3

 ハンスとは、姫の対

 おとぎ話の登場人物と成った男たち

 雄としての野蛮な魔力をその身に宿した危険メルヘンな存在……



「オヤジ! 本当に戻るんすか?」

 かぼちゃ組ボディガードの野上は、足早にロビーを行く若頭の夜蝉を追いかけながら、吠えるような抗議の声を上げた。

「兄貴だ」夜蝉は規則的に床を鳴らす足を一切止めず、そう正す。

「ですが、俺が組ぃ入れてもらったときには……」

「野上」低い声。機械的で無感情、それゆえにいかなる反論も許さない、統率者の声である。

「……カシラ、俺たちまだここに30分もいませんよ?」それでも野上は食い下がった。「女と遊んだ証明プリクラも撮らずに帰れなんて、正気じゃねえ」

 夜蝉はようやく立ち止まり、野上を振り返った。野上はかぼちゃ組で最も背丈たっぱがある男だったが、それでも夜蝉カシラのサングラスの裏にある無機質な瞳に見据えられると、フクロウを前にした無知な村人たちのように身がすくんだ。

 夜蝉はややあってから、野上の後ろに更に控えていた若衆3人をサングラス越しに見つめた。若衆とは言っても、組長のクラブ遊びにボディガードとして付き添える程度には実力と貢献が認められたエリートたちではある。

「……お前ら、ここに来るのは初めてか?」低い声が、それを問う。

「じ、自分は二度目です!」一番右にいた小柄ながら筋肉質の若衆が一歩前に出て、威勢よく口を開いた。「ですがこいつらは……」

「残りたければ残ればいい」

「いえ……自分もカシラと行きます」

「お前らもか?」後ろの二人にまた視線をやる。

「はい!」

「押忍!」

 声が重なる。

 カシラは何も言わず、ただ、側にいた野上が辛うじてわかる程度の、もしかしたら気のせいかもしれないような小さなため息を鼻から吐き出した。無論、若衆たちの本音を見通せないカシラではない。ヤクザたるもの親には決して逆らうべからずとは、みなわかってはいるのだが……。

「お前ら……」表情は変えないながらも何かを言おうとした夜蝉の言葉を、風が吹くような一筋の声がさえぎった。

「おやおや、本当にお早いお帰りで!」

 鐘のような声だった。

 100年の呪いが解けるような、鮮血のような。

 ブナの木を模して作られたロビーの柱、その影からスルリと、精霊じみた雰囲気の男が現れる。華奢で長身、青紫の髪とファーのついた真っ赤なスーツ、胸ポケットには血のように紅い花を差している。肌は非現実的なほどに青白く、また恐ろしく整った顔の男だったが、その目元は5日は泣き腫らした涙痕のように深く、くらく、黒ずんでいる。

 ヨリンゲル。

 このクラブ『鳥かごの城』を支配するヨリンデのつがいにして、おとぎ話に登場した"男"……。

 すなわち、<ハンス>である。

「こんばんわセミのおじさん。ずいぶん早いね。もう帰っちゃうの?」ヨリンゲルは歌うように軽い声を鳴らしながら、夜蝉の肩に手を置いた。

「すまない。お代の靴はしっかり置いていく」カシラは答える。

「ふーん」鼻を鳴らしたヨリンゲルの目玉が、一瞬だけ、野上たちを流し見た。動物のような、爬虫類のような光に身が竦む。

 <ハンスたち>とは何者なのか、はっきりした答えを野上は知らない。元は普通の男だったことは間違いないが、彼らはどうやってか女たちと同じ<権利>と<魔力>を手に入れ、男という醜く哀れながちょうとしての人生を振り切ったメルヘンの『転生者』である。

 だが、それでも所詮、元は男。

 ハンスたちの<魔>は姫たちの手に宿る可憐なそれとは違い、とにかく野蛮で危険なものである。

 たとえば、嗤う放火魔<そら豆>。

 たとえば、沈黙の死像<フェイスフル・ジョン>。

 仕立て屋棟梁<親指小僧トム・サム>。

 報復の鳥<スズメ>。

 恐ろしき<ハリネズミ>。

 <鉄のハンス>、<剛力ハンス>。

 名前のわからぬ奪い屋の悪魔。

 そしてこの、罪の迷い子<ヨリンゲル>も。

 みな、破滅的な魔力をその身に宿したメルヘンの悪魔たちである。

「隠し事は無しだよ、セミのおじさん」ヨリンゲルは指先で夜蝉のサングラスを下げ、その目を覗き込む。「何か悪巧みでもしてる? それともまたシローのわがままかな?」

「親の命令だ」

「大変だねえ、ヤクザって」クスクスとヨリンゲルは笑う。その容姿はハンスの常として異様なまでに美しく、耽美だ。うまくは言い表すことは難しいが、もはや実体を構成する線が、普通の男たちとは明確に異なっている。塩と汗と墨汁から染み出したような雄臭い臭気が一切なく、しかし女では決してない。

 きっとそれは、男には理解できない、女にとっての理想の男メルヘンなのだろう。

 気がつけば、野上以外のボディガードたちはみな、すでに夜蝉とヨリンゲルの二人から3メートル以上も距離を取っていた。ハンスたちは恐ろしい存在である。刺青スミと薬で力を誤魔化す下男風情が太刀打ちできる相手では決してない。

 しばらくは笑っていたヨリンゲル、しかしその目が不意に、狐のようにキュッと細くなる。

「……野いちご組と戦争するって、ホント?」口元だけは笑ったまま、ヨリンゲルは夜蝉にまた顔を寄せた。

「そうなるだろう」カシラはそう答えた。

「<ヘンゼル>に、勝てるとでも?」

「……俺たちはヤクザだ。親が正気じゃないのなら、子もそうあるしかない」

「そう……」ヨリンゲルは一瞬だけ野上たちの方を一瞥する。「ま、精々、ヨリンデが怖がらないようにはして欲しいね」そう言ってやおら小型のスピーカーを取り出し、スイッチを入れた。少々のノイズの後、バリバリと雷のようなドラムの音が響き渡る。

 突然、月明かりを透き通していた巨大な天窓のガラスが粉々に砕け散った。

 けたたましい叫び声と、不協和音。

 何事かと慌てる野上たちの前に、割れた窓から、巨大な質量を持った蛇のようなものがズルリと飛び込んできた。

 地面が揺れる。

 野上は反射的に拳銃を取り出そうとしたが、巨大な蛇が巻き込んで連れてきた外気の冷たい風圧に吹き飛ばされ、尻もちをつく