4

 野いちご組の事務所は、貧しい木こりの子どもたちの物語である『ヘンゼルとグレーテル』の童話にあやかり、質素かつ家庭的であることを重視したデザインとなっている。それは本家のビル内にある舎弟頭の部屋とて例外ではない。煉瓦を積んで作られた暖炉はごく小さく、観葉植物は窓際にサボテンが一つ置かれているだけ。部屋の一角が簡易キッチンとなっているのは野いちご組の姫、グレーテルの趣味であり、床には白猫をデフォルメした可愛らしいマットが敷かれている。対照的に無骨なばかりの応接スペースには地味な緑のソファが2つテーブルを挟んで置かれ、その向こう側にあるこれまた無骨な茶色いデスクが、舎弟頭である五十嵐ガラシのものである。

 現在、この部屋でただ一人椅子に座っている男ガラシは、縁のないメガネの奥の濁った瞳で、愛用のステンレスカップから漂うコーヒーの湯気を見つめている。補佐である"狼狩り"ハセはデスクの前で、兄貴分が次に口を開く瞬間を待っていた。ハセはタバコを吸いたい気分だったが、生憎この部屋は禁煙だった。双子の鉄砲玉ヤマとダマ、そして幾人かの側近たちは皆緊張した面持ちで、背後のドアの脇にじっと控えている。まるで石像のようだとハセは思う。危機に備えているように見えて、威勢よく返事をするくらいの機能しかあるまい。暴力に一番必要なのはリラックス。さも当然のように人の目玉を抉り出す自然な悪意がメルヘンの契約を裏打ちする。双子にもまだまだ教育が足りてないらしい。

「俺はあのガキが気に入ってたんだがなぁ」

 恐らく5度目になるため息を吐いたガラシが、誰に向けるともなくそう呟いた。ノンスモーカーとは思えない掠れた声。ハセは自然と緩んでいた背筋を正した。

「人を痛めつける手段にしか興味がない……そんな……最近じゃ珍しい純粋な若者だと思ってたんだ俺ぁ」ガラシは唸るようにブツブツ言いながらコーヒーを一口すすり、分け目のある黄色い髪を撫でつけた。「それがお前……なんやねんこれ? 火事場泥棒の挙げ句、こんなザルなやり口でウチに罪なすりつけただぁ?」

「痛恨です」ハセは思い返すたび頭に沸き立つ血を落ち着けるように、引きつる口元を片手で無理やり押さえつけた。「ちょっと可愛がってやりゃあつけあがりやがって……」

 つい1時間ほど前、かぼちゃ組の若頭補佐である穂村から、野いちご組にむけて事実上の宣戦布告が届いた。『先日の事務所の襲撃の折に盗んだくるみを即時返却せよ、今晩9時、受け取りに向かう』。かいつまむとそんなところだ。野いちご組にとっては全くもって寝耳に水に近い話だったが、キレ者で知られる野いちごの舎弟頭ガラシはハセと双子を事実確認のためにクラブの護衛から素早く呼び戻し、続いてかぼちゃ組連絡要員との幾らかの確認や裏取りの結果、既に、全ては組に出入りしていた仕立て屋コガの背信行為に端を発すると結論づけていた。メッセンジャーとして生かしておいたはずの向こうの組員(鈴木というらしい)は喉を裂かれて死んでいたというが、ハセも双子も、刃物を<道具>としては使わない。電撃的に行動したハセたちがあの事務所に向かったことを知りうるのは、拷問現場に居合わせた仕立て屋コガ以外ありえないし、何より、先日までコガにあてがっていたアパートの部屋がもぬけの殻である。

「どいつもこいつも雑な仕掛けでケンカ吹っかけてきやがる」ガラシは首をふり、メガネを正す。「だが小賢しい。こっちがかぼちゃ組に気を取られてる間に姿くらますつもりなんだろうなぁ、コガちゃん。全くもって小賢しいよ。素直に人の忠告を聞かない男がどうなるか……メルヘンから何も学んじゃいねえ」

