第7話 食の尊さ
再び僕の部屋の台所裏に戻った。ゴキブリたちは相も変わらずひしめき合っていた。
今の僕にとっては唯一の安住の地だ。
だが、心のざわめきは落ち着かない。誰も自分の味方がいないという事実が心に突き刺さっていた。胸が苦しかった。
空腹だったが何を食べていいのかわからないし、何より疲労がひどい。
お隣さんの家に行っただけだが、ゴキブリの身としてはそこそこの大冒険だったのだ。
とにかく眠ろう。
僕はすっと目を閉じた。願わくば今朝から今までのことがすべて夢でありますように。
…………………………
起きるとなんだか騒がしかった。視界はやはり台所裏のスペースだった。夢オチはかなわなかった。
見ると空間全体が先ほどよりもどことなく暗い。部屋の明かりが消えたのだ。どうやら両親は就寝したらしい。息子が帰るのを起きて待つ気はないようだ。
ひどくおかしな夢を見ていた気がするが、内容はすでに覚えていなかった。
「よし、行くぞ」
「俺も~~」
「なんだかわかんないけど、ワイも~」
「あたい、お腹空いてないからいいわ…………」
ゴキブリたちの会話が聞こえてきた。数匹の大人のゴキブリが台所裏を出て行った。後を追ってみる。
ゴキブリたちは夜の台所を縦横無尽に這い回っていた。汚れたガスコンロの周り、かごに収められた食器、ゴミ箱、収納の引き出しの中。足音は一切なく敵の城に侵入した忍者のごとく闇を徘徊していた。
彼らは食物をあさっていた。ある者は食器を這い回って洗い残しのカスを、ある者はバケツに入った生ゴミを、ある者は冷蔵庫の下に落ちていた野菜の切れ端をカジカジと貪っていた。
「おっちゃん」
背後からかわいらしい声がした。見ると昼間のチビゴキだった。よく見ると、大きな瞳にアンバランスな等身といい、実に可愛らしい風貌だった。僕にもこんな弟がいればな…………。いや、ゴキブリが兄弟とかさすがにおかしいだろ。
「君は…………」
「オイラはキョウタってんだ」
「キョウタか。そういえば、お礼を言っていなかったね。今朝はありがとう。助けてくれて」
「ったく。大人のくせに鈍いな~。だらしねぇの。貸しにしとくからな」
なんかムカつくガキだ。生意気だ。親の顔が見てみたい。
「キョウタ。みんな何をやってるんだ?」
「何って、見てわかんねぇのか? 目ん玉ついてるか?」
かーッ。一言多いわ。
「あぁ。僕は今朝まで人間だったんだ。ゴキブリのことはよくわからないんだ」
「ひぇ~! おっちゃん人間なのか?」
「そのおっちゃんっていうのやめろ」
「十分おっちゃんな年じゃねぇかよ」
「そうなのか…………?」
ゴキブリの寿命など知れていると思うが、僕の年齢はゴキブリ換算だと中年おやじくらいなのだろうか? よくわからない。
「ま、いいや。おっちゃんもメシ食いに行こうぜ」
「やっぱりみんな食事を摂取しているのか」
「そりゃ、ゴキブリだってメシ食うのは当たり前だろうよ」
「いや、そういうわけじゃなくてな…………」
正直、いくら我が家が不衛生とは言え、夜間にこれだけの数のゴキブリが部屋中を闊歩していたとは。今までよく平穏に寝られていたものだ。
「そうだ。おっちゃんに特別うまいメシがあるとこ連れてってやるよ」
「人間だった僕に残飯や生ゴミはキツいんだが…………」
「もっといいもんだよ!」
僕はキョウタに続いて台所を走り抜け、襖の隙間から両親の寝室へ入った。
「キョウタ。ここは危険じゃないか。人間が寝ているぞ」
「寝てるんだから、大丈夫だよ」
「こんなところに食べ物があるのかい?」
「あれだよ。あれ」
キョウタの指さす方向にはいびきをかきながら爆睡する父親がいた。
「まさか、僕の父さんを! 人間を食べるのか?」
「違うよ、どこに目ぇつけてんだよ。よく見ろって、あの頭のところ」
父親の頭を見た。典型的なバーコード頭だ。正直、憐れだった。それに自分も将来ああなる可能性があると思うと気が滅入る。
はげ頭の周りに何か細かい粒のようなものが散乱していた。布団や畳に散らばってるそれはキラキラと光り、何とも言えない芳しい香りを放っていた。
「キョウタ。これって…………」
「これがうまいんだ」
キョウタは一目散に駆け寄ると光る粒をもりもり頬張り始めた。
「ん? おっちゃん食わないのか?」
「食うも何も…………」
キョウタが恍惚とした表情で貪るそれは、父親のフケだった。
ゴキブリである以上、粗末な食事を取ることは予想していたが、さすがにフケはないだろ。
「食わないのか? もったねぇな。こんなにうまいのに」
「君、成長期だろ。どんどん食べなよ。」
「おう、おっちゃんの分までもらっちまうぜ!」
正直、かなり空腹ではあるが、どうしても食べる気にはなれなかった。やはり人間の感覚でゴキブリの食事は受け付けられない。だが空腹感はいっそう強くなった。よりによってオヤジのフケにこんなにも食欲を刺激されるとは、正直、悔しかった。
いったい、これから何を食べていけばいいんだ。
いや、待てよ。そういえば…………。
「おっちゃん。どこ行くんだ」
「それより、もっといい食べ物のあるところだよ」
僕は寝室を抜け、居間に来るとちゃぶ台の上に這い上がった。
「あった」
封が開いたビスケットだ。母親の好物で、食べかけを輪ゴムで巻いてこうしてちゃぶ台の上に放置しているのが常だった。
ゴムの巻き方が適当だから袋の口は隙間だらけだ。
頭を突っ込んでビニールのなかを突き進む。滑りやすいが、何とかビスケットの元まで到達。
今の自分からしてみたら恐ろしく巨大なビスケットにかぶりついた。このとき始めて自分の口が横に開くことに気付いた。
硬いビスケットを囓り取り咀嚼する、飲み込む。途端に全身に力がみなぎった。全身の血流が上がり、エネルギーが湧いてくるのがわかる。食べる幸せとはこういうことなのか。
体も心もとても温かいもので満たされていく。
湿気たビスケットを囓りながら、僕はなぜか泣いていた。
生きてものを食べられることがこんなにも幸せだなんて今まで気付かなかった。
飽食の人類は忘れてしまった感覚。生きていること、ものを食べるということが鮮烈に尊く感じられた。胸のあたりが酷く切なかった。
囓りに囓り続け、腹がはち切れそうなほど満腹になるまでビスケットを貪り終えると、僕は台所裏に戻った。
絶望している場合じゃない。生きて生きて生き抜いて、もっとものを食べて、そしてまた生きよう。それが今の僕に与えられた唯一のやるべき事だと、そう思った。
ふと気付いた。母親のビスケットはまだ沢山残っている。僕はそれを囓った。母親はまた明日それを食べるだろう。ゴキブリが囓ったものを食べていると知ったら母親はどうなるだろう。
何だかわくわくしてきた。
「…………く…………くく、ざまぁみろ」
僕は押さえきれず一言だけつぶやき、胸の高鳴りを鎮めるために目を閉じた。
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