B-2
気付けば窓から差し込む光は陽光の暖白色から赤く色を変え、ガレージを茜色に染め上げていた。その鮮やかさに思わず息をつき、私はバイクを弄る作業の手を停める。いつからか私は没頭するあまりに、汗を拭うことすら忘れていたようだ。額に浮かぶ汗は玉のような雫となり、頬を伝って煤がかった油を溶かしながら滑り落ちる。まだ日の高いうちから何度も何度も顔の汗を拭ったために、いまや私の顔は煤と油と汗で見たこともないぐらい
一旦息をついてしまうと、今までそれと感じなかった全身の疲労感が一気に鋭さを取り戻して全身の神経に押し寄せてくる。緩慢な動きで伸びをすると、私の体が想像以上に重さと気怠さに支配されていることが理解できた。今日の作業はここまでにしておいたほうがいいだろう、それにしても明日は筋肉痛だろうか、などとぼんやり考える。
筋肉痛という語を脳裏に思い浮かべた瞬間、はるか遠い記憶が脳髄の深いところから表層へと甦ってくる。あれは高校に入ったばかりだからもう15年以上昔のことだ。流行りのドラマの影響か何かでテニス部に入ったものの、練習のきつさに二週間で音を上げて部活をやめてしまった。思えば、あれ以来筋肉痛になったことはない――正確には、筋肉痛になるような肉体的労苦はあらゆる手管を駆使して避け続けていた。
重い体を引きずって「部活をやめる」と告げたときの父の表情が思い出される。怠け者の娘が自分からスポーツをはじめたいと言い出した喜びからの落差もあってか、その時の父はいつもより渋い表情を浮かべて、言い含めるように私に諭したのを覚えている。
『お前には、堪え性というものがない』
『今はちやほやされて誰かが苦労を肩代わりしてくれているからいいものの、自分で汗をかいて何かをやってみせるということを覚えないと、世の中で通用しないぞ』
32年間、ついぞ父の期待に応えることもなかった私が、誰に言われるでもなくほぼ半日を費やして父の言葉通り汗と埃に塗れていることに可笑しさを感じてしまう。もっとも、現代社会においていくらバイクを弄り回したところでそれは完全に趣味的なものに過ぎないのであって、現在の私の生計にも何ら資すところではないのだけれど。気づくと私は、頬を緩め自然に笑顔を浮かべていた。
そういえば、誰かの歓心を買うため以外の目的で笑ったのはいつぶりだろう。他の誰のためでもなく、私自身が私のためだけに浮かべた笑顔。そう自覚したその時に込み上げてくるこのじんわりと温かい感情を、自負心や自尊心とでも呼ぶのだろうか。
私が新しい趣味――バイク弄りをはじめたのは、いくつかの偶然の巡りあわせによる。かいつまんで話すと、最大の要因は、月に一回だけ行っている私の「生計」の手段がここ最近至極順調だということだ。営業職員の話によると、私から採取したデータを使って彼らの会社が行っているビジネスは、どうやら10年目にしてようやく軌道に乗りつつあるらしい。特に私の提供するデータは、彼らの顧客から好評らしく、
最低限の生活費プラス、時々の美食などちょっとした浪費。過去10年私の欲求をつつがなく満足させてきたそれらのルーティーンを補って余りある金額の使い道に思案していたころ、行きつけの
これまでの32年の人生で『男くささが染みつきそう』というある種の忌避感から、機械弄り・力仕事に類するものを私は忌避してきた。実際のところ、(現代では稀と言える)生身の肉体に一切手を入れていない三十女の細腕にはこのレトロで無骨な動力機構は余りにも大きく持て余すようにも思えたが、同好の士たちの助言や助力を得て何とか格闘していると不思議と愛着のようなものが沸いてくるもので、何より拙いながらに手ずから手を加えた愛車を乗り回していると、「私だって愛嬌ばかりの人間じゃない、なかなかのものじゃないか」という誇らしさが胸の裡から全身に浸み渡っていくのである。
ガレージの隅に置いた端末が、高い電子音を立てる。確認してみると予想通り、いつものバイク仲間からの誘いだった。最近私は、毎月月末の休日を利用して、仲間とのツーリングを楽しんでいる。「作業」の成果を見せ合い、膚に風圧と動力機構の躍動を楽しみ談議に花を咲かせる、そんな時間が何よりの楽しみだった。
こんなに月末が楽しみな日々が、今までの私の人生であっただろうか?
今回の「作業」の成果に、私は内心手ごたえを感じていた。……こう見えて私だってひとかどのバイク乗りなのだ、このぐらい何でもないよ、とでもいう風に集合場所に乗り付けてみようか?空想と明日の計画を楽しみながら、私はガレージの照明を落とした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます