第14話 良い匂い悪い匂い


「あれ、兄貴。何しょぼくれてんだ?」


 いつの間にかキョウタが後ろにいた。


「ほっといてくれ」


「この匂い。キヨミがここにいたな」


 ゴキブリは残香でそこに誰がいたのかわかるようだ。


「キヨミというのか? あのメスは」


「あぁ、有名な娘だよ。すげー美人なんだけど、フェロモンの匂いが独特すぎる上に極度にキツい性格の面倒な女だよ。一緒にいたのか?」


「まぁ、偶然出会っただけだ」


 幼虫のくせにませたこと言いやがる。


「なぁ、もっと詳しく聞かせてくれ」


「何だ? 兄貴。もしかして狙おうとしてんのか? やめとけやめとけ。兄貴もあのフェロモン嗅いだだろ。普通の女じゃねぇよ。あの匂いは。狙おうと近づいたオスが皆顔をしかめて逃げていくんだ。傑作だったぜ。前に一度自分からオスを誘おうとして近づいてったら半径十センチのところでオスが走り去っていっちまったんだ。あの女ぽかんとしてたよ。笑っちゃうよ」


 キョウタは自分の話にゲラゲラと笑い声を上げた。


 ふと思った。あの娘の性格は匂いを馬鹿にされるあまり後から形成されたものではないか。人間不信ならぬゴキブリ不信だ。


「ってか、兄貴。平気だったのか? キヨミのフェロモン」


「デパイチババアじゃあるまいし。別に悪い匂いじゃなかったと思うがな」


「何だ? デパイチババアって」


「いや、人間用語だ。気にするな」


 人間どころか僕専用用語だ。デパイチとはデパートの一階。デパートの一階と言えば化粧品売り場。化粧品売り場と言えばあの鼻を裂くような強烈な刺激臭だ。つまるところ、厚化粧が過ぎて近づきがたいような悪臭を放つ女のことを言う。


 僕は参観会に来る一部のお母さん方や、何よりお出かけモードの自分の母親を影でそうやって毒づいていた。あれだけはホントやめて欲しかった。マジで気分が悪くなる。


 それに比べ、あのキヨミという娘は・・・・・・


「良い匂いだったと思うけどな」


「げっ! 兄貴相当マニアックだな」


「子供に言われたくない」


 これは人間の感覚も混ざっているからだろうか。通常のゴキブリとは匂いの嗜好が少し違うようだ。


「そう言えば、メシを忘れていたな。食ってこよ」


「オイラも~」


「フケじゃなくてビスケットだからな」


「わかったよ、わかったよ」


 僕とキョウタは台所を降りて居間に向かう。食事を取るのに一々居間まで行かなければならないのが面倒だ。この小さい体では特に。


「あれ~~~? 何だかとても良い匂いがするな~~~~」


 突然、キョウタが妙なことを言い出した。見ると、顔が酔っ払ったように赤く目の焦点も合っていなかった。


「どうした? キョウタ」


「おいしいものがあっちにある~~~~」


 キョウタはふらふらと引き寄せられるかのように別の方向へ歩いて行ってしまった。


「おい、待てよ!」


 僕の触覚にも匂いが伝わってきた。美味しい食物の匂いじゃない。表面はゴキブリの嗜好を刺激する芳しい匂いだが、中身は非なるものだ。これは何かとてつもなく危険な香りだ。


 キョウタを追いかけてトイレの近くまでやってきた。トイレのすぐ手前は洗濯機が置いてある。


 見ると洗濯機と壁の隙間に何かが置かれていて、それに複数のゴキブリが群がっていた。


 芳しくも危険な香りがいっそう濃くなった。偽物の香りだ。発生源は間違いなくアレだ。


 それは見覚えのある形をしていた。黒くて四角くて、ちょうどゴキブリが顔を突っ込めそうな程の小さい穴がある。


 間違いない。コンバットに代表される置き餌型殺虫剤。ベイト剤だ。


「まて、キョウタ!」


「ひゃいっ」


 僕はキョウタの首根っこを掴んで無理矢理止まらせた。


 しかし、すでにベイト剤に群がったゴキブリたちは、今まさに死を招くゼリーをかじり取ろうとしていた


「まて、みんな待つんだ!!」


 ありったけの大声で叫んだ。


 驚いてこちらを向くゴキブリたち。


「それは毒物だ。食べちゃいけない! 食べたら死ぬぞ。近づくんじゃない!」


 ゴキブリにベイト剤が理解できるかどうかはわからなかったが、ゴキブリたちは僕の異様な剣幕に押されたらしく、すごすごと殺虫餌から離れていった。


「なぁ、兄貴。これなんだ? うまそうな匂いがするけど独り占めにする気か?」


「そうじゃない。これは餌型の殺虫剤だ」


「え? 殺虫剤なのか」


「そうだ。噴射型の殺虫剤の比じゃないくらい強力だ。食べたら死亡率百パーセント。食べた奴の糞を食べればそいつも死んで、抱卵したメスが食べれば卵まで死ぬんだ」


「ひぇ~。虐殺兵器!」


 キョウタはムンクの叫びみたいに真っ青になった。


 とにかくこの大量虐殺兵器を放置するわけにはいかない。


「キョウタ。手当たり次第にゴキブリにこのことを伝えて廻ってくれ、チョウロウにも必ず言うんだぞ」


「ほいきた。兄貴」


 キョウタは敬礼すると一目散に駆出していった。


 僕は死を招く黒い四角形を見やった。ベイト剤は今までこの家にはなかった。


 きっと、母親が噴射型殺虫剤で火柱を上げたから切り替えたのだろう。今日の昼のうちに買ってきたに違いない。


 さて、これをどうすべきか。


 僕はとりあえずその辺にある細かいゴミやら埃やらをかき集め、ベイト剤の入り口に突っ込んだ。


 散らばっていたあらかたのゴミを使い切り、床がぴかぴかになる頃、ベイト剤の入り口も塞がった。


 だが、食欲旺盛で強靱な顎を持ったゴキブリのことだ。こんな間に合わせの壁などいとも容易く突破するだろう。他に解決策を考えなければならない。


 待てよ。ベイト剤は単体で売られていることはまず無い。複数個一パックでホームセンターやスーパーのレジ付近に並んでいるのが常だ。


 ということは、これのストックがまだどこかにあるかも知れないし、別の場所にも仕掛けられている可能性がある。


 マズいな。それも探し出して何とかしなければ。


 母親がもしストックを隠しているとなれば場所はあそこだ。


 僕は駆出し、流し台の下の収納に向かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る