第11話 価値のない命
絶望的だった。
完全に対ゴキブリ戦闘態勢に入った母親に、強力ジェット噴射殺虫剤。まさに鬼に金棒。キョウタを助ける道は閉ざされた。
だが、僕の腕には、この絶望的状況でもまだ我が子を助け出そうともがき、暴れるキョウタママがいる。
子を呼び続ける叫びが心に突き刺さった。
僕は思った。
今の僕はただのゴキブリ。
人間の世界からこぼれ落ちて、法のゆりかごには戻れない。
矮小な虫けらにして人類の天敵。
人権どころか物としての扱いすらもされない害悪で、殺されても悲しむ人間など誰一人いない。
僕が人間であることは誰にも伝わらない。
僕がゴキブリのままで殺されれば、人間だった僕のことなど露ほども知らず、殺した人間はその小さな勝利に歓喜するのだろう。
例え僕の実の母親であっても。
つまり、僕の命の価値は、やはり無いに等しいのだ。
それに対して、あのチビゴキはどうだ。命を落とせば悲しんでくれる家族が少なくとも、ここに一人はいるのだ。
その事実がたまらなく切なくて、羨ましくて、胸が苦しくなった。
あぁ、キョウタ。君は失えば悲しまれる、とても価値のある命なんだ。
なら、価値のなくなった僕という存在はどうすべきだろう。
決まっている。
「ママさん!」
僕はキョウタママの両肩を掴んで壁に押しつけた。
「離して! 助けに行かせて!」
「僕が行きます!」
キョウタママは目を見開いて驚いた。
「いいえ、私が行くわ。元はといえば、あなたには関係のない事よ」
「聞いてください! 僕は先日まで人間だったんです。今、キョウタを殺そうとしているのは僕の実の母親です」
「・・・・・・・・・・・・」
キョウタママは唖然となりながらも、目だけは僕をまっすぐ見つめていた。
「人間とは非情な生き物です。自分たちの種族以外に生存の権利など認めていない。自分たち以外は命のない物としてしか扱わない。
知能と文明があるがゆえに穏健な環境に慣れすぎて、命の価値を見失っている。そういう連中です。僕もその一人だった。
だけど、ゴキブリになってわかったことがある。害虫と蔑視される虫でもやはり血の通った命だと。気付かせてくれたのはあなた方親子だ。あの子はあなたにとって、世界で一番価値のある命だ。
だから、僕に救わせてください。もはや命の価値のなくなった、この僕に。価値のない命でも、価値のある命の糧になれる。礎になれるなら、僕はとても満足できます」
「あなた、何を・・・・・・」
「絶対にここを動かないでください」
畳の上で安らかな老衰死を希望だったが、ただでさえゴキブリになるなんて漫画顔負けの状況になったんだ。死に様だって、主人公のように格好良くしたい。
シュ――――――――――――――――――――――――――――――ッ!
殺虫剤が噴射された。間違いなく死ぬだろう。死の恐怖は二度体験した。もう、怖くはない。
僕は六本の脚全てに全力を込めて床を蹴った。全霊の力でキョウタの元へと走り抜ける。
殺虫剤の霧が立ちこめていたが迂回する余裕はない。息を止め、速力も落とさず突っ込んだ。匂いでキョウタの位置ははっきりわかる。
「キョォオオオオタァァァァァアアアア!!」
霧から出た瞬間僕は叫んだ。キョウタがいた。母親はすでに殺虫剤のトリガーに指をかけていた。間違いなく直撃する。
走るスピードを緩めるのではなくさらに加速する。ゴキブリの尺度ではなく人間からしても相当な速さだ。ほんの少し気を緩めれば自分でも制御が効かなくなる。
間に合え、間に合え、間に合え!
殺虫剤が噴射された。猛毒の噴霧がゆっくりした速度で上空から迫ってくる。
間に合え、間に合え、間に合え間に合え間に合えぇぇぇえ!!
毒が全てを覆い尽くす直前、硬直して動かないキョウタをキャッチ。一直線に走り抜けた。
背後の床に猛毒が叩き付けられる。
「キョウタ、息を止めろ!」
「へ?」
「このまま突き抜ける!」
直撃は避けたが周りの空間は毒素に満ちている。殺虫剤装備の母親も健在。状況は全く好転していない。
「ひぃ! なに、この速いゴキブリ!?」
驚いた母親はめちゃくちゃに殺虫剤を噴射しまくった。床を這うだけではよけきれない。
「しっかり捕まっていろ!」
壁を垂直に昇る。殺虫剤はなおも追いかけてくる。壁、天井、床、部屋のありとあらゆる面を縦横無尽に走りまくる。
「んぎやああぁぁぁあああぁあああうえおあぁああああっぁああああああ」
母親はもはや発狂状態になり、狙いもへったくれもなく殺虫剤を振り回しまくる。
このままではマズい。
殺虫剤の濃度が濃くなれば他のゴキブリたちにも影響が出る。
一番近い食器棚と壁の隙間に逃げ込もうにも、それではキョウタママに危険が及ぶ。
だが、長期化すればこちらもじり貧だ。殺虫剤は大容量タイプだ。母親め、僕を殺すために相当奮発しやがった。
クソ、どうすれば!
「お、おおおおおおっちゃん、ははは速すぎる!かか顔がひしゃげるるる、かかか髪ぐしゃぐしゃになるるるる」
「君も少しは助かる方法を考えたらどうだ!」
「にに人間ののの、くくくく食い物、あああんパン食って元気きききひひひ百倍いいい」
「生きるか死ぬってときに食い物の話してんじゃねぇ・・・・・・食い物!」
そうだ。あれだ!
僕はすぐに方向転換し、壁を伝い、冷蔵庫を飛び越え、ガスコンロの上に陣取った。
「おっちゃん。熱い熱いよ! 焼ける。こんがり焼けるってば!!」
「我慢しろ!」
背後ではラーメンを煮るための鍋がぐらぐらとガスの火に煮立てられている。
「このおぉ! いい加減死に晒せや!!」
母親が殺虫剤の銃口をこちらに向けた。額に冷や汗が伝う。いや、間近で火が炊かれているせいか。この上ない緊張が体を襲い、全身が震えた。心臓の脈動がやたらとでかく聞こえる。勝負は一瞬。
殺虫剤が噴射される。
ドクン、ドクン、ドクン。
周りから音が消え、自分の脈動だけが聞こえてくる。
まだだ・・・・・・(ドクン)・・・・・・まだだ・・・・・・(ドクン)・・・・・・今だ!
殺虫剤が鼻の先まで来た刹那、全身全霊を脚力に集中して真上にジャンプ。そのまま羽を展開して天井へ一直線に飛翔した。
殺虫剤はそのまま突き進み、コンロから出ている火へ。
「ぎゃああああ!」
殺虫剤に引火。
悲鳴を上げる母親。
ものの見事に引火した火は噴射の軌跡を伝い、大きな横向きの火柱となる。
本体のノズル部分が高熱になって溶けた。
咄嗟に缶から手を離し唖然となる母親。
噴射が治まったせいで火は途絶えた。火が中身まで及ぶことはなく、缶が爆発することはなかった。
母親は火事寸前の事態を引き起こしたショックで意気消沈。放心状態になっていた。
僕は体を素早く反転させて天井につかまった。
「よし、今のうちだ」
僕はキョウタを抱えたまま、この子の家族が待つ食器棚の隙間へ入り込んだ。
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