第10話 タッチ&ゴー

 オイラに怖いものなんてない。


 大人はビビりすぎなんだ。図体がでかいだけのウドの大木の人間など何も怖くない。


 オイラのスピードはゴキブリ一だ。人間のどんな攻撃だってかわせる。


 危険なのはわかってるけどそれが面白いんじゃないか。危険をかいくぐってこその勇者じゃないか。オイラはこの偉業を成し遂げて、いずれゴキブリ界の頂点に立つんだ。あのやたらガタイがいいおっちゃんもこれでオイラに服従するだろう。手下がいりゃ、周りを牛耳るのも手っ取り早く済む。


 あ~、凄くわくわくする! 巨大な人間に立ち向かうオイラかっこいい~!


 人間の足下までやってきた。これから、人間を挑発して気付いたところで一目散に巣穴に逃げ込む。ゴキブリは人間に発見されてからも生還可能だとわからせてやる。


 オイラは人間の足の周りをぐるぐる回った。しかし、人間は気付く様子はない。トロい人間だ。しょうがない。肌にわからせてやるか。スリッパを駆け上がり、人間の足首の部分に這い上がった。


「へへ、覚悟しろ」


 オイラは渾身の力をこめて人間に皮に噛みついた。


 人間が驚いてこちらを向いた。やった! 気付いた。


「んぎゃぁぁぁぁあああっぁぁぁぁぁぁぁぁぁああ!」


 もの凄い雄叫びに空気が揺れた。さぁ、これからが本番だ。人間は足を振り回してオイラを振り落とそうとした。


 視界がぐるんぐるん廻るが、ここは踏ん張りどころだ。六本全ての脚に力を入れて、人間の皮膚にトゲを引っかけた。


 人間はなおも悲鳴を上げ、狂ったように足を振り回す。


 一瞬制止したかと思うと、人間は両手で白い板のようなものを持ち上げていた。肉とか野菜とかを切り刻むとき下に敷く奴だ。こびりついている残り汁が美味しいんだよな、あれ。


 人間が思い切りその白い板を振り下ろした。人間の動きなんて酷くスローモーションだ。オイラはひらりと身をかわして床に着地した。


「ぎゃぁあ!」


 続いて人間の悲鳴。きっと板で自分の足を打ったのだろう。間抜けめ、いい気味だ。


 オイラの目と人間の目が合った。多分、すんげぇ怒ってる。そろそろおいとまするか。


 巣穴に向かって一直線に走り抜ける。


 ズシンッ!


 目の前に人間の足が降ってきた。もの凄い振動に体が揺れた。方向転換して逆方向へ走る。


 ズシンッ!


 また、人間の足が振り下ろされた。ヤバい。動きを読まれてる!


 咄嗟に側にあった箱の隙間に隠れる。ここなら一安心・・・・・・・・・・・・じゃなかった。


 すぐに箱は人間に持ち上げられてしまった。


 人間は額に青筋を浮かべながらしてやったりと不気味に笑っていた。なんだよあいつ、マジで怖ぇ。


「痛い出費だったけど、買っておいて正解だったようね」


 人間の手には何か赤い筒のようなものが握られていた。オイラと同じゴキブリの絵が描かれている。


 あれは、まさかの・・・・・・・・・・・・そう、殺虫剤だ!!


 途端に背筋が凍り付いた。


 マズい、マズい、マズい、ヤベぇ、ヤベぇぞ! あれを喰らえばひとたまりもない。


 過去にオイラの兄弟や親戚があれに殺された。見開いた目玉を血走らせて、血の泡を吹いて苦しんで苦しみ抜いて、断末魔の叫びを上げながら死んでいくんだ。


 怖い。怖いよ。


 とにかく逃げなきゃ! 逃げられるならどこでもよかった。全速でがむしゃらに走り回った。



 シュ―――――――――――――――ッ!



 背後で殺虫剤が噴射される音。触覚に感じる猛毒。直撃したわけじゃない。だけど恐怖のせいなのか毒のせいなのか、体が思うように動かない。



 シュ――――――――――――――――――――――――――――――ッ!



 また噴射音。今度はさっきよりも近い。苦しみと死を招く霧が背後に迫る。


 死ぬ。ホントに死ぬ。誰か誰か助けて。


 ズシンッ!


 走る行く手に人間の足が立ちはだかった。周りは毒の霧で満ちている。完全に退路を塞がれた。


 見上げると人間が笑っていた。この上ないほど邪悪な笑い方で。


「死ね」


 オイラの背筋にとても冷たいものが走った。あぁ、本当に死ぬんだオイラ。嫌だ。嫌だ。まだやりたいことが沢山あるのに、まだ死にたくないよ。悪かったよ。オイラが悪かった。もう、親に心配かけるような真似も、過ぎた悪ふざけも絶対にしない。だから、誰か、誰か助けて。


 人間が殺虫剤のボタンに指をかけた。


「キョォオオオオタァァァァァアアアア!!」


 どこからかオイラを呼ぶ叫び声。母ちゃんの声ではない。


 大きな影が毒の霧を突き抜け、とてつもないスピードでこちらに迫ってくる。


 おっちゃんだ。

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