第2話 ゴキブリファミリー
幼い子供のかわいらしい声だった。振り向くと、羽の無い、やたらちっちゃいゴキブリがいた。触覚の先端と体に白い斑紋がある。かなり若い幼虫のようだ。
なぜだろう、幼虫ゴキブリだと言うことは感覚的にわかるのだが、目には小さな人間の子供がテカテカした焦げ茶色の衣装に触覚のついた帽子を被って、ゴキブリのコスプレをしているように見える。
「早く、こっちだよおっちゃん」
今は非常事態。見え方が変なのは気になるし、おっちゃんという呼び方も何だか嫌だが、小さな同属の助け舟に乗るしかない。
チビゴキに追随して走る。一旦、ベッドの下を出てクローゼットへ向かい、隙間から中へと入った。奥へ進むと壁に割れ目があり、チビゴキはその中へ入っていった。
そこは壁と壁との狭い隙間で、僕はその暗くカビ臭い空間を上へ下へ左へ右へと走りまくった。現在位置などわかるはずもない。
しばらくすると、なんだか奇妙なにおいが漂ってきた。臭いのだが、なんだか緊張が解けるような、安心するようなにおいだった。
チビゴキはどうやらそのにおいの根源へと向かっているようだった。だんだん臭気が強くなっていくのがわかる。
においがもはや空気全体に満ちてると感じ始めたとき、チビゴキは見えてきた壁の穴にすっと入っていった。いや、出て行ったと言うほうが正しいかもしれない。
そこは相変わらず狭い隙間だったが、わずかに光があった。そして、今の自分には適度と感じる湿気と空気、良い悪い以前に食料という感覚が先立つ生ゴミの腐臭、ブゥ~ンと無機質に鳴り響く冷蔵庫のモーター音があった。
チビゴキと僕は台所に出たのだ。どうやら流し台の裏側あたりらしい。
ふとチビゴキが走って行ったほうを見て驚いた。そこには無数の大小さまざまなゴキブリがひしめいていたのだ。ざっと見て五十匹ぐらいはいる。やはりどれも人間がコスプレをしているように見える。よくもこんな狭い空間にこれだけ密集したものだ。それに、先ほどからの奇妙なにおいはこの集団そのものが発しているようだ。おそらく集合フェロモンという奴だ。
「チョウロウさま、なんかでっかいおっちゃん助けてきたよ」
おっちゃん言うなチビ! これでもまだ高校生だぞ。
「おぉ、キョウタどこへ行っておった? お母さんが心配しておるぞ」
一匹のゴキブリが振り向いた。体全体の色があせ、羽はゆがみ、触覚も片方が少し短い。一目で年を経ているとわかった。っていうか、いい年した爺さんが年甲斐もなくふざけ半分でゴキブリの着ぐるみを着ているようにしか見えない。
「ほほぅ、ずいぶんと立派な体躯をしておりますのぅ。どこから来られた」
チョウロウと呼ばれたゴキブリは僕を見るなりそう呟いた。どこか年配者としての威厳を漂わす、貫禄ある声だった。
「あ、あの……僕は……」
「キョォォォタァァァァ!!」
言いかけたところで凄まじい怒鳴り声が押し寄せてきた。
「あんたって子はっ、あれほど人間の前に行くなと言ったのに。また言いつけを破ったね!!」
どうやらメスゴキブリのようだ。うちの母親のような金切り声ではなく、どこか厚みと温かさのある声だった。
「いいじゃねぇかよ。帰ってきたんだから。ケガだってしてねぇし」
チビゴキはを口調を尖らせて反抗したが、声が幼いせいか今一歩凄味に欠ける。
「一歩間違えたら殺虫剤で燻り殺されるか、ハエたたきで潰されちゃうのよ!」
「ふんっ オイラはスリルが味わえりゃいつ死んだって構わないや」
「あんた自分の命を何だと思ってるの!? 来なさい。お仕置きフルコースだからね」
「かまうもんか」
チビゴキは母親らしきゴキブリに首根っこをつかまれ、引きずられながら奥へと消えていった。
「さて、静かになったところで」
チョウロウは目の前であぐらをかき、僕にも座るよう促す。なんだか偉い人の前にいるような気がしたので正座した。
