フィンディルの感想に応募した

 本コラムは「フィンディルの感想に作品だそうぜイエーイ!」が趣旨である。えっ知らない? 「フィンディルの感想」でググって! いや御本人が「どんなスタンスで感想を書いているか」を著してらっしゃるのでそちらを読んで!

https://kakuyomu.jp/works/16816700428800304108


 どんなサービスかというと、一万字以内の作品に対して、数倍余もの感想を付けて下さる、というものだ。ちなみに忖度一切なし。ただし斟酌全開。つまりあなたが書きたい方向性に全力で寄り添おうと考察したうえ、その考察に基づいての褒めポイント、指摘点、などをご提示くださる。


 今回自作で依頼し、なんつーか、文字数以上に「やりたいことについて寄り添ってくださった」ことにシビレた。そんな感動をここに書き残しておこうと思う。


 まず、感想をお願いした作品。

https://kakuyomu.jp/works/16816927861163034395

「誰ぞがための戦いか」だ。目下のところ最新作、けど約2万字。つまり文字数オーバー。幸いにもこのタイミングで2万字までオッケーというキャンペーンを展開されていたので、乗らせていただいた。


 結果。自分で見出しきれなかった感情流路の詰まりをご指摘頂けた。これはすっげぇーやべぇーだった。



○誰ぞがための戦いか


 この作品はプーチン、いや、もうちょい一般化しようか、起こす必要がないはずの戦争が起こったことについての批判である。正直、戦争を回避することなんてできないと思う。けど、その中には「やる必要なんてまるでない」ものも多かったんじゃないか。ロシアのウクライナ侵攻しかり、太平洋戦争しかり。同じように五胡十六国で一番やる必要のなかった戦争を考えた。それが慕容永対慕容垂の燕燕戦争だった。だから、慕容永をやっつけるための物語を考えた。馮安に出会えたのは偶然でしかない。

 この作品のテーマは「反戦」と言っている。わかりやすいからこの言葉を使っている。厳密には違う。「誰ぞがための戦いか!」を、叫ばせたかった。本来的にはロシア兵に、作中的には後燕兵と戦わねばならない西燕兵に。そのための道筋を作りたかった。

 この道筋について、適切な言葉を探ったときに出てきたのは「感情流路」だった。


 自分が求めている物語の終着点は何か。挫折、敗北、絶望、死亡の間際にもたらされる巨大感情。すなわち敗北感、喪失感、虚無感、激憤、失望、などなどである。今作に限らず、自分のやりたい物語は、基本的にどうそこに至るまでの説得力、えーと雑な言葉を使うか、カタルシスをもたらしうるか、が全てだ。敗亡におけるクソデカ感情に、どう読者を巻き込むかの道筋。これを「滞りなく読者の脳内に流し込む」。なので、感情「流路」。

 拙作「誰ぞがための戦いか」は、感情流路の構築に失敗している。実はこれは、執筆の段階で確信していた。というのも、作中に「誰ぞがための戦いか!」と主人公に叫ばせたとき、他ならぬ自分が乗れなかったのだ。

 完成作品に対してこんなことをほざくのは、作者として最低だろう。それはわかる。けれど、ここは告白せざるを得ない。だって、そこをどう埋められるのか、その手立てを見出す事ができなかったのだ。

 だから俺は、この作品をフィン感に投げた。そして「なぜ俺が乗れなかったか」のヒントをいただけた。

 さぁ、それはどんなもんだったんでしょうか。



○感情流路阻害点


 全7話構成で、表題セリフの登場が、6話。フィンディルさんによれば、大きく1話、2話、3話、6話に流路阻害が生じていた、とのこと。つまり序盤とクライマックス。一番引っ掛けてはいけないところである。そりゃやばい。


 1話。いきなりの西暦表示、はいいのだが、その後に作者の視点と馮安の視点が錯綜し、観点を見出しづらくなっている。

→冒頭から作品世界にすんなり踏み込めない。


 2話。1話のひりついた雰囲気を受けて展開する戦闘シーンが、端的にお粗末。

→ぐうの音も出ず沈没。正直戦闘シーン、というか具体性のあるシーンは苦手を通り越して嫌いですらあるので、将来的にはそういったシーンのない作品に軸足を移したく思っている。

