6

 コガは思わず悲鳴を上げそうになった。壁に爪が食い込み割れる感触があったが、痛みすら感じない。

 信じられない状況。

 しかし、動いてはいけないという"命令"。

 息すら忘れて、心臓以外が金縛りになった。

 ヒメが、見ている。

 恥ずべき男の、象徴を。

 小さな顎を引いて、口をあっと開いて、納屋の奥でフクロウを見つけたみたいにぎょっとして……。

 だがやがて、ヒメは笑った。引きつってはいたが、コガに負けず劣らず顔が火照っていて、どこか不穏に感じられるほどに強い目つきをしていた。

 コガは、それを見下ろしている。

 ヒメは、コガを見上げている。

 男が、女を見下ろしている。

 女は、男を見上げている。

「……今からコガに、教えてあげる」女の赤い唇が、なまめかしく動く。「好きな男の子のために女の子が……どんなこと、できちゃうか」

 ヒメの顔が、唇が、近づいた。

「ちょ、ひ、ヒメ……何を……」

「ぼ、ぼくも初めてだから……うまくできるかわからないけど……」

「あの、ほ、ほんとに……」

 さつと 。

 ヒメの頭が、かつて一度だけ見たことのある蛇のように、前に動いた。

 接触。

 否、

 それよりも、ずっと近くに。

(……っ!!?!!!?)

 噛みちぎられる。

 その恐怖に硬直した体。

「まっ……!!?」

 想像に反して訪れたのは、ぬるりと、温かい感触。

 舌の感触。

 うごめいて、

 ドロリと下半身が全て溶け出し、コガは「あっ……」と声を上げた。

 まるで、そこに花が咲いたような……。

 なんだこれ?

 何が起きている?

 何をされてる?

 なんだ……これ?

 これは、まるで……、

 まるで……、

 まるで?

 だめだ。

 例える言葉などあるものか。

 メルヘンの中にも、こんな話は……。

 血が巡り、視界がグルグルと回転する。火照った体の深奥から聞いたことのないような音が聞こえてくる。思わず腰から砕けそうになったコガの脚を、ヒメの腕が強く抱いて支えていた。

 その肌が、とてもぬくい。

 見下ろせばヒメの瞳。

 金色の髪の間から、彼の顔を見上げている。

 生きている女が、

 むっちりと細い生き物が、

 青い瞳が、何かを乞うようにコガの顔を……。

 全身が縮こまり、なぜかはわからないが、背筋から耳の奥にまで激痛いたみが走った。

 一瞬だけ、耐えようとした体。

 一瞬で無理だと気がついて。

(……あ)

 これは無理だ。

 絶対に無理だ。

 もう、一秒ももつものか。

(そんなの駄目に決まって……)

 与えられた命令を飛び越えて、本能が彼の腕を動かした。

 ヒメの頭を掴み、

 掴んで、

 力を込めて、

 そして……。

 その手は、なぜか、彼の意図とは逆向きに力を入れていた。

「……んっ!?」

 ヒメの喘ぎ。

 顔が隠れ、

 視界が眩み、

 ドクンと体が震えた。

 思考が死に、汗が噴き出す。

 ……決壊。

(あっ……)

 頭から星が飛び散り、未だかつて味わったことのないモノがつま先から頭皮までを一気に駆け巡った。

 硬直。

 律動。

 狂奔。

 そして、弛緩。

 完璧な音楽リズム

 足の指が地面を掴む。

 手の指に力が入る。

 ヒメの髪の濡れた感触。

 水車が回る音。

 遠くで、女たちが笑っている。

 喉奥から這い上がる吐息。

 高まった熱が一気に開放され、

 獣が、吠える。

 月が見える。

 まだ三日月。

 笑っちゃうほどにきれいな星空。

 そして……、

 ………………。

 余韻が森に響くバイオリンのようにどこまでも伸びてゆき、今、自分がどこで何をしているのかすら忘れてしまいそうなほどに脳が揺れていた。

(ここ……どこだっけ?)

 彼は本当に、そう思った。

 心音だけが現実に取り残されている。

(俺って誰だっけな……)

 数瞬の間、宇宙を彷徨ったコガの意識。

 鳥が沢山鳴いている。

 巨人が森を歩いている。

 ガラスの山が見える。

 鉄のストーブがはるか彼方へ飛んでいく。

 そんな幻想がどこまでも……。

 …………。

 ………………………………。

 ……………………、

 ……………………………………………………。

 ごきゅり。

 と、変な音が鳴った。

(……え?)

 呆然と、自然と、コガは見下ろす。

 彼の下に、何者かが座っている。

 にわかには信じがたいほど美しい生き物。

 死人のように固まったコガの腕に頭を抑えつけられたまま、その生き物は目に涙を溜め、もう一度さっきと同じ音を鳴らした。

 流れ出た汗が引き、突然、窓が開いたかのように体が寒くなる。

(は……?)

 余韻が遠のき、夢心地が一瞬で醒め切った。

 だが何が起きているのかはわからない。

 ついこのあいだ、ヒメを尻に敷いてしまった後よりもずっと、わからない。

 慌てて手を離した。

 瞬間、その場に倒れそうになった。

 だがまた、白い腕が彼を支えた。

 思っていたよりも力強くて、

 三度みたび、さっきと同じ音。

 意味するものは自明のはずでも、コガの脳はその現実をまるで認識することができなかった。

 だって、

 だけど……してる。

 確かに、を。

 一体何が起きた? 何が起きている?

 これは、何?

 これは、誰?

 これは……女?

 これが、女?

 やがて女は、コガの体からぬるりと離脱する。震える手で口を抑え、目をきつく閉じて喉を鳴らし……そうしてまた彼を見上げ、ニッコリと微笑み舌を出した。

 赤い舌。

 赤い唇。

 青い瞳。

 紫のマスカラ。

 コガはまだ、見下ろしている。

 男が女を見下ろしている。

 女は、男を見上げている。

 笑っている。

 見たことのない表情。

 勝ち誇っているようにも、媚びているようにも見える、そんな、ありえない微笑を頬に浮かべ……。

 また、獣が吠えた。

 どちらの獣だろうか。

「……ね?」

 聞いたことのないような甘い声で、女は囁いた。

「女の子は……好きな男の子のためなら、なんでもできるんだよ」

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