第8話 ママさんにムラムラ

「あの・・・・・・、あの・・・・・・」


 誰かが呼んでいる。そういえば僕は寝ていんだっけ。何だかとてもおかしな夢を見ていた気がする。


「あの、すみません・・・・・・」


 目を開けると目の前にメスゴキブリがいた。


「ん、何ですか?」


「うちの子を見ませんでしたか?」


 この声には聞き覚えがあった。


「あぁ、キョウタの・・・・・・」


「母です」


 息子であるチビゴキキョウタを叱りつけていた教育熱心なママさんゴキブリだ。


 全身の感覚器官が今が朝方であることを告げていた。


「キョウタでしたら、昨日の夜にいっしょに人間にフケを食べに出かけました。僕は食べませんでしたけど」


 昨晩のフケを貪るチビゴキの姿が目に浮かぶ。ちょっとげんなり。


「今朝からいないんです。もう寝る時間だから戻るように言おうとしたんですが、姿が見えないんです」


 そうか、ゴキブリは当然夜行性だから朝から寝るのか。そういえば僕は昼夜構わず寝ているな。まだ人間の生活リズムが体に残っていてゴキブリとは合わないのかも知れない。


「フケを食べた後は帰ってきてたんですか?」


「えぇ、あなたが戻ってきた直後にはあの子も帰ってきました。なにやらあなたに言いたいことがあったみたいですが、ぐっすりお休みだったので」


「そうだったんですか」


 あいつはまだ僕に用があるのだろうか。


「あの、恐縮なんですが・・・・・・」


 次に出てくる言葉はわかっている。


「いいですよ。一緒に探しに行きましょう」


「本当ですか!? ありがとうございます」


 僕はキョウタママと共に台所裏の捜索を始めた。


 台所と言っても、ゴキブリからすれば相当な広さだ。その上隙間も多くて隅から隅々まで探すのはかなり労力を要する。女性一人では酷だろう。


 二人であちこちをかけずり回り、他のゴキブリに聞き込みもした。だが、キョウタの姿は見えず、他のゴキブリたちもあまり他人のことを気にかけない性質らしく、誰もキョウタの姿を見た者はいなかった。



 ・・・・・・にしても・・・・・・。


 僕はキョウタママをまじまじと見た。


 人間の感覚の名残か、今の僕にはゴキブリというゴキブリ全てがコスプレした人間に見える。キョウタママも例外ではなく、さらには、酷いほどに・・・・・・・・・・・・魅力的だった。


 息子を必死に探している母親に対してこんな思いを抱くのは失礼極まりないのだが、その、キョウタママさん。もの凄く、綺麗です。生々しく言っちゃうと、ムラムラします。


 キョウタママの体型はあまりに扇情的な豊満さを誇っていた。一番目を惹くのは極端なほど突出した胸部。人間に一般生活では到底お目にかかれないような大きさだった。走るたびにゆさゆさ揺れている。顔をうずめれば窒息するのではないか。腰は程良くくびれ、臀部から太ももは食べ頃の熟れた果実のように魅惑的な肉付きをしていた。顔は垂れ気味の瞳がおっとりした印象を与えつつも、寛大で優雅な母親としての貫禄を称え、息子を探す真剣な表情と相まって、まるで戦場の兵士たちを温かく見守る女神アテネのようだ。


 僕の母親とはまさに月とすっぽん。地球の夜空を照らす美しい天体と地を這う醜い爬虫類程ほどの差がある。


 何だかもの凄く飛びついて甘えたい気分になった。クソ、キョウタめ。あのガキは毎日こんな超グラマスビューティーマザーの胸に飛び込んで頭を撫でてもらっているのか。羨ましすぎる!


 って、おい僕。なぜゴキブリに欲情している?


