第13話 出会い

「ぬぁぁぁぁあああああああああ!」


 僕は悲鳴と共に目覚めた。何だかとてもおかしな夢の中で、糞食を強要された気がする。


 いや、違う。糞食は現実だった。


 あぁ、僕は決して超えてはならない人間の一線を越えた。人間の倫理から脱線した行為に手を染めた。本当にもう人間には戻れないんだ。


 げんなりとしたけだるさが肩にのしかかった。


 昨日、キョウタ親子が差し出したアレを、僕は断り切れなかった。固く閉じた口に無理矢理ねじ込まれ、咀嚼して、しかも飲んだ。なぜ逃げなかった。なぜ吐き出さなかった。僕のバカヤロウ!


 一番悔しかったのは、僕の舌は不覚にもそれを美味と感じていたことだ。ゴキブリの本能のなせる技だ。


 だが、僕の中にまだ残っている人間としての理性は強烈な打撃を受けた。メンタル状態は最悪を通り越してもはや昇天しかかっているが、なぜか一回寝ると平常心が戻っていた。一晩(正確には一昼だが)寝ただけで気分の浮き沈みが治るのもゴキブリであるがゆえか。果たして今の僕はゴキブリなのか、人間なのかいったいどっちなんだ。


「兄貴~」


 頭を抱えてうずくまっていると、悩みの張本人がやってきた。


「キョウタか」


「よく寝れたか?」


「・・・・・・寝不足だよ」


「なんで?」


「色々あるんだ」


 悩みはまだあった。なぜ、母親は昨日一日、僕を探しもしなかったのだろう。丸一日あったのに捜索願を出しに行くこともしなかったのだ。昨日、就寝前の両親の会話を聞いたが、僕が家出して、受験に影響することを一方的に母がまくし立て、父は素っ気ない相づちを打つだけだった。

 結局、二日も息子が帰らなくても、両親はその安否を心配する様子がない。何なのだろう。この夫婦は。十人十色と言うが、あんな両親があっていいものか。


「兄貴、メシ食いに行こうぜ」


「フケもお前の糞もごめんだ」


「それと兄貴、そろそろ水飲んだほうがいいぜ。肌が荒れ始めてる」


「何?」


 顔を触ってみた。確かに何だかガサガサしている気がする。ゴキブリだからかと思ったが、表皮はキチン層に覆われているからツルツルのはずだ。確かに水分不足で肌が荒れているようだ。


