第5話 お隣さん家
随分長い時間じっとしていたが、不思議と苦痛ではなかった。
時計はないが、何となく夜だと確信できた。
真っ暗な空間だが、周りの状況が手に取るようにわかった。温度に湿度、周りにいるゴキブリの数、大きさ、位置、敵意ある存在の有無、外の天気。団地にひしめくいくつもの家庭の暖まる夕餉の匂い。
普段何気なく吸っていた空気の中に、ありとあらゆる膨大な情報が詰め込まれているようで、少し眩暈を覚えた。
間違っても人間が持ち得る感覚ではない。僕は改めて自分が人ではなくなったのだと感じた。
僕は他のゴキブリの目を忍ぶように移動した。足音はしなかった。垂直の壁をいとも容易く昇る。高いところは怖いはずだが、やはりゴキブリになったせいか恐怖はなかった。
父親と母親はテレビを見ながら夕食を取っていた。
傍らには手のつけられていないおかずと伏せられた茶碗があった。
僕のぶんだ。
「ねぇ、あなた。牟之ったらプチ家出しちゃったのよ。帰ったら叱ってやってください」
「子育ては君の役割だろ。俺は仕事で忙しいんだ・・・・・・」
「そんな、東大受験に差し支えるではありませんか」
「国立ならどこだっていいよ。金がかからなければな・・・・・・」
「もう、あなたって人は・・・・・・」
普段の父と母だった。家庭に関心のない身勝手で無気力な父。子供の学歴しか頭にない視野の狭い母。
それでも僕のぶんの食事は用意してくれてある。
やっぱり産んで育ててくれた両親なんだ。
はやく元に戻らないと。
僕は壁をさらに駆け上がり、台所の換気扇に忍び込んだ。ファンは回っていない。
うちの団地は古いからそこかしこにヒビや隙間がある。
ここもその一つ。ファンが回っていないときに換気扇を塞いでいるブラインドが脂と埃のせいでうまくかみ合ってない。
ゴキブリ一匹程度なら楽に出入りできる。
最初から知ってたわけじゃない。じっとしている間に空気の流れを感じ取り、ここが外に通じるとわかったのだ。
外に出るとさらに緊張が張り詰めた。危険な鳥類や猫が狙っているかも知れない。
団地の外壁を走り抜けた。わずか数メートルのはずだが、やはり小さい体には数百メートルを走ったように感じた。
何とか危険もなく隣の換気扇に潜り込む。やはりここもブラインドに隙間があった。
高菜家は母子家庭だ。母親と美弓しかいない。
キッチンは真っ暗だった。居間にも人影はなかった。美弓の母親は遅くまで働いていると聞いたことがある。
美弓はどこだろう。団地だから部屋は左右反対なだけで造りは同じだ。
万一に備えて逃走経路を頭の中でシュミレートする。
……あれ、僕はこんなにも用心深い性格だっただろうか? それともこれがゴキブリという生き物の思考なのだろうか? いや、昆虫が逃げるのは本能で思考などないはずだ。
隣の部屋から明かりが漏れていた。椅子を引く音がして、続いて汚れた無地の白い扉が開いた。
美弓だった。
見た途端、ショックを受けた。
いつも学校や塾で会う美弓は、大きな目にシャープな口元の実に顔立ちが整った美人だった。
家の中にいる美弓は目がうつろでうっすらとクマがあり、頬も少しこけているように見えた。明らかに疲れている。
美弓は冷蔵を開けると牛乳を取り出し、コップに注いだ。それを一気に飲み干すと虚空をしばらく眺め、深いため息をついた。
「……お母さん。ごめんね……」
独り言だった。普段の快活な美弓からは想像もできないほど沈んだ声だった。
「私がもっと頑張らなきゃけないのに……」
美弓が目指しているのは確か旧国立七帝大だ。一応、僕と同じ大学を目指している体となっている。
だが、実際のところ僕たちの通う高校は過去に七帝大に合格者を出したことはない。美弓も模試の成績は上位だが決して一番ではない。
僕は母親から押し付けられているだけだが、美弓は単身で働く母親を楽させるために勝ち目のない受験戦争に挑んでいる。
そのプレッシャーが家では如実に顔に浮き出ているようだ。
美弓が部屋に戻ろうとする。僕は壁を降り、全力で床を駆けた。
ただでさえ疲れている美弓にさらに面倒ごとを持ち込むのは気が引けたが、これは僕自身の生死にかかわる。何としても助けを求めなければ。
美弓の足音が地響きのように感じる。
美弓が自室のドアを閉める直前、僕は間一髪で体を滑り込ませた。
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