 のだが、それはいま戦闘シーンを必要とする作品の戦闘シーンがお粗末で良い理由にはならない。ここについては現在の与件が片付き次第早急に鍛錬開始予定。


 3話。話が錯綜し、分かりづらい。

→確かに「史書にあるような、ヤヤコシイ会話を紐解いてもらいたい」みたいな意図でこの章は構築している。のだが、それはこの作品で出すべきものではない。ある程度史実に則り、けれども流路をきっちり開けようと思うのであれば、おっしゃるとおり when は章のはじめに明らかにするべきだし、慕容「忠」は別に慕容暐の息子にしてしまって構わない。後々で「苻丕の扱いを雑にする」ことが避けられない(あそこを史実通りにすると苻丕の臣下の王「永」が出てきてしまい名前被りがしんどい、もちろんこの章で慕容「沖」の甥の慕容「忠」を出さなきゃいけなくなってるのもかなりしんどく思っている)のであれば、ここでもあえて慕容泓という煩雑化因子を出す意味はない。

 分かりづらい会話をやりたきゃ始めっからそういうテーマでやるべき。スムーズに流したいと思っていたくせに、自分から望んで滞らせている。


 6話。「一般的皇帝像」と自身の認識の乖離に気付けておらず、読者理解への対策が全く取れなかった。

→この時代、特に五胡十六国時代において、皇帝というのは「猿山のボス」くらいの意味合いしか帯びないことが多い。つまり敵対勢力が皇帝を名乗るなら、こちらも皇帝を名乗ることで、相手にケンカを売ると示す。慕容垂は慕容暐死亡後に皇帝を名乗ったが、それは「慕容沖が名乗る燕」の否定にほかならない。一方で慕容沖〜慕容永政権が皇帝名乗りを取り下げなかったのは、今度は慕容垂政権の権威を否定することになる。両者はどちらもあくまで「前燕から連続している正当なる国家」が自認である。また両者の戦いに介入する拓跋珪は慕容垂の親族であり、元来の立場で言えば慕容垂政権の同盟国である。しかし今後の勢力伸長に当たり、将来的には排除しあわねばならない未来が確定している。

 ……という内容を、説明なく作中に叩きつけている。このあたりは自分の中で中国史中正統観が「悪い意味で」定着していることを示している。特に拓跋珪の怒気の示し方は中華的名分論を踏まえなければそうすぐに理解できるものでもなく、ますます説明無しでやっていい代物ではない。悪い意味で遊びすぎている、と言える。

 加えて言えば、ここでも3話にあった「史書中にみえる、分かりづらい会話」を決めてしまっている。これはもう悪癖と言っていい。繰り返しとなるが、この手の会話を決めて流路を確保したつもりでいるのは却ってすごい。


 以上から読者は、冒頭より「誰ぞがための戦いか」の言葉に導かれるだけの材料がうまく飲み込めないままたどり着く状態となる。また慕容垂による許しの言葉も作中の流れに乗らず、やや単発なものとなっている。


 フィンディルさんよりは、整頓された流れになりきらずに「ある程度読者に主体的に拾っていってもらうのも、また歴史小説の醍醐味」とのお言葉を頂戴しましたが、自分の目的である確かな流路の確保からすれば失敗である以上、やはりフィンディルさんにも、馮安の叫びが、慕容垂の許しが、一連の流れにきっちり乗り切るものであるよう整えたかった、と悔やまれてなりません。



○もてなし、のこと


 フィン感の中でキーワード化していった言葉「もてなし」。また、この言葉が確立されるまでに、フィンディルさんは入念に「歴史小説」のあり方に対し検証を加えておられました。これらについてはだいたい我が意を得たり、と膝を打つ感じではありましたが、一方で書き手側が甘えていい文言でもないな、と。