「ともかくは、俺の不始末です」ハセはそう言って左手の小指をくわえ、<怪力男ストロングマン>の魔力を込めて思い切り噛みちぎった。

 歯の裏に血が吹き出し、饐えた風味が腐ったお菓子のように口中に広がる。

 ハセはプッと、指先を床に吐き出した。赤いソーセージのような肉が木目を転がり、絨毯の厚みに阻まれ停止する。

「兄貴!?」慌てて駆け寄ろうとしてきた弟分たちを、ハセは腕で制した。

 必要なのはリラックス。

 暴力はさも当然の如くに。

があるもんで、左で勘弁してください」ハセは言う。「これから戦争でしょう? 全ては俺が撒いた火種です。必ず、ケジメつけますよ」

 血を流すハセを、そして恐らくは彼の背後でビビっている弟分たちを、ガラシは眉尻一つ動かさず黙って見つめ続けていた。

 野いちご組舎弟頭補佐"二面の次兄"ガラシ。

 かつてついばみ事件で組員の半分が死んだ野いちご組を3年で立て直した伝説のヤクザである。

 やがて何かに納得したように、片目を吊り上げ、ガラシは笑う。続けて何か言おうとしたが、不意に口を開いたままハッと目を丸くし、椅子に座る姿勢をゆるりと正した。

 ピトッと、血を流すハセの左手に小さな手が触れる。

 暖かく柔らかな、女の子の手だった。

「ダメだよハセ兄さん、そんな簡単に痛いことしたら」

 小さいはずなのに、一音一音がハッキリと聞き取れる不思議な声音こわね

 見下ろした先にあった奈落よりも澄んだ瞳に、ハセは、自分の魂が吸い込まれるような心地がした。


「グレーテル……」


 なんとか、その名前を喉から紡ぎ出す。

「小指は大事だよ」グレーテルは人形のように表情を動かさず、軽く小首をかしげ、そう呟いた。「指の中では一番可愛いでしょ?」

 いつの間に部屋に入って来ていたのだろう。グレーテルは、いつものように地味で質素なドレスとエプロンを着ていて、細い脚には毛糸の靴下を履いていた。灰色がかった茶色い髪は枝毛が目立ち、化粧もしていない、言うなれば地味な少女である。

 だがそれもまた理想メルヘンの乙女。

 兄弟の契りとして分け合ったパンくずに誓い、野いちご組が全てを投じ守らねばならぬ、愛おしき末妹である。

 グレーテルの小さな手には、先ほどハセが噛み切った小指の指先を握られていた。優しい手つきでハセの左手を導き、断面同士をゆっくりと繋ぎ合わせる。ヌルリと冷たい感触の後に一瞬だけ、身も凍るような痛みが走り、そしてすぅっと何かが体に馴染んで消えていく。

 ハセは恐る恐る指先を持ち上げ、自分の顔に近づけた。繋がっているし、神経も通っている。グレーテルの手についていた小麦粉と砂糖の白い残りカスが、骨ばった男の指に4月の雪のように僅かに居残っているばかりだ。

 何をされたのかはわからない。

 だが少なくとも、指一つでケジメがつくような話ではないのは確かだった。

「ありがとう、グレーテル」ハセは膝をつき、妹の手を握った。「きったねえもん持たせて悪かった。必ず報いるよ」

 グレーテルは軽く肩をすくめ、何事もなかったように澄ました顔でテーブルの上のバスケットを指さした。「タルト焼いたの。みんな食べるでしょ?」と、部屋にいた兄弟たち一人ひとりに視線を送る。

「もちろん! 嬉しいねえ。なんのタルト?」聞いたのは次兄、ガラシ。男相手には決して見せない満面の笑みである。

「洋梨。あぁ、でもお茶がないか。今から淹れるね」

「助かる、ありがとう。俺がコーヒー飲んじゃったからお湯ないよ」

「はーい」

 脇の簡易キッチンでお茶を用意するグレーテルの背中を、ガラシはコーヒーを飲みながらニコニコと見つめていた。だが不意にハセの背後の弟分たちに目を向けたかと思うと、一転、地獄で罪人を煮ている悪魔のような形相で空のカップを投げつけた。

「何ボサッとしとるんじゃ!! さっさと手伝わんかい!!」

「お、押忍! すんません!!」謝りながら、男たちは慌ててグレーテルの脇に駆け寄る。

「えと……手伝うよ、グレーテル」双子の片割れ、ヤマが頭をかく。

「じゃあもっとお湯沸かして。みんないるから、ポットだけじゃ足りない」

「はい……OK」

 グレーテルと組員たちの距離感は、はっきり言って難しい。組員にとってグレーテルの立場はあくまでも妹であり、他の組の男たちが姫と話すような敬語を使うべきではないのだが、かと言って男女の間にある絶対的な壁が埋まるわけもない。ハセも昔は苦労した。

