また、お手柄ですのカブリ様」


「チョウロウ・・・・・・」


 いつの間にか背後にチョウロウがいた。


「集会の準備ができましたゆえ、こちらにお越しいただきたいのですじゃ」

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