第9話 我が儘チビゴキ
ごが~~~ッ、ごが~~~ッ。
適当なインスタント食品の昼食を済ませた後、母親はシェスタに突入した。いくら歳食っているとはいえ、到底女とは思えぬ豪快ないびきが居間から聞こえてくる。自分の母親と言う事実を考えると頭を抱えたくなる。
「・・・・・・はぁ・・・・・・はぁ・・・・・・行ってみましょう」
「えぇ・・・・・・どうしました? 息が荒いですよ」
「いえ、僕独自の呼吸法です。こうすると走るのに有利なんです。健康にいいんですよ。はははは・・・・・・」
性欲を押さえつけることには成功したが、美弓から逃げたときの五倍くらい体力を消費した。ちょっと眩暈がする。
僕とキョウタママは台所を壁伝いに音もなく移動し、食器棚と壁との隙間に入った。
数匹の若いゴキブリがいたが、キョウタの姿は見えない。
「あの、うちの子を見ませんでしたか?」
「え・・・・・・あぁ、さっき小さい子が入ってきた気がするなぁ、あっちの隙間から出て行ったと思うけど・・・・・・」
昼間だから眠いのだろう、寝ぼけ眼の若いゴキが指さす方には食器棚の背板が腐ってできた隙間があり、キョウタほどの初齢幼虫でなければ入れそうにない大きさだった。
「キョウタ・・・・・・・・・」
もうちょっとのところで最愛の息子を見失い、キョウタママはその場にへたりと座り込んでしまった。
「お疲れでしょう。しばらく休んでいてください」
「でも・・・・・・」
「あの人間は一度昼寝をすれば、数時間はおきません。それに今日は水曜日ですから、父親・・・・・・男の方の人間も帰ってこないので、夕食の準備のために出かけることもありません。ですから夕食時まではじっとしているでしょう」
父親は仕事の都合上、毎週水曜日に宿直があって帰ってこない。その日、母親は決まって夕食の手を抜く。水曜日の夕食がインスタントラーメンなのは阿久多家のお決まりの習慣だ。
「少し、眠りましょう」
「そうですね・・・・・・」
僕とキョウタママはしばし仮眠のつもりで目を閉じた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
はっと、目が覚めた。何だかおかしな夢の中で警告を受けていた気がする。
感覚を研ぎ澄ますと、もう夕食時をとうに超えていることがわかった。いかん、寝過ごした。
キョウタママを見るとまだ寝息を立てていた。
起こそうかと思ったその時、背後から声がした。
「おっちゃん」
チビゴキキョウタだ。
「キョウタ。どこへ行っていたんだ。お母さんが心配しているぞ」
「今からおもしれぇことやるから、見てろよ」
「何する気だ?」
「タッチ&ゴーだ」
「なんだそれ?」
「あの人間をおちょくってやるのさ」
隙間から外を覗うと、母親が鍋に湯を沸かしてラーメンを作ろうとしていたところだった。
「どうする気だ?」
「わざとあの人間の目の前に走り出て、気付いたところで猛ダッシュで逃げてやるのさ。まさに究極の度胸試し。最高のスリルだ」
「やめろ! 危険すぎる」
「危険だからいいんじゃないか」
「君ね、お母さんがどれだけ心配して探し回ったと思ってるんだい?」
「けっ、知ったこっちゃないよ。あんな口うるさいババァ」
「お前、あんな若くて綺麗な母親がいてその口はないだろ! 疲れてへとへとになるまで子供に必死になれる母親の鏡のような人だぞ」
「うるせぇなぁ、もういいよ。おっちゃんは引っ込んでろ。オイラがゴー&ダッシュを成功させたら、子分になってもらうからな」
「子分? なぜ、そうなる!?」
「昨日、思いついたんだ。グズなおっちゃんゴキブリには若くて気合いの入った親分が必要だってな」
「何だかよくわからん理屈だが、わかったよ。僕が子分になれば良いんだな? 子分になってあげるから。だからやめろ」
「“あげる”って何だよ。オイラの勇敢さを目に焼き付けて敬服してからもの言いな」
なんと頑固なガキだ。こんな奴は一発引っぱたいたほうがいい。
「いい加減にしろよ!」
手を振り上げた瞬間、背後から声がした。
「キョウタ! 何してるの?」
キョウタママが起きていた。
「げ、ヤベ! くそ、決行だ!」
振り上げた手で咄嗟に取り押さえようとしたが、小さな幼虫ゴキは見事にすり抜け、一目散に隙間の外へ走り出て行ってしまった。
「キョウタァァァァ! 待ってぇ!」
「行ってはダメです!」
僕はキョウタを追うよりも取り乱すキョウタママを制止する事を優先した。今一緒に追えば全員殺されてしまう。
「キョウタァァァァ! キョウタァァァァア!」
息子を呼ぶ母の叫びはあまりに痛烈だった。どうすれば、いったいどうすれば。僕に何ができる。ただ一匹のゴキブリとなった、この僕に。
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