第6話 絶望の花園

 初めて女の子の部屋に入った。ゴキブリの姿ではあるが。


 ヤバい、ドキドキする。どんな花園だろう。


 目をひん剥いてあたりを見回してみた。てっきりにピンクの壁紙や所狭しと並べられたぬいぐるみの類を想像していたが、実際は特に張り替えられてもいない典型的な白い壁紙と、何の変哲もない簡素なベッドと、そして僕のより粗末な勉強机があるだけだった。


 女の子らしいものといえばハンガーにかけられた制服ぐらいだ。


 椅子に座って勉強に打ち込み始めた美弓。僕は本が詰まったカラーボックスの淵を登った。美弓に気づいてもらえるところまで移動しなければ。


 登り切って机を見ると、赤本とノートのほかに雑誌らしきものが置いてあった。


「月刊 不殺の道」


 たしか、美弓が通っているサークルが発行している雑誌だ。


「特集 死への序章! 食肉による人体への悪影響」


「付録 無能地方自治体による犬猫殺処分数の統計一覧表」


 物々しいお題目の雑誌だが、表紙を飾るのはサークルの代表と思われる美形男のでかい顔写真だ。


「偉大なる不殺愛護の哲学者。翠川光流特別講演の記録」


 正直、かねてから胡散臭いとは思っていたが、これは予想以上だ。まるで一人のただの人間を神と崇拝するカルト教団みたいだ。


 だが、動物の不殺愛護を掲げる団体ならいくらゴキブリでも即座に殺しにはかかるまい。


 美弓もきっとそうだ。


 自分がこんなにも大変なのに、僕に勉強を手取り足取り教えてくれるほど優しい美弓。 きっと僕の叫びを聞き届けてくれる。


 僕の言葉が通じなくても、きっと箒でちりとりに放り込まれて外へ投げ出されるくらいだろう。


 今の僕から見る美弓はとてつもなく巨大だ。少し恐怖心を覚えながらも美弓との距離を縮めた。


 カラーボックスから机に飛び乗り、雑誌の上に乗った。表紙の美形男子の顔の上だ。


 勉強に集中している美弓はまだ気づかない。


 僕は渾身の力で叫んだ。


「高菜さぁぁぁぁあぁぁぁん! 僕だよ、牟之だよ! なぜか朝起きたらゴキブリになっていたんだ。お願いだから助けてぇぇぇぇえぇぇぇぇえ!」


 反応はなかった。聞こえていないのかもしれない。


「高菜さん、高菜さん。美弓さん。お願いだから気づいて。僕を助けて!」


 美弓がふと顔を上げた。やった気づいてくれた。奇麗な瞳が僕をとらえ、目が合った。


「…………」


「…………」


 しばしの沈黙。


「んぎゃぁぁぁぁぁぁぁああああああああ! ゴキブリィィィィイイイイイイ!」


 世界規模の巨大地震が訪れたかのような大絶叫。驚いた僕はとっさに後ずさる。


 美弓はいきなり立ち上がると、僕が乗っていた雑誌をひっつかんで持ち上げた。


 勢いが強すぎて転がり落ちる僕。三回転して机に着地。自分の運動神経に驚いたが、安心している場合ではなかった。


 美弓はかつての美貌が見る影もない鬼のような形相になり、手に青筋が浮くほど力を込めて雑誌を固く丸めていた。


「滅びろぉぉぉぉおおおお!」


 こん棒のように固く丸まった雑誌を高らかに振り上げ、破滅の言霊を吐き出す美弓。


 僕の浅はかな期待はもろくも砕け散った。


 丸められたせいで不自然にゆがんだ美形男の顔がものすごい勢いで迫る。


 思いっきり六本の手足を動かして直角方向にダッシュした。


 バシィィィンッ!


 背後で雑誌の叩きつけられる音。


 ヤバい。美弓も僕の母親と同じだ。ゴキブリというだけで本気で殺しにかかってくる。


 なんでだよ美弓。あれほどすべての命は尊いとか、不殺こそが真理だとか、どんな理由でも殺すのは業だとか言っていたじゃないか。


 ゴキブリってだけでわずかな慈愛も慈悲も受けられないのかよ。僕は生きているのに、そんなこと誰が決めたんだよ。


 とにかく逃げなければ。


「潰れろぉぉぉぉおおおお!」


 第二波が来る。とっさに机から飛び降りた。すぐ背後で憎悪に満ちた打撃音。落下が妙にゆっくりに感じたが何とか追撃されることなく着地。


 出口の扉は仁王立ちする美弓の向こう。しかし閉じている。脱出できない。


 とにかくこの場を乗り切らなければならない。僕は無我夢中で走った。


「ひぃっ。何これ、すばしっこすぎ!」


 美弓は机にあったペン立てやら参考書やら教科書やらを次々投げつけてきた。今の僕からすれば隕石が降ってくるのに等しい。


 僕の行くてわずか数センチ先に物が着弾する。その度に僕は方向転換してあちこちを逃げ回った。


 速まった心臓の脈動がやたら大きく聞こえた。


 国語辞典が触覚すれすれの位置に叩きつけられ、特大の振動と衝撃が発生する。あれに当たればぺちゃんこだ。


 思わず身震いする。僕の体を恐怖が支配した。嫌だ、嫌だ。死にたくない。死にたくなよ!


 本能的に背中に全神経を集中させた。なぜかわからないが、そうすれば助かるととっさに思いついた。


 背中に、正確には翅の付け根に精いっぱいの力を込める。


「うあぁぁぁああああ!」


 僕は今までの人生で一度もなかったような雄叫びを上げ、疾走のスピードを殺すことなく脚に精いっぱいの力をこめ、床を蹴った。


 体がみるみる上昇していく。ジャンプしたからではない。


 僕は飛んでいた。


 すごい。背中の二枚の薄い羽根で僕は飛んでいるんだ。


「ぎゃぁぁぁあああぁぁあああ! 飛んだぁぁぁぁぁぁああ!」


 美弓が半狂乱になってわめく。


 みるみる高度は上がり、このまま逃げ切れると思ったが、すぐに天井に頭からぶつかった。頭を打ったショックのせいかコントロールが効かなくなり、僕は錐揉み状に回転しながら落下した。


 落下した先は…………。


 ぴとっ。


 僕を見上げていた美弓の顔面だった。


「…………」


「…………」


 わずかな沈黙。


「あ゛―――――――――――――――――――――――――――――――ッ!」


 完全に理性が吹き飛び、ほぼ発狂状態となった美弓は僕を振り払おうとめちゃめちゃに腕を振り回し部屋中を駆けずり回った。


 僕は振り回される手をかわすうちに後頭部へ移動し髪の毛の中に潜り込んだ。


 美弓はなおも叫びながら暴れまわる。


「殺虫剤、殺虫剤、殺虫剤ぃぃぃいいい!」


 やっぱりそうなるか。


 美弓は扉をあけ放ち、台所へ一目散に駆けた。流しの下の戸棚を開け中身を手当たり次第にひっかきまわし始める。


 僕はその隙に床に飛び降り、そのまま音もなく壁をよじ登って換気扇から脱出した。


 死の窮地からは脱出できた。夜空は何事もなかったかのように静かで、発熱した体に夜風が気持ちよかった。


 そして心の底から実感した。僕を助けてくれる人は、誰もいない。

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