「ほっほっほっ。ゴキにしては随分と礼儀正しいですの」
「いえ、それほどでもありません」
「ほぅ、言葉遣いまで丁寧だの。お若いの、お前さんほんとにゴキかい?」
「いえ……ぼくは……」
言葉に詰まった。自分の状況をどう説明すればよいのだろう? 正直、自分でもわけがわからないのだ。
「無理に話さんでもええ。 流れ者にはいろんな事情があるからの」
チョウロウは目を細め、やさしく微笑んだ。
「まずはわしから名乗っておこう。わしはみんなからチョウロウと呼ばれておる。本名は……とうの昔に忘れたわ、普通のゴキに比べたら長生きしとるからの」
チョウロウは一度咳払い、さらにつづけた。
「ここはミカワファミリーの巣の一つじゃ。この建物全体に幾つもの巣があるが、ここはその中でもひときわ大きい」
美河とはこの地域の地名であり、僕が住むこの団地の名前にもなっている。
「建物全体で一万匹前後のゴキがおる。そのうちの百匹前後がここに群れておる」
一万匹!? 確かに古い団地だけど、そんなにゴキブリがいるとは……。
しかも、うちの部屋には百匹も……いや、これは納得いく。母親は掃除があまり好きじゃないからな。大掃除なんて生まれてこの方やったのを見たことないし、普段だって掃き掃除もしないし、生ゴミだって一週間はため込むんだ。おまけにフライパンからこぼした炒め物を蹴って冷蔵庫の下に転がしたことだってある。
うちがゴキブリ天国になるのも無理はない。
「わしはこのファミリーの中ではかなり権力があるほうじゃ。ここにいるものはわしの言うことは大概聞いてくれる。あんたも、何か困ったことがあったらわしに相談しなさい」
「権力……ゴキブリの世界にも階級とか序列があるんですか?」
「なんじゃと?」
あ、質問の仕方がまずかった。理由はどうあれ、今の自分はゴキブリなんだ。ゴキブリの世界のことをまったく知らないなんてあまりに不自然だ。
「ほっほっほっ。あんたつくづく変わっとるの。ゴキブリの世界で隠し事は禁物じゃ。みんながみんなの知識や気持を共有して生きる。それがゴキブリの世界の掟じゃ。特にこのミカワファミリーではそれが顕著じゃ。先ほどのキョウタが親の言いつけを破ったことも、もう群れ中に伝わって親ゴキたちは一斉に子供を戒めておるじゃろう」
どうやらゴキブリの世界では情報伝達がとてつもなく早いらしい。
「質問の答えがまだじゃったの。ゴキの世界には基本的にアリのような階級や序列はない。ただ単に、変に長生きしているわしをみんなが頼りにしておる。それだけのことじゃ」
チョウロウはまたにっこりと微笑むと、僕にやさしく問いかけた。
「さぁ、お前さんのことを教えておくれ」
自分自身の状況すら満足につかめないのに、右も左もわからないゴキブリの世界に僕は足を踏み入れてしまっている。ここは目の前の賢者の風格漂うチョウロウ様のお助けを借りるしかない。
「僕の名前は、
「ほほぅ! 人間とな?」
チョウロウは目を丸くして僕の体を見回した。
「この尋常でない体躯に、鋼のようにつやのある皮膚、触覚もずいぶん丈夫そうで長さもあるの……どれ、背中を見せてみなさい」
僕は四つん這いならぬ六つん這いになり、チョウロウに背中を見せた。
「おおっ!! このように頑強な翅は見たことがない。それに付け根の筋肉もかなり発達しておるようじゃ。これなら空を自由自在に飛び回ることもできるじゃろう」
「ゴキブリって元から飛べるんじゃ……」
「トンボやハチのように素早くは飛べん。しかし、お前さんならそれ以上に飛べるかも知れんの」
「…………」
「お前さんは…………『カブリ様』かも知れんの」
「…………なんですそれ?」
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