 これは匂いか? メスゴキブリの放つフェロモンを感じているのか。


 果たして今の僕はゴキブリなのか人間なのか。


 人間としての記憶や理性を保持している自覚はある。


 だが、周りのゴキブリも僕同様に理性を持ち人語を解しているように見える。

 その上、今の僕はなぜか“ゴキブリを嫌悪する”という人類に広く浸透した価値観が薄れているようだ。たしかに、僕は昆虫にはある程度詳しかったが故に、他の人間に比べて“害虫”に対してもある程度寛容ではあった。


 害虫とそうでない虫の区別など、人間に都合のよい利益と自分勝手な主観あるいは感性に左右されているに過ぎない。僕はそんな基準で虫を差別して無作為に殺しにかかるのは好きではなかった。


 別にゴキブリが好きだったわけじゃない。部屋に出れば殺しこそしなかったがある程度不快な感情をもった。今、それがないと言うことは僕の神経は、ゴキブリのそれに近くなっているのかもしれない。


 不安要素はまだある。生物の三大欲求は食欲、性欲、睡眠欲というが今の僕は人間だったときに比べ、この三つの欲求が格段に強くなっている気がする。食欲も睡眠欲もやたらと強くなった。性欲のほうは・・・・・・・・・まぁ、人間のときも健全な十代男子として並程度にはあったと思うが、それでも一児の母親、しかもゴキブリに欲情するなんて・・・・・・。


 欲求が強いせいか、人間に戻らなければと言う理性的な考えすらも薄くなっている気がする。


 このまま本能的欲求が理性に勝り、身も心もゴキブリになって人間だった部分は完全に消失してしまうのだろうか。


 胸の中が、ざわりとうずいた。


「キョウタ! 何してるのッ」


 唐突なキョウタママの叫びにはっと我に返った。


 見ると、今まさにキョウタが冷蔵庫下の隙間を抜け、朝食の用意をしていた僕の母親に向かって突っ走っていくところだった。


「バカな! 死ぬ気か?」


 思わず僕も叫んだ。明らかな自殺行為だ。


 助けに飛び出そうとするキョウタママを僕は必死で押さえた。


 幸い、キョウタはまだ母親に気付かれていない。初齢幼虫である小さな体のおかげだ。ここで成虫であるキョウタママが出て行ったら、さすがに気付かれる。そうすれば二人とも殺される。


 キョウタはシャカシャカと軽快な動きで母親の足下めがけて疾走していった。


 母親の巨大な足に接近し、あろう事かスリッパにタッチした。明らかにふざけている。


 また一目散に駆けだし、食器棚と壁の隙間に入っていった。


 母親は全く気がつかず、だるそうに味噌汁を煮ていた。


 ほっと胸をなで下ろす僕。へたり込むキョウタママ。


「あの子ったら、まったく・・・・・・」


「いつも、ああなのですか?」


「えぇ、あの子の悪い癖で、わざと人間の前に姿を出して逃げ去るのが好きなんです。スリルを味わいたいとかで」


 さしずめ、台風で大しけの海へ繰り出すサーファーや釣り人のような感覚か? 自分の満足のためなら他人の心配も迷惑も全く意に介さない。極めて幼稚な我が儘思考回路だ。


「今、出るのは危険です。母親・・・・・・あの人間は昼食が済めば必ず昼寝をします。それまで待ちましょう」


 父親が仕事に出かけ、母親は風呂掃除と洗濯、それに目に見える範囲だけの掃除を済ませ、ワイドショーに見入っていた。


 僕とキョウタママは、母親がいびきをかいて昼寝に入るのを今か今かと、じっと息を殺して待ち続けた。


 夜行性のゴキブリは昼間は眠るはずの時間だが、キョウタママは目を見開いたまま息子が隠れる食器棚の隙間を凝視していた。


 じっと待つことに苦はなかった。

 

 だが、ふとした拍子に僕の触覚がキョウタママの体に接触してしまった。

 

 触覚はゴキブリの最も敏感なセンサーだ。

 

 そして、ゴキブリは性的興奮を促すフェロモン物質が体の表面に存在している。

 

 途端に強烈な性欲がわき起こり、ムスコが反応すると共に猛烈に羽をばたつかせたくなった。


 僕はまだ残っている人間としての理性をフル稼働し、精神的労力を露ほども惜しまず欲望を抑えつける事に全神経を集中させた。

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