5
「わぁ! すごい、本当に戦争始まっちゃった」
チビことヒメが妙に楽しそうな声で叫ぶのを聞いて、コガは思わずこぼれそうになった舌打ちをなんとか噛み殺した。
「……誰のせいだよ」それでも一言、そう呟く。
「コガのせいでしょ?」
「そうだよ、俺のせいだよ。だから俺はこれからかぼちゃ組と野いちご組の2つの組に一生追われて生きていかなきゃいけないんだ……」
「だ、大丈夫だって、ぼくがついてるんだから……」窓から外を見ていたチビの目が、一瞬だけ彼を見上げる。「もぉー、ふざけたつもりだったのに」そう言って後頭部をグリグリと胸に擦り付けてきた。フード越しにすら香ってくる甘い香り。努めて無視して、外に視線を走らせる。
看板が立ち並ぶ野いちご組の菓子屋通り、そのネオンの洪水の奥に佇む野いちご組の本家ビルの手前に今、かぼちゃ組の黒い車が10台以上停まっている。ロータリーに飛び出してきたオレンジのシャツと黒スーツの男たちが先まで手当たり次第にマシンガンやグレネードランチャーを撃ち回していたのを、コガとチビはマフィン屋の二階の窓からこっそり見下ろしていた。もちろんコガがそうしたかったわけではなく、チビの意向である。灯台下暗しとはいえ隠れ家とするのはゾッとしない場所だが、実際周囲の建物はもぬけの殻だった。カチコミに来たかぼちゃ組のヤクザたちがドスの利いた罵詈雑言を馬の糞のように撒き散らかしながら野いちご組を探し回っているものの手応えがないらしく、ロータリーの真ん中の島にいる背の高い男にその旨を報告しに戻ってきているのが見て取れる。どうやら野いちご組舎弟頭のガラシが、襲撃を予期してあらかじめ人を引き揚げさせていたらしい。
硝煙の匂いが鼻にキツい。ヒメの香水が下心抜きにありがたい気分だった。
「いちおう、まだ戦争は始まってないっぽいね」文字通り目と鼻の先でひょこひょこと動くチビの頭に触れないよう細心の注意を払いながら、コガはささやく。
「そうなの? 結構いっぱいいるよ?」
「ヤクザが本気がどうかって、人数じゃない。銃じゃ幹部はなかなか殺せないからね。なんの<道具>を持ってくるかが大事なんだ」
「へー、そっか」
「でも、やっぱり相当に喧嘩腰だ。あいつらが立ってるあそこ、野いちご組がクリスマスツリーを飾る場所だよ。よその組が土足で立ち入るなんて……」
チカチカっと、立ち眩むように視界が瞬いた。気のせいかもしれないくらい微かな光の明滅に続いて、ハエの羽音に似た電子音がパチパチと場に響く。
突如、街のネオンが全て光を落とし、原初の夜闇が街を包んだ。
「わ! なになに! 停電!?」チビの声。
「しっ、静かにして!」
「…………はい」
時間はまだ8時前、街の魔法が解けるにはまだまだ時間がある。そう考えたコガは手探りで窓の位置を探し、恐る恐る顔を出した。辺りは距離感すら消し去る漆塗りの闇で、困惑した男たちの声だけが荒れた冬の海のように波打っている。だが上を見上げると、野いちご組本家ビルの窓からは光が消えていないようで、屋上にある白猫のモニュメントが幽霊のように空に浮かんで見える。遠くには日の出を思わせるおぼろげな街の光彩が黒いビルを縁取っていて、どうやら本当にここだけが、0時過ぎの街に姿を変えたようだった。
まさか、<挿絵の怪物たち>?
でも戦争も始まっていないのにそんな危険な……。
「コガぁ……怖いよ」チビの手がコガの手を握る。冷たい感触だった。
「……嘘つき」
「わかる?」
「とにかく静かにして……」
バリッと、布が裂けるみたいな音がした。声の波が一瞬で静まり返る。
「おうおう、行儀の悪い奴らやのう!!」暗闇に、掠れた男の声が響き渡る。「親が親なら子も子やな!! てめえら突然どないつもりや!? あぁ!?」
「てめえ、ガラシだな!」かぼちゃ組の誰かが啖呵を切り返す。「どないつもりはこっちのセリフだボケェ!! 先に喧嘩ふっかけてきたのはそっちだろうが!! 盗んだクルミをとっとと……」
また、布の裂けるような音。
それが何かの鳴き声であることに、コガは今更気がついた。
「んなしょうもないお芝居に付き合わんわ」冷たい声が、幽かに笑う。「大体お前らどういうつもりや? 明日は姫のお茶会やぞ? 馬車出せんくなったらどう落とし前つける気や」
「あぁ!? お茶会!? 一体何言うとんねんお前!!」
「何もクソもあるか!! 頭の悪い男やのう!! 何度でも言うたるわ! 明日、うちのグレーテルが、お前らんとこのシンデレラ妃と白雪姫とラプンツェル様を呼んで、お城でお茶会する言うてんねん!! とっとと確認せんかい!!」
わずかなザワつき。
確認を取り合うような幾らかの囁きの後に、舌打ちが響いた。
「てめえら…………」
「なんや? 言いたいことでもあるんか? 聞いたるぞ、言うてみいや。グレーテルに取りついだろか?」
「…………」
ふーっと、鼻でため息をつくような音がチビから漏れる。「あんなのにも言い返せないのね、男って」コガの手を握ったままそう呟いた。「どう考えてもグレーテルがズルいんじゃん。男の喧嘩は男同士でやらせてあげなきゃダメなのに」
コガは返事に窮した。というよりも、驚いていた。大半の男にとって、女の文化や生活はほとんど未知である。
男同士でやらせてあげなきゃ、ダメ?