 フィンディルさんが仰るように「全然知らない時代」の「ドマイナー人物」(なにせ史書中で合計50文字くらいしか載ってない人物です)を叩き込む以上、わからないなりにわかるようにはせねばならない。そしてこれを最低限の文字数でやる。この最低限を、フィンディルさんには隠し味的に見ていただけました。ありがたいことです。

 そしてこの「もてなし」の分量調整は、当作に限らず、自分のすべての作品にとってマストな命題だな、と実感しました。


 この時代を知っている人も、小説を書くにまではなかなか至らない。自分の立ち位置は、まだまだ先駆者です。このためこの時代を取り上げた、「もてなし」に思い切り振った作品を書けるようにならなければ、と考えています。一方で当作のようなギリギリライン狙い、あるいは3話5話に示したような「晦渋極まりないやり取り」も楽しみたい。ただこれらは、一つの作品の中でやるべきではない。このときに必要なのは、まず作品全体のもてなし分量基準をどこに設定すべきか、が必要になってくるのでしょう。

 今作が語るのは、そこを作品全体で統一しておこう、という意思の欠如でした。だからわかりやすさ/わかりづらさがブレる。時代と人物が分かりづらいを読み手に押し付けるなら、せめて最低限わかりやすさ、筋の追いやすさ、すなわち自分の言葉でいう「流路」、フィンディルさんの仰る「いま少しのもてなし」を確保すべきであった。そう感じます。

 こうして自分の中に、「流路の設け方」についての別視点「読み手のもてなし方」がもたらされた。ここに気付けていなかったことは恥ずかしいですが、なら一歩踏み出せたことを喜びたい。

 自分はその物語に、何を託したいのか? ならばそのときに、いかなる流路を掘削すべきか? そこの見極めがうまくいかないのであれば、どの程度読み手をもてなしたいと思っているのか? と考え直してみる。

 あるいはほかの読み手様と出会えれば、更に「流路」「もてなし」以外の言い回し=別観点は増えていくのでしょう。けどこれらはひとつのテーマに収斂します。「自身の作品を、どんな方に届けたいかについて、バッキバキに考える」……うわー小説教本の一ページ目の話にようやくたどり着いた感があってしにたい。



○フィンディルさんは俺じゃない


 まとめです。この先フィン感を試してみたい、と思う方に向けて申し上げたいのは、これ。

 当たり前の話をします。フィンディルさんは作者様ではありません。ではないからこそ、可能な限り作者様の作品に対する思いを想定しよう、と心がけられます。これは自作に関する感想において「歴史小説とはどのようにあるものか」について、あえて文字数をおおく割いておられることからも明らかです。おそらくここまでのフィン感において歴史小説の到来がなかったため、改めて考察を深く挟む必要があったのでしょう。邪推をすれば、この部分をきっちり確立させなければフィンデルさんにとって納得の行く感想を編むことができないと確信され、結果公開日の延期となったのでしょう。それだけ、フィン感における歴史小説考察は重いものに感じられました。小説サイトで歴史小説をものしている方々は一読されると面白いんではないか、と思います。


 フィン感がフィンディルさんご自身の主観による言葉となることからは、どうしても逃れ切れようがない。そこを深く自覚なさった上で、なお書き手の意図に寄り添うために何ができるか、を考え抜かれる感想の書き手である、と自分は認識しました。読むという自分ごとを、可能な限り作者サイドに近づけようとされ、その上での提案がもたらされます。


 フィンディルさんの感想は、一度コアとなる概念が定まると、そこを軸足とし、角度を変え様々にコアを照らそうとされるよう感じます。この時作者が、そのコア概念をいかに自分ごととして翻訳ができるかで、より自作を客観視し直せるようになるのではないか、と感じました。


 というより、「感情流路」という造語がそもそも「もてなし」の自分語訳です。感想の感想にあたってその辺りのタイムラインを馬鹿素直に書くと訳わからないので真っ先に待ってきましたが。ここでフィンディル語を訳することにより、自作がメリメリ自意識から離れる感覚が生まれました。これまで味わったことのないものであり、驚くとともにありがたい限りでした。


 というわけで、結論。フィンディルの感想に作品だそうぜイエーイ!

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