A-2

 バイクなどを引っ張り出したのは、もう8年ぶりにもなるだろうか。


 長い歳月を経て再び跨るの背中は、ひどく大振りなものに感じられた。32歳を迎えた今の私の四肢では持て余してしまいそうなほど大きな鉄の塊だが、跨って感じる喜びと高揚感は、22歳の記憶の中のそれと変わらない懐かしいものだった。自宅から「店舗」までの道すがら、私ははだに感じる心地よい空気の圧と冷たさを存分に楽しんだ。


 あらゆる種類の移動手段というものが完全に「趣味的」なものになったのは、前世紀も末の話だ。私が数ある選択肢の中からこのバイクを選んだのも、その例に漏れず完全に趣味的な理由による。このオールド・タイプな機構が日常にもたらす煩わしさは、当時の私にとって心の底から好ましいものだった。20世紀後半に流行った意匠を半ば戯画化カリカチュアライズしたような黒光りする厳ついフォルムといかにも前時代的な単純で煩雑な操縦方法は、不思議と私の趣味に合致していた。


 『アイデンティティと趣味嗜好は必ずしも重なり合わない』とはよく言ったものだと思う。収入を得てくだんの「買い物」による自己投資に熱中するようになってからは、その愛すべき男性的な造型のために、自らの愛車から自然に距離を置くようになった。お気に入りの愛車を10年近くもガレージで埃を被せたままにしておくのは不本意だったが、私の愛したその厳めしさそのものが、私の憧れる女性性というものを毀損きそんするように思えてならなかったのだ。


 不遇を押し付けてしまった過去の歳月を詫びるようにアクセルをふかすと、我が愛車はそれに応じるかのように低く強く唸りを上げてみせる。小刻みな機械振動を伴って伝わる馬力は、私自身の愛車への後ろめたさや、心に積もった積年の滓を振るい落としてくれるように感じられた。



 

 二か月ぶりに訪れた私を迎えて、馴染みの営業職員は相好を崩した。常のアルカイックスマイルを崩して屈託なく祝福の意を示す表情に、私は一層満足感を強める。


「いらっしゃいませ…今回の当社の、お気に入りいただけたようで、何よりです」

「あら。まだ私は何も言っていないのだけど」

「わかりますとも。仕草や表情がのびやかで、自信に満ちておられるのが私の目にも。とてもお綺麗ですよ」

「ふぅん、今日は随分お上手なのね」


 素っ気ない言葉選びとは裏腹に、こみあがる歓喜の念に思わずはにかんでしまう。自らの憧れを自分自身で体現すること、そして他人に――特に、信頼する誰かから自分が期待する通りの反応を得られることがどれほど深く激しい喜びをもたらすかを、私は今この瞬間まで知らなかった。


「内規の2か月間を過ぎて、センターからの経過観察記録では、今のところ心身に目立った悪影響はありませんが…次の施術に移られますか?大事をとって、もう1か月ほど様子を見られるお客様も多いですが」

「いえ、結構です。心も体も何の問題もないし、何より楽しみで、早く次の段階に移りたくてたまらないの。待ちきれないわ」

「かしこまりました。では、本日さっそく、次回の施術の日取りを決めさせていただきます。すぐご案内いたしますので、少々お待ちください」


 待ちきれない、という言葉は一点の曇りもなく、今の私の心情の総てを端的に表したものにほかならなかった。憧れと絶望的なまでにかけ離れた自分自身を疎んじる日々と、憧れに近づこうとして自分自身の愛するあらゆるものを遠ざけようとした日々が、今日までの私の人生の総てだった。

 これからは過去に見ないふりをして閉じ込めたかった、自分についてのあらゆることを透明な気持ちで受け止められる気がする。10年振りの愛車の乗り心地よりも何よりも、自身の憧れと矛盾なく、ありのままの自分を受け入れられる予感と多幸感が、今日の私の胸のうちを満たしていた。



「ご安心ください。アフターサービスにおいて当社に並ぶものは他にはございません。…末永く、お客様の要望に応え続けて参ります…」

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