変われない僕、変わらない僕ら

@asanokuro

第1話

 変わらないのは悪いことじゃない。でも変われないのはきっと悪いことだ。

 だけど、変わってしまうのはとても怖い。今まで積み上げてきた何もかもが壊れてしまいそうで。

 だから僕は、ずっと何もできないでいる。


 

 

 月曜日の朝。世間一般には嫌われているけど僕はそんなに嫌いじゃない。

 学校とか勉強が嫌いじゃないからっていうのもあるけど、それだけじゃなくて。

 

ピンポーン

 

 僕は一つ隣の家のインターホンを押した。

 家の中から走っている音が少しだけ聞こえる。それだけで僕は嬉しかった。

 それから間もなく扉が開いた。

 

「…ごめん、待った?」

「今来たとこ」

 

 なんて、まるで恋人みたいな会話を交わす。

 だいたいベルを鳴らして30秒も経ってないんだから待ってないのはお互いわかってるけど、僕も彼女もそんなことが楽しくて、いつの間にかお約束みたいになっていた。

 

「行ってらっしゃい、気をつけてね」

「行ってきます、お母さん」

「行ってきます、沙羅さん」

 

 見送りに来ていた沙羅さんに手を振って、僕達は並んで歩き出した。

 

 僕の隣を歩く少女、水代沙耶はいわゆる幼馴染と言うやつだ。

 生まれたときから家が隣同士で子供の頃からよく一緒にいた。

 沙耶は昔からおとなしい性格だからあんまり外で遊んだりはしなかった。小さいときはおままごととかだったけど、大きくなってからはをトランプみたいに二人でできるゲームをしてよく遊んでいた。

 幼馴染を好きになるのは実は珍しいことらしいけど、僕はそんな沙耶に小学校の頃から恋をしている。

 初めはただの親愛で、いつしか恋愛に変わっていた。

 そうやって十年近く片思いを続けている僕だけど、ずっと沙耶に想いを伝えられないでいる。

 その理由は僕自身の性格もあるけど、それ以外にとある理由があった。

 

 未来予知。

 僕の『知りたい』という思いに反応してこれから起こることを見ることができる。

 そんな便利な能力を僕は中学生のときに手にしてしまった。

 でも、この能力は見たい未来を見れるわけじゃなくて、テストの解答を知りたかったけどテストが返却されて落ち込むのが見えた。みたいにかなりアバウトだったりする。

 しかも当たる確率は50%ぐらい。

 それで、沙耶の気持ちを知りたいと思った僕が見てしまったのは、沙耶に告白して振られる光景だった。

 それが本当の未来かどうかはわからなかったけど、その時は世界が終わったような気がした。

 そのあと嘘だったと思いたくてもう一度見たいと願ったけど二度と見ることはできなかった。

 多分、同じ未来は一回しか見れないんだと思う。

 本当の未来は一つしかなくて、嘘の未来は無限に存在する。だから何度も見れたらたとえ50%でも本当の未来がわかってしまうんだ。

 もしも神様がいるのなら、きっと性格が悪いのだろう。

 

 50%とはいえ振られる未来を見てしまって僕はすっかり怖気づいてしまった。

 告白なんてもともと成功率50%かそれよりもっと低いものだと割り切れればよかったのだけど、僕の心はそんなことができるほど強くない。

 それからずっと、その未来が現実になるのが怖くて告白できないでいた。

 

 横を歩く彼女は何を思っているのだろうか?何十年も一緒にいるけど、いつもそんなことに悩んでしまう。

 隣を見ながらそんなことを考えていると、僕の視線に気づいたのか沙耶はこちらを向いて首をかしげた。

 

「…どうかした?」

「何でもないよ」

 

 何でもなくないけどそう言ってしまう。

 こんなことを思っているのを知られたら幻滅されるか、引かれるか。少なくともいいことにはならないだろう。

 

 ねえ、沙耶?君は僕のことをどう思ってるの?

 その言葉がどうしたって声にできなかった。

 

 

×××

 学校についた時間は結構ギリギリだった。教室に入るとすぐに沙耶は左に曲がり、僕はそのまま奥に進んでいった。

 

「相変わらず朝からイチャイチャしてるな」


 椅子に座ろうとすると後ろの席の晃が声をかけてきた。

 

「別に、そんなんじゃないよ。一緒に登校してるだけ」

「それを世間一般ではイチャイチャしてるって言うんだよ」

 

 そうだろうか?