 いや、待て。“キチン層”って言葉、僕はいつ知った? なぜ僕はこんな専門的な用語を知っているんだ? ゴキブリのことでそこまで調べたことはない。


「台所の水場は滑りやすいから気をつけろよ」


「わかったよ」


 考えるのが面倒になってきた。今はとにかく水分補給と食糧調達だ。


 壁を駆け上がり、台所に出る。真夜中なので当然真っ暗だが、少し気を研ぎ澄ませば周りの状況が手に取るようにわかる。


 水の匂いは流し台から強く出ている。


 しかし、ステンレスでできた流し台は滑りやすい。 そう言えば昔はよく流し台に落ちたまま外へ出られなくなって死んでいるゴキブリを見かけた。


 洗った食器を乾かしている食器籠の周りを調べると水があった。


 表面張力で丸い形に盛り上がっていた。口をつけて啜ってみた。


「あ~~。生き返る」


 ゴキブリになってこの方、口に入れる全ての物が美味しかった。台所に残った汚い水でも喉が潤った。


 さて、水の次は食料だ。昨日のアレを食べてから、実のところ何でも食える自覚が芽生えた。生ゴミでも食器の残りかすでも水で腐敗した雑誌類でも。


 だけどやっぱり、人間の部分がそれを受け付けなかった。


 幸いにもビスケットはまだあるようだ。匂いを感じる。


 時間帯も深夜で両親は就寝している。自然にこの時間帯に起きられたと言うことは体のリズムがゴキブリに近づいているからか。


「・・・・・・・・・・・・」


 いや、悩んでもしょうがない。今は食料調達だ。


 さて、ひとっ走りしてくるか。駆け出そうとしたその時。


「助けて~、助けて~!」


 どこからか助けを求める声がした。流し台からだ。


 流し台の淵まで来て、中をのぞき込んでみた。ゴキブリがいた。


「助けて~、助けて~、助けて~!」


 声からしてメスゴキブリのようだ。羽があるところを見ると成虫だ。


 メスゴキブリは必死に流し台を昇ろうともがくが脚のトゲはステンレスに引っかかるはずもなく、無残に空滑りしている。


 まずいな。このままだと明日の朝には死んでしまう。助けてやらないと。


 しかし、僕の脚でもステンレスの壁は上り下りできまい。紐みたいな物を降ろして助ける方法も考えたが、生憎、周りにそのような物はなかった。


「助けて~、助けて~、誰か、誰か助けて~!」


 メスゴキブリの叫びは悲壮感を増していた。パニックになりかけているようだ。


「仕方ない。できるかどうかわからないが、やってみるか」


 僕は背中に力を入れ。羽を広げた。


「よっと」


 さらに力を入れ、羽ばたかせると一瞬で天井近くまで飛び上がってしまった。


「おっとととと、まだ力加減が難しいな」


 力加減に強弱をつけ、探るように揚力を調整した。


 ゆっくりと下降する。緩やかな速度で流し台を降りていく。


「ぐすんっ。誰か、誰か助けてよ・・・・・・」


 ついにメスゴキブリが泣きだした。


「動かないでじっとしていてください」


「え?」


 僕はメスゴキブリの上空で静止した。うまくすればホバリングもできるようだ。


 着地は避けた。下手をすれば自分の滑って出られなくなるし、飛び上がるときの踏ん張りがきかない可能性もあったからだ。


 背後からメスゴキブリを抱きかかえ、そのまままたゆっくりと上昇する。


 流し台の壁を越え、安全な場所に着地する。


「これでもう大丈夫」


 メスゴキブリはへたりとその場に座り込んでしまった。ぐすんぐすんとすすり泣きが聞こえてくる。よほど怖かったのだろう。


「大丈夫ですか?」


「泣いてなんかいないんだから!」


 怒鳴られた。泣いてるかどうかなんて聞いてもいないのに。


「・・・・・・いや、でも助かってよかった」


「別に、助けてなんて言ってないんだからね!」


 こちらが萎縮するくらいの覇気で怒鳴られた。助けてって叫んでたくせに。


 涙をぬぐったメスゴキブリがこちらを向いた。瞬間。



 ズギュ―――――――――――――――――――――ン!



 なんか古典的な効果音が僕の脳内で再生され、それこそ前時代的なキューピットがハート型の矢で僕の胸を射貫く幻覚が見えた。


 何なんだこの女性メスゴキブリ、むちゃくちゃ可愛い!


 顔の輪郭、鼻先、口元、顎に至るまで実にシャープで人形のように造形が整っている。つり上がり気味の瞳は気の強さを覗わせるが、目尻がわずかに涙に濡れていて絶妙なギャップを感じさせる。


 さらに、このメスゴキブリの放つ甘く芳しい香り、そうフェロモンが自分の嗅覚にドストライクだった。キョウタママ以上の魅惑的な誘惑が生物の三大本能の一つを強烈に刺激していた。


「・・・・・・はぁ・・・・・・はぁ・・・・・・」


「ひっ、ゴキブリの顔見るなり何欲情してんのよ、変態!」


「いや、僕は決してそんな・・・・・・」


「じゃ、その背中は何よ!?」


「え?」


 背中を見てみた。


「うわぁあああ! 何じゃこりゃ!!」


 背中の羽が超高速で上下運動していた。飛んでいるときより遙かに早い。


 だが、羽ばたいているのではない。事実、飛んではいない。揚力など微塵も発生させず、只単に羽が残像が見えるほどの速度でまさに盛りがついたのごとく暴れ回っているのだ。


 これはゴキブリの雄の求愛行動だ。


 まずい。これはまずい。人間だったら初対面の異性の目の前で逸物を熱膨張させているのをまざまざと見せつけるようなものだ。まさに変態の所行!


「すいません。すいません。ちょっとまってください」


 必死で羽をなだめようとするがうまく制御できない。背中に意識を集中させたらよけに速度が速まった。自分の体は飛び上がらないのに周りの埃やら何やらが飛び散っていく。


「うっさい! あたしはそんなに安くないわよ。二度と現れるな変態!」


 メスゴキブリはそう吐き捨てるといずこへと去って行った。

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