第12話 信頼の儀

「キョウタ!」


「母ちゃん・・・・・・ぶへ!」


 再会一番、キョウタママは息子の頬を思いっきり引っぱたいた。


「このバカ息子。どれだけ心配してどれだけ人様に迷惑かけてると思ってるの!」


 キョウタママは絞め殺すのではないかと思うくらい息子を力いっぱい抱きしめ、そして泣き始めた。


「ごめん・・・・・・ごめんなさい・・・・・・」


 さしものキョウタも自分のしでかしたことが身にしみたようだ。親子共々抱き合ったまま泣き続けた。


 ベターな展開だが、それでも今の僕にはうれしかった。あぁ、なんて良い親子だろう。


 にしても、よく僕は死ななかったものだ。


 最初に殺虫剤に突っ込んだ時点で危ないとは思っていたが、体のどこにも変調はない。


 あれだけ全力運動したから体の節々が痛いが、怪我はないようだ。


「あの・・・・・・なんとお礼をすればよいか」


 キョウタママが僕に向き直った。涙で美人が台無しだ。


「いいんですよ。命が助かって何よりです」


「なんて寛大な方なんでしょう。あの、その・・・・・・失礼ですがお名前を聞いてもよろしいでしょうか?」


 そういえば名乗っていなかった。


「僕ですか。僕は阿久多牟之アクタムサノブと言います」


「ムサノブさんですか。このお礼はいずれ必ず・・・・・・・・・・・・」


「・・・・・・・・・・・・その者はムサノブではないカブリ様じゃ」


 聞き覚えのある声が背後からした。


「さすがじゃな、お若いの」


「チョウロウ・・・・・・」


「チョウロウ様・・・・・・」

 

 この団地のゴキブリ集団ミカワファミリーの重鎮的存在。老齢ゴキブリのチョウロウだ。


「そなたの戦い、見ておったぞ。いやぁ、あっぱれじゃ。ゴキとしての身体能力は無論じゃが生存のための判断能力も傑出しておる。まさにゴキを超えたゴキ。救世主カブリ様じゃ!」


「・・・・・・いえ、無我夢中だっただけ・・・・・・」


 チョウロウは下部が君主にするように僕の目の前でひざまずいてみせた。


「カブリ様。我らの救世主よ。どうか我らをお導きください」


「いえ、ですから、自分はそんな大層なもんじゃ・・・・・・」


「こうしてはおれん。集会の準備だ」


 僕の言うことは耳に入っていないらしい。


 チョウロウは踵を返すと老体とは思えない俊敏さで去って行った。


「あの、カブリ様」


 キョウタママが恐れ多いといった態度で話しかけてきた。


「かしこまらないでください。ムサノブで結構です」


「ムサノブ様」


「あぁ、敬称もいらないです」


「ムサノブさん」


 さんもいらないが、この際よかった。


「この子を助けてくれたときに言っていたことですけど」


「すみません。逆に憎いんじゃないですか? 僕は元人間。あなたたちの天敵です」


「そんなこと、露ほども思っていません。

 ただ、自分の命に価値がないなんて思わないでください。

 あなたは息子を助けてくれました。私に残されたたった一人の子です。この子の兄弟たちは、皆、人間に殺されてしまいました。スリッパで叩き殺されたり、殺虫剤や罠でもがき苦しみながら死んでいきました。私はそれを直に見てました。助けたくても何もできませんでした。

 だから私、この子だけは護りたかったんです。ゴキブリは本当は子育てなどしません。

 ですけど、私はどうしても、もう自分の子を失いたくなかったんです。ですから、ずっと私が側について面倒を見ています。

 あなたは私たちにとって恩人です。私たち親子にとってあなたはとても価値のある存在です。私たちはあなたが必要です。ですから、一つだけお願いを聞いてください」


 僕を必要としてくれる人・・・・・・(正確にはゴキブリだが)・・・・・・がここにいる。お世辞でもありがたかった。


「お願いって、何でしょう?」


「死に急ぐようなことはしないでください。犠牲なんて私たちも他のゴキブリたちも望んでいません。誰かのために命を捨てようなどと考えないでください。それはとても身勝手です。命を掛けることが必要なときもあるかも知れません。私はかつてそれが必要なときにできませんでした。子供たちが殺されようとしているときに。

 でも、できるからといって、命を投げ出さないでください。残された者はとても辛いのです。見殺しにしてしまったと、そう感じてしまうから。

 元人間なのでしたら、ゴキブリとして生きるのは辛いかも知れません。でも少なくとも私と息子だけは、あなたと共に生きたいと、心から願っています。」


 お世辞じゃなかったのかな。


 いや、お世辞であっても言葉の一つ一つが心に染みた。そう言えば一晩前には、ビスケットを囓って生きようと決めたじゃないか。あの湧き上がるような生きる気力。それが再び全身に満ちてきた。