 イチャイチャしてるっていうのは例えば手を繋いだりとか、抱きしめたりとか、キスしたりとか。そんなことを言うんだと思う。

 僕と沙耶がしたことがあるのはせいぜい手を繋ぐぐらいだ。それも小学生の頃。

 気持ちを自覚してからは、照れくさくて今までしていたこともできなくなった。

 もう一度、そんなことをできるようになるのだろうか。

 子供の頃のように、でもあのときとは変わった関係で。

 

 ―――――――――――――――

 「沙耶…」

 「千尋…」

 ―――――――――――――――

 

 仄かな月の光だけが暗い世界を照らす中で、抱き合ったまま二人の男女が見つめ合っている。

 ……だからこの能力は嫌なんだ。

 いつもは僕の希望をへし折るくせに、ときどき希望の糸を垂らしてくる。

 どうせ今回は嘘だ。

 僕に一歩を踏み出す勇気なんてないんだから。こんなことなんて絶対に起こらない。

 

 

×××

「沙耶、帰ろ」

 

 HRが終わってから少し時間を空けて、僕は沙耶ところに行った。

 一緒に帰ろうとすると、最初に比べたらマシになったけどいまだに周りに騒がれることがある。

 それが鬱陶しいから、僕と沙耶はある程度人が少なくなってから教室出る。今日もアツいとか、ラブラブだ、とかね。

 本当にそうならこんなに悩んだりしなくていいのに。

 今日も同じようにしたから、誰に何も言われることなく学校を出られた。

 もう何回こうして沙耶と一緒に歩いたかなんて数えられない。

 学校が変わっても、街並みが変わっても、歩幅が変わっても、僕らはこうして並んで帰った。

 だけど僕と沙耶の関係は、何一つとして変わっていない。

 このままでいいんだろうか。自問する前から答えはわかってえ。絶対によくない。そんなくらい僕だってわかってる。

 だけど何もできない。

 それは僕の勝手な想いだから。

 何かするだけの勇気を持っていないから。

 今まで積み上げてきたこの関係が壊れるのが怖いから。

 いったい僕はどうしたらいいんだろう?その問いには誰も答えない。

 神様も、僕自身も。

 

 

×××

 朝起きてからずっと、胸の奥にモヤがかかったような感じがする。いつものように支度して、いつものように家を出て、いつものように沙耶の家のインターホンを押した。

 

「ごめん、待った?」

「いや、今来たとこだよ」

 

 本当に何も変わっていない。昔から、何も。

 

「二人とも、気をつけてね」

「うん、行ってきます」

「はい、行ってきます」

「ふふ、そうやって並んでると幼馴染というより恋人みたいね」


 去り際に沙羅さんはそんなことを言い残して家の中に入っていった。。

 冬の空気が火照った顔を冷ましてくれるまで、僕は沙耶の顔を見れなかった。

 

「ねえ、沙耶?」

「どうしたの?」

 

 振り向いた沙耶の頬は微かに赤く染まっている。

 

「僕達って周りから見たらどう見えてるんだろうね?」

 

 ――――――――――――――

「…幼馴染、じゃないの?」 

 ――――――――――――――

 

 今回は当たりかな。

 沙耶ならそう言いそうだ。

 

「…幼馴染、じゃないの?」

 

 予知と一言一句変わらない沙耶の言葉に僕は少しがっかりした。

 ちょっとだけ、違う答えに期待したんだ。せめて嘘でもいいからその言葉を聞きたかった。

 これだから、この能力はやっぱり役に立たない。

 

「でもほら、さっき沙羅さんが恋人みたいって」


 そう言うと沙耶は視線を前に戻した。その頬はさっきよりも赤くなっている。

 

「恋人って、あんなのだと思う」


 沙耶が指差した先を見ると、ちょうど僕達と同じくらいの歳の男女が手を繋いで歩いていた。

 僕は前後に小さく振れるピンクの手袋を掴んだ。心臓の音が一気に大きくなった。

 

「…えっ?」

「これなら恋人っぽく見えるかな?」

 

 僕は沙耶に顔を見られたくなくて、沙耶の顔が見れなくて、マフラーに顔を埋めた。

 

「…これなら、そうかもね」

 

 沙耶も同じように、マフラーに顔を埋めた。

 他人から見たら笑われるような小さな一歩かもしれないけど、確かに前に進めた気がした。

 