ダメとは、なんだろう。姫たちの自由な生活に、そんな概念があるとは思えないが……。
「まあ、ぼくが言えることじゃないか!」チビはそう言って、キャッキャと笑っている。
「とにかく静かに……」
また一声、獣の唸り声が暗い街を掻きむしる。
「……クソが。帰るぞてめえら!!」かぼちゃ組のヤクザの声。
「帰るやと?」ガラシがまた、笑う。「おもろいこと言うやん。散々土足で人のシマ荒らしといて、間が悪かったからお暇します? 卵の殻でも撒いたつもりか? 阿呆どもが、舐めすぎやろ」
「てめぇ……」
ズルリと、闇夜を何かの輪郭が動く。
コガは嫌な予感がした。
「泊まりの宿で狼藉を働くならず者のニワトリ……もし逃げ遅れたなら、その末路は知れているだろうに」
何かが、叫んだ。
魂に穴を穿つような、絶望が音の形をとったような、この世で最も恐ろしい獣の
……いる。
闇の中に、怪物が。
ハッキリとそれが見えた。
黒い獣。
瞳が光っている。
冷たく青い目玉。
舐め回すように男たちを見下ろし、また、同じ声で喉を鳴らした。
総毛立つ。
ネズミの群れに癇癪玉を放りこんだみたいなパニックが、夜の街に火をつけた。
最初は銃声、次に爆弾。
男たちの悲鳴。
火花。
近づいて。
とっさにコガは、チビを抱きかかえて後ろに転がった。狂乱したかぼちゃ組のヤクザの誰かが放ったグレネードが窓際で爆発し、炙るような熱風で更に部屋の奥まで吹き飛ばされる。
「キャー!!」チビの叫び。
体を起こそうとした刹那、全身に、ナイフを突きつけられたような悪寒が噛みついた。
反射的にポーチからハサミを取り出して身構える。
振り返った先、残り火と煙に巻かれた闇の中に、獣がいた。
夜に溶け込む黒い毛並み。身が凍るほどに恐ろしい声をゴロゴロと響かせながら、コガを睨んでいる。
だが……、
コガは一息深呼吸をして、ハサミを下ろした。
人が夜の獣を恐れるのは……。
その正体がわからないからだ。
「猫だ、ただの」コガはささやくようにそう呟いた。「<三男の猫>……そうだろ?」
瓦礫が落ち、鼻の粘膜に張り付いた粉塵が無味に香る。
獣はいつの間にか、小さな一匹の猫に姿を変えていた。後ろ足で頭をかき、ニャーっと尻尾を振って去っていく。
(よかった……合ってた)コガは震える喉から大きく息を吐き出して、ハサミをしまった。街路では未だに半狂乱になったヤクザたちが叫びちらしながら弾を無駄遣いしている。きっと同士討ちで大変な死者が出ていることだろう。
<挿絵の怪物たち>は、挿絵の描かれたカードを通して使役される、おとぎ話の悪い獣たちである。獣は人食いのドラゴンや悪意に満ちた小人だったり、ものによっては街の形すら変えてしまうであろう危険な怪物たちもいるのだが、どうやらこの<三男の猫>は、その正体を知らぬ者たちの恐怖をいたずらに煽るだけの、いわば
ヤクザはメンツを命よりも大事にする生き物だ。土足でシマを荒らしたかぼちゃ組に確実な被害を与えつつ、余計な口実は与えない……今のところ、不埒なヤクザ同士の抗争は野いちご組が一歩上手らしい。
ほんの少し、それに安心している。コガはそんな自分に気がついた。
(何を今更……)
「……うぇっ」体の下で何かが呻き、思考が途切れた。
細くて愛らしい、小鳥のような声。
腰が痛い。
……そういえば彼は今、何に座っている?
尻の下でまたわずかに動いた、その温もりの意味に気がついたコガの喉から溢れた絶叫は、夜の獣に睨まれたどんな男たちよりも甲高いものだった。
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