第3話 カブリ様
チョウロウは再びあぐらをかき、淡々と話し始めた。
「三億年にわたり繁栄を極めた我らが窮地に陥りしとき、神アジダハカに使命を与えられし救世主が現れるであろう。
救世主は、我らを虐げ滅ぼさんとする敵族に反旗を翻し、我らのもとに現れる。
彼は我らと同じ姿をもって現れるが秘められしものは非なる。
剛殻をまとい、他の加害を退け、強靭な翅をもって、大空を舞い、巨顎はすべてを喰い破る。
さらには敵族の知能と、神より与えられし非常の能力をも兼ね備え、我らを絶滅の危機から救わんとす。
その者、名をカブリとす。
カブリは全能なる指導者としてゴキの頂点に君臨するであろう。
ゴキの世界に伝わる伝説じゃ。わしの八千世代くらい前の爺さんから伝わっておる。詳しい伝承はもっともっと長いのじゃが、お前さんの今の姿といい、境遇といい、『カブリ様』そのものじゃ」
「…………」
う~ん。とりあえず僕がとてつもなく強いゴキブリになったってことのようだ。
でも自分が選ばれる心当たりがない。つーか、選ばないでほしかった…………。
「あの……」
「なんじゃ?」
「どうして僕が選ばれたんでしょう?」
「…………わしにもわからぬ…………」
「どうすれば人間に戻れるんでしょう?」
「伝承に救世主が敵族に還ったという節はないのぅ。お前さんは人間に戻りたいのかい?」
「え、ええ…………」
「そうか、伝承には、救世主に選ばれた者は敵族の世界に絶望したものとされておるがの、お前さんにはまだ人間の世界に希望があるのじゃな?」
「…………」
答えられなかった。
人間の世界に対する希望?
自分には皆無だった。
マンネリな学校生活。教師は成績の二文字しか頭にない、友達との楽しい会話もない、彼女なんてものもいない。
家は狭いし臭い。母親は何も聞いてくれない、父親は何もしてくれない。そのくせ、受験のことには過剰なほどうるさい。
唯一、安らげるのは昆虫たちを相手にしている時だけだった。けど、それも受験期になってほとんど出来なくなっている。飼っていた昆虫は売られ、標本は捨てられてしまったからだ。
かと言って、いじめられてる訳でなければ、虐待を受けてるわけでもない。衣食住も保証されてちゃんと人並みに生活している
将来の目標なんてものは無かった。何もしたいことがない、したいと思っても無理だとわかってる。
正直、何もなかった。絶望というマイナスがあるわけではない。希望も絶望も、プラスもマイナスもなく、ただあるのは無機質なゼロだけ。
それが僕という人間そのものだった。
「まぁ、ゆっくり考えなせぇ」
チョウロウが僕の肩をそっとたたいた。
「お前さんは人間にしちゃ、若輩のようじゃの。わしも長く生きとる。若いもんの生き方に指図しようとは思わん。幸い、伝承も我らが窮地に陥るという部分だけは実現しておらんしの。急ぐことはない。ここで生活したければみんなが受け入れてくれるじゃろう。人間に戻りたければ、非力だが、わしが協力してやろう。若いの、ゆっくり考えなせぇ」
チョウロウはそう言ってすっと離れていった。
染みるような温かい言葉だった。生まれて初めてとも思えるほど、心臓がじんとした。かつて、父親にすらこんな言葉をかけられたことはなかった。
僕は、冷蔵庫のモーター音がかすかに響く薄暗い空間にじっと鎮座し、考えた。
たしかに、人間の世界に希望はない。だけどゴキブリの世界に望みがあるかというと、そんなわけはなかった。
いつ死ぬかわからない。
人権がない、法律上の「物」であることの恐ろしさは、今朝体験したばかりだ。母親も父親も、人間はこぞって自分を殺しにかかるだろう。
死が常に隣にあるという事実が、僕を震え上がらせた。
やはり、人間に戻るべきだ。しかし、どうすればいい?
チョウロウも僕が人間に戻る方法は知らないようだった。
じゃぁ、原因不明のこの事態に誰が頼れるんだ? いったい誰が僕を助けてくれるんだ?
誰もいない…………いや、待てよ…………一人だけいた。
その考えが浮かんだ時、巨大なチャイム音が鳴った。
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