 教室に着くとすぐに朝のことを晃が問い詰めてきた。

 

「おい、千尋。今朝お前が水代と手を繋いでるの見たぞ。やっぱり付き合ってるんじゃないのか?」 

「何度も言うけど僕と沙耶は付き合ってないよ」


 そんなふうに言い返したけど、朝のことが晃にそんなふうに見えていたのが嬉しかった。

 それがたとえ、中身のない偽物であっても。。

 

 

×××

 「ん、千尋?放課後に一人なんて珍しいな」

 

 学校が終わってから教室に残っていると晃が話しかけてきた。

 

「沙耶は図書委員だよ」

 

 月に一回だけ図書委員はカウンターの当番がある。

 その時は沙耶が行っている間、僕はいつも教室で待つことにしている。こうやってただ沙耶を待っている時間が割と好きだ。もちろん一緒にいるときの方が好きだけど。

 

「別に水代はどこだ?とは聞いてないけどな」

「一人は珍しいって言っただろ」

「水代とは言ってないけどな」


 それはそうだけど僕が学校で誰かといるとすれば沙耶と晃ぐらいなんだからそう答えるよ。

 晃は自分の席に後ろを向いて座り、ノートに文字を書き込む僕をじっと見ていた。

 特に話しかけられなくても、そんなことをされれば気が散ってしまう。

 

「何?」

「んー、いや」

 

 我慢できなくなって問いかけると、晃は頭の後ろを掻きながら僕の目を見つめた。

 

「今更だけど千尋は水代のことが好きなのか?」

「今更なんて言うなら聞かなくてもいいんじゃない?」

「じゃあやっぱり?」

「うん、僕は沙耶が好きだよ」

 

 晃なら別に言っても構わないと思った。

 だから僕は、恥ずかしがることもなくそう言い切った。

 

「それで?水代は千尋のことどう思ってんだ?」

「わかったら苦労しないよ…」

 

 それがわからないからずっと悩んで、迷って、苦しんでるんじゃないか。

 

 要件はそれだけだったのかただの時間つぶしだったのか、晃はカバンを持ってすっと立ち上がった。

 

「助けてほしかったら言えよ。力になるかはわからんけど」

「余計なお世話だよ」

 

 晃が扉を開けると、その奥で何かが走り去る音が聞こえた。

 

「っ!?」

「なあ、今のって…」


 すぐに廊下に出て左右を見たけど人影はない。けどどこに逃げたかはわかった。わかってしまった。

 僕は開けっ放しにされた隣の教室に入ると、スライド式の扉のしまった方の陰に彼女はいた。

 沙耶は壁にもたれかかって顔を蒼白にしながらポツリと呟いた。

 

「…ごめんなさい」

 

 その声は震えていて、かすれている。どうやらさっきの会話を聞かれてしまったみたいだ。

 僕は何を言えばいいのかわからなくて黙りこんだ。

 

「千尋、ごめんなさい」

 

 もう一度謝って、沙耶は振り返らずに走っていってしまった。それを追いかけるのは簡単だったけど足がどうしても踏み出せない。

 

「すまん、不注意だった」

 

 一部始終を見ていた晃がそう言った。

 想いを知られた羞恥心よりも、こんな形で知られてしまったことが残念だった。

 だけどこれでよかったとも思う。

 こんなことでもなければ、この気持ちはずっと伝えられなかっただろうから。

 

 

×××

 次の日の朝も僕は変わらずに沙耶の家の前にいた。

 だけどあんなことがあったからインターホンを押すのを少しためらってしまう。

 沙耶の家に迎えに行くのはもう十年以上も繰り返してきたけど、こんなのは初めてだった。

 意を決してインターホンを鳴らすと扉がゆっくりと、少しだけ開いた。その隙間から沙耶の頭だけが出てきた。

  

「ごめんなさい、先に行ってて」

「えっ?」

 

 用事だとかで一人で行くことは何度かあったけど、こんな沙耶の態度は見たことがなかった。

 

「お願い…」

「うん、わかった」

 

 僕と沙耶には無理やりでも一緒に行くような理由はない。だから一人で行ってと言われて言い返すすべを、僕は持っていなかった。

 

 嫌われてしまったのだろうか。

 そんな考えがふと頭をよぎった。

 そこまでいかなくても僕の気持ちを知ってしまったから距離を取ろうとしているのかもしれない。

 ずっと一緒にいて、僕と沙耶の関係はずっと変わらなくて。だからこんなことで何かが変わるなんて思ってもいなかった。

 だけど、もう今まで通りではいられないかもしれない。そんなことにようやく気づいて、今更になって後悔がやってくる。

 だけど、何もかもがもう遅かった。

 

