第4話 幼なじみ

「おはようございます」


 その声は、隣の部屋に住む高菜美弓だった。


「あら、美弓ちゃん。おはよう」


 母親がとびっきりの偽装猫なで声で挨拶した。


「ごめんね、牟之ムサノブったらどこかへ行っちゃってね」


「先に学校へ行ったんですか?」


「いえ、制服も鞄もあるから、きっとプチ家出よ」


 何がプチ家出だ! 財布もケータイもそのままだし、靴だって玄関にあるはずだぞ。


「えぇ! 牟之くんが?」


 高菜美弓とは俗に言いう幼馴染の関係だ。幼稚園から高校まで一緒で、過去に同じクラスになったことも多い。


 しかし、中学に上がった頃から付き合いが薄くなり、次第に会わなくなった。思春期だったせいか、異性で話すのが照れくさかったのかも知れない。


 同じ高校に入ったことも全く知らず、三年生になって通い始めた塾でやっと再会したのだった。


 彼女は僕を古くからの友人というよりも、大学受験を共に闘う同士として歓迎してくれた。


 以来、共に登校して朝補修を受け、放課後は一緒に塾に直行し、休日は図書館へ向かうという日々を繰り返していた。


 最初は女の子と行動を共にすることに、かつてないドギマギした感情を覚えた。


 けど、彼女との付き合いは常に勉強という媒介を通していた。事実、教科書や参考書を持たずに会ったことは一度もない。


 彼女から遊びの誘いがくることはなく、僕自身も異性を誘う勇気がなかった。


 そんな関係が、いつしか退屈な日々の一部と化してしまっていた。


「牟之くん。本当に大丈夫なんですか?」


「平気よ、きっと夜にでもなれば泊るところも見つけられなくて帰ってくるわよ」


「じゃぁ……牟之くん帰ってきたら、連絡くださいね」


「はいはい、気をつけてねぇ」


 もし、現在の僕を殺さない人間がいるとしたら、美弓だけだった。

 彼女は動物を決して殺さないのだ。食事の時は、決して肉や魚を食べなかった。


 なんでも、通っているサークルの決まりらしい。そのサークルは完全不殺の動物愛護を掲げ、菜食の普及や捨てられた動物の里親探しなどをしているそうだ。


 現に僕は美弓が保護猫の譲渡会に運営として参加しているのを見たことがあるし、駅前で啓発チラシを配るのを手伝ったことだってある。確かその時、彼女はコンクリートの上でジタバタしているムクドリの雛を見つけ、巣に帰したのだ。


 僕は駅前にいるムクドリは糞害をまき散らす害鳥だから、かえって手を出さないほうが良いのではと助言したが、彼女は「生きとし生けるもの差別なんてしてはいけないわ」と言い、雛をやさしく手に乗せると自分で街路樹をよじ登り、枝に作られた巣にそっと帰してやったのだ。


 それほど慈愛に満ちた美弓だ。いくら僕がゴキブリとはいえ、きっとすぐさま殺しにかかることはないだろう。なんとかして彼女に接触し、意思疎通をはかる方法を見つけることができれば、望みはある。


 僕は美弓が帰るその時までじっと待つことにした。


 時折、興味を示したゴキブリたちが長い触角で体をつついてきたが、すべて無視した。

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