 あぁ、僕は・・・・・・僕は生きていて良いんだ。言葉がこんなにも生きるエネルギーになるなんて、人間の時ですら体験したことがなかった。


「おっちゃん。泣くなよ」


 いつの間にか泣き止んでいたキョウタが言った。


「・・・・・・僕、泣いているのか」


 顔に手を当てると、じっとりと涙で濡れた。


「母ちゃんの言い方がキツかったんだろ」


「違うよ。悲しくて泣いてるんじゃないんだ、これは・・・・・・」


「おっちゃん・・・・・・」


「・・・・・・おっちゃんって言うな。人間で言えばまだ未成年だぞ」


「じゃ・・・・・・兄貴」


「ヤクザじゃないぞ」


「だって、オイラ、兄貴が欲しかったんだ。本当の兄弟たちは、皆死んじまったから」


「なら、約束してくれ。君も命を危険に晒すようなマネはするんじゃない」


「わかったよ、もう二度としないよ。兄貴」


「約束だ」


 生きていてよかった。心からそう思った。僕の命を価値あるものとして認めてくれる親子がいることがわかって、ほっとした。


「それじゃ、母ちゃん、兄貴はオイラたちの家族になったんだ。“信頼の義”をしないとね」


「そうね。“信頼の儀”を受けてもらいましょう」


「え、何です? “信頼の儀”って」


「ゴキブリ同士の絆を確かめる儀式みたいなもんだ。血縁関係なく特に信頼しているゴキブリ同士で行うんだけど、オイラたちの一家が正式に兄貴を家族として迎え入れるためには、やっといたほうがいい。その方がずっと絆が深まるぜ!」


「そうなんだ。じゃ、その“信頼の儀”受けさせてくれ!」


「よしきた! それじゃ一発・・・・・・ん~~~~~~~~~~~ッ」


「私も。ん~~~~~~~~~~~~~~~ッ」


 なぜかキョウタ親子は変な姿勢でいきみ始めた。脚をがに股にして、尻のあたりに力をこめているように見える。


「ん~~~~~~~ッ、なかなかでない!」


「あんな事があった後ではね。でも、ムサノブさんのために頑張るわよ。ん~~~~ッ」


 親子そろって、ずっと、「ん~~~~~~~ッ」といきみ続けている。それに“出す”って、いったい何をだ?


・・・・・・・・・・・・まさか・・・・・・・・・・・・。



 プリッ!



 二匹のゴキブリの尻から何かが放出された。球状で、色が黒い。そして、何とも言えない芳香が漂っている。


 人間の時なら間違いなく全力で嫌悪する悪臭だ。


 だが、悲しいかな。現在ゴキブリであるこの身には、それがとてつもなく魅力的な“食料”に思えてならない。


「さぁ、食べてくれ!」


「さぁ、食べてちょうだい!」


 親子ゴキブリが同時にそれを僕に差し出した。キョウタママの言葉に感動した先ほどとは打って変わり、僕の中に強烈な絶望が生まれた。


 紛れもなく、それは親子ゴキブリがひねり出したできたてほやほやの、糞だ。


 確かにゴキブリには仲間の糞を食す習性があるが、まさか自分がそれをやる立場になるとは、予想もしていなかった。


 異常なほど芳しい香りが空っぽの胃袋を刺激した。待て、待ってくれ、それはさすがに、人間として、人間として、いや、今は確かにゴキブリだけど、でも僕の心はまだ人間なわけで・・・・・だから、その・・・・・・・。


「あの、ちょ・・・・・・」


「どうしたんだ兄貴」


「あらあら、きっと緊張しているのね。でも遠慮することないわ」


 親子の目から光がなくなっている気がした。


 親子がずいずいと僕に迫ってくる。


「兄貴、これで兄貴はオイラのものだ、へへへへ」


「さぁ、これを食べて本当の家族になりましょう」


 親子の目が渦を巻いていた。明らかにテンションがおかしい。


 僕の頭の中では人間としての理性とゴキブリとしての本能が激しく争っている。争っている最中なんだから、頼む、頼むから時間をくれ。


「待て、気持ちはありがたいんだが心の準備を・・・・・・」


「母ちゃん。兄貴、食べ方がわからないみたいだから、食べさせてあげよう」


「そうね、そうしてあげましょう。まったく、見かけによらず甘えん坊さんね」


 親子が僕の肩を掴んだ。なんだこの力は! 振りほどけない。


「さぁ、兄貴」


「さぁ、ムサノブさん」


 二人の糞がズンっと眼前に迫り、そして・・・・・・・・・。


 その日、僕はこれからの人生でもきっと二度と無い盛大な悲鳴を上げた。

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