「エラちゃんのところとモメてるの?」お湯をポットに注ぎながらグレーテルは、細い声でそれを聞いた。エラちゃんとはシンデレラの愛称であり、エラちゃんのところとは即ちかぼちゃ組である。一瞬ハセはガラシと目を見合わせたが、すぐにガラシはデスクの後ろの道具棚を開けて中を物色し始めた。対応はハセがやれということらしい。

「そうだ。俺がヘマしちまってな」ハセは床に投げ捨てられたカップを拾いながらそう言った。

「何があったの?」

 ハセはできるだけ簡潔に、グレーテルに説明した。ブヨのこと、裏切った仕立て屋のこと、かぼちゃ組の魂胆など。

 しばし黙って話を聞いていたグレーテルは、蛇口を捻って手を洗い、双子の片割れダマが差し出したハンカチで手を拭いた。腕を組んで壁に背を預け、何かを考え込む。グレーテルは、年の頃は10かそこらの、男の前に姿を見せる女の中では最も幼い部類の容姿だが、振る舞いや言動には幸福を掴むおとぎ話の少女にふさわしい不思議な気品と知性が感じられる。また、彼女はほとんど笑うことがない。長兄であり組長であるヘンゼルがいる空間であれば年なりの屈託のない表情を見せてくれるのだが、それ以外の場所では彼女はどうも、姫というよりも魔女としての器質が前面に顕れるようだった。

 グリム童話の中でも極めて稀な、自らの手で魔女を殺した少女。それがグレーテルである。

「……お茶会でも開こうか?」魔性のグレーテルは、その珠のような瞳でハセを見つめながら、ぽそっと口を開いた。

「お茶会?」

「エラちゃんと白雪ちゃんと、それにラップんも呼んで、お城でお茶会するって言えば、かぼちゃ組もケンカを始めるわけにはいかないでしょ?」

「それ、いい!!」

 突然、舎弟頭ガラシの声が室内に響き渡った。突飛かつ無闇に大きな声だったため、流石のグレーテルも一瞬肩を強張らせたほどである。

 ガラシはデスクに両手をついて、身を乗り出している。

「それは本当にありがたい!! 嗚呼! なんて賢いグレーテル!! きっと兄ちゃんも喜ぶ!!」

「いつがいいかな?」グレーテルは首を傾げる。「早すぎても遅すぎても意味ないでしょ?」

「いや、明日の夜で大丈夫。一日あれば大抵のことは準備できる。うまくやれば戦争もかわせるぜ」

「そう、じゃあ、ちょっと兄さまと一緒に電話してくる」グレーテルはエプロンを脱ぎ、手早く丁寧に折りたたんでソファに置いた。「お茶、あと5分経ったら飲めるから、お菓子は先に食べてて」スカートを軽く持ち上げ、小走りでドアへ。ハセは素早く先回って扉を開いた。靴を履いたグレーテルは駆け出す前に一度だけ振り返って、双子を指さす。「……ちゃんと私の分も残しておいてよ」

「も、もちろん……だよ」双子は目を見合わせ、不自然な笑顔で何度も頷く。やはり石像のようだ。

 グレーテルは素っ気もなくテテテテと事務所の廊下を駆けていった。

 少女がいなくなり、男たちだけのむさ苦しい空間が帰ってくる。

「やっぱ最高だなあ、俺たちの妹」ガラシが満面の笑みで発したその言葉が、最初の声だった。

「で、どうするんです兄貴?」ハセは聞く。

「まずお前は、ここでタルトを食え。それがその指のケジメだ」ガラシは道具棚から取り出したカードを胸ポケットに入れる。「の対応は俺が行く」

「…………」

「不服か? だが元からてめえみたいな口下手にゃ任せられん仕事だ。大人しく洋梨を味わうんだな」

「自分が味音痴だからって」

「なんだこの野郎」

「いえ、なんでもありません」ハセは諦めて、ソファに腰を掛けた。「了解です」パイを一片つかみ、皿の上にのせる。

 ほとんど同時に、ビルの遥か階下で、手榴弾アップルの爆発音が鳴り響いた。立て続けに二発三発と榴弾が炸裂し、パラパラとマシンガンが火を吹く音と共に窓ガラスに一発ヒビが入る。

「いいからお前らも座れ」ハセは拳銃を抜こうとしていた弟分たちを横目に、パイをかじった。「ひとまずはガラシ兄ちゃんが一人でなんとかしてくれるとよ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る