 今日一日、また拒絶されるのではないかという恐怖に負けて沙耶に話しかけることができなかった。

 沙耶の方から話しかけてくることもなかったから、朝の一言しかまだ話せていない。

 そんな状況で一緒に帰るのも気まずくて、僕は放課後になるとすぐに校舎から出ていった。

 一人で歩く帰り道は、いつもよりもずっと長かった。

 

 家に着くと僕は着替えもせずにベッドに寝転がった。

 どれだけ沙耶と一緒に過ごしても、彼女の気持ちは今も、昔も全くわからない。

 そんな僕に神様が与えてくれたのは、この役に立たない予知能力だけだった。

 

 こんなことを他者に願うのは間違ってる。そんなことはわかっているけど…

 

「ねえ、教えてよ神様。こんな力なんていらないからさ、沙耶がどう思ってるのか、それだけでいいから教えてよ…」

 

 締め付けられる胸から吐き出すように空へと祈った。

 

 もしも神様が本当に存在するとしたら、きっとどこまでも性根が腐っていて、悪魔のような性格なのだろう。

 悲痛な祈りを受け取って神様が突きつけてきたのは、今よりもなお酷い現実だった。

 

 ――――――――――――――――

『好きです。昔からずっと、沙耶のことが大好きです。付き合ってください!』

『…ごめん、なさい。千尋のことは幼馴染としか思えない…』

 ――――――――――――――――


 ずっと神様は僕をからかっていたんだ。僕に希望をもたせる未来を見せたり、かと思えば絶望の底に落としたり。

 こんな未来予知は意味がないなんてわかっていても僕はすっかり怖気づいていた。

 半分の確率を踏み越える勇気があったらもっと違った未来を掴めたのだろうか?

 そんな未来なんてもう、ありはしないけれど。

 

 

×××

 ベッドから起きるのがどうにも億劫で、這い出すようにして抜け出した。いつにもなく体が重い。

 学校を休もうかとも思ったけど、今休んでしまうと取り返しのつかないことになるような気がした。恋人になれないとしてもこのまま疎遠になるのだけは嫌だった。

 重い足取りで家を出ていつものように沙耶の家のインターホンを押すと、出てきたのは沙羅さんだった。

 

「ごめんね千尋君。沙耶ったら朝早くに出ちゃったの。『ごめんなさい』って伝えといてって」

 

 その『ごめんなさい』は何に対しての謝罪なのだろうか。

 先に行ってしまったことか、一昨日のことか、それとも、僕の想いに対する返事なのだろうか。

 やっぱり嫌われてしまったのかもしれない。

 一度悪い方に考えると、もう止まらない。

 嫌な考えばかりが僕の頭の中を回っていた。


「わかりました」

「千尋君、何があったかは聞かないけどいつでも相談してくれていいのよ」

 

 沙羅さんは優しく手を差し伸べてくれる。

 だけど今は、その優しさが何よりも辛かった。自分が惨めなことを突きつけられているようで。

 

「ありがとうございます」

 

 だから僕は、逃げ出すように走り出した。

 

 

×××

 今日も学校でも僕と沙耶は一切話さなかった。

 言葉の代わりとでも言うかのように、視線がいつもより多く交わされていたように思う。まだ気にはしてくれているらしい。僕がずっと見ていたせいかもしれないけれど。というか多分そうだ。

 

「なんかすまん…」

 

 僕らの雰囲気を見て、事情を知っている晃は自分が悪いわけでもないのに謝ってきた。

 

「悪いのは晃じゃないよ」

 

 悪いのは全部僕だから、だから頼むから謝らないで。余計に惨めになってしまう。

 

 結局、放課後になるまで一度も沙耶と話すことなく学校が終わってしまった。

 このままじゃだめだとは思っても何もすることができない。

 いったい何が悪かったんだろう?予知を与えた神様か?予知を信じた僕か?それとも……。

 答えのない後悔が僕を蝕んでいく。

 苦しさから逃れられないまま、僕は校舎を後にする。

 まだ四時過ぎだというのに外はもう薄暗い。かじかんだ手をポケットに入れて歩き出した。

 だけどその足はすぐに止まった。

 

「千尋、待って!」

「沙耶…」

 

 校門を出たあたりで、沙耶が遠くから走ってくる。

 後悔とか、不安とかはあったけど、また一緒に並んでいることが何よりも嬉しくて。

 だけどどんな顔を向ければいいのかわからないから、僕は少しぶっきらぼうに言ってしまった。


「どうかした?」

「…」

 

 沙耶からは何も返事は返ってこない。チラチラと、こちらの様子を窺ってくるだけだった。

 この道は街灯がないから太陽が沈んだばかりだというのに辺り一面は真っ暗だった。それでも僕らは道を間違えたりなんかしない。何度も、何度も、一緒に歩いた道だから。

 

「ねえ…」

 

 もう家まで半分を過ぎて、ようやく沙耶は口を開いた。

 消え入りそうなほどに小さな声。僕は黙って続きを待った。

 

「…千尋が、私のことが好きって、本当?」


 少し俯きながら沙耶はそう聞いてきた。

 僕はどう答えればいいんだろう。

 ここで本当のことを言ったとしてもあの予知した未来と同じことになると思う。

 だけど、嘘をついたところでどうなる?

 このままずっと先にも進めず、後ろにも退けず、いつまでも自分の思いを誤魔化し続けたその先にいったい何があると言うんだ。

 それに、この気持ちに嘘をつきたくなかった。

 沙耶にだけは絶対に。

 

 僕は足を止めた。距離が数歩分離れたところで沙耶もそれに気づいて振り返った。

 二人の間に静寂が訪れる。心臓が脈を打つ音だけが鮮明に聞こえていた。

 ほんの僅かな間だったけど、時が止まったようにゆっくりと流れてた。

 僕は覚悟を決めてその静寂を打ち破る。

 

「本当だよ。ずっと、ずっと前から僕は沙耶が好きだ」

 

 十年以上溜め続けたモヤが宙に溶けて消えてゆく。

 これでもう、沙耶との関係は壊れてしまうかもしれない。

 確かに怖いけど、僕はどこか清々しい気持ちだった。

 沙耶の顔は俯いていてよく見えない。

 彼女が何を思っているのか、こんな時になってもわからなかった。

 そんな愚か者にはこんな結末がふさわしいのかもしれない。

 結局、悪かったのは僕自身の弱さなんだと思う。ほんの少しだけでも僕が強ければ、もしかしたら違う未来があったのかもしれない。

 僕は止まったままの沙耶を置いて歩みだした。

 結果をわかってて言ったけど、それを沙耶の口から直接聞きたくないから少しでも離れたかった。

  

 ちょうど沙耶と僕がすれ違った時、僕は手を掴まれて足を止めさせられた。

 

「えっ?」

 

 驚いて沙耶の方を向いた。

 わざわざ僕に無慈悲な答えを返そうというのか。

 逃げ出そうとしたけど、沙耶の小さくて暖かい手を振り払うことはできなかった。

 僕はせめて、と沙耶から目を背けた。

 

 ほんの、ほんの一瞬だけ。

 唇に柔らかい感触が触れた。

 

「私も…」

 

 今度ははっきりと聞こえる、大きな声だった。

 

「私も千尋が好き!ずっと前から千尋が好き!」

 

 潤んだ沙耶の瞳が僕を見つめている。不安気に揺れているけど、その目には確かな思いが灯っている。

 その目を見ればその告白が嘘じゃないことはすぐにわかった。

 

 何もかも間違っていた。

 くだらないイタズラなんかに振り回されて、不確かなものに惑わされて、沙耶のことをちゃんと見ていなかった。

 そうじゃなければ、こんなにはっきりと伝わってくる気持ちを見逃すはずなんてなかっただろうから。

 

「沙耶…」

 

 もう何度呼んだかわからないけど、今の音は今までよりもずっと特別な響きを持っていた。

 

「沙耶!」

 

 華奢な身体を抱きしめる。

 折れてしまいそうなほどに強く、強く。

 

「千尋、痛い」

 

 そうは言っているけど沙耶の顔には優しい笑顔があった。僕がずっと好きな笑顔が。

 抱きしめたまま見つめていると、沙耶は顔を上げた。

 こんなに近くで見つめ合ったことはもしかすると今までで一度もなかったかもしれない。

 

「千尋…」

 

 

 

 辺りに闇が落ち、月明かりが街を仄かに照らす。

 地面に伸びた二筋の影は、ゆっくりと重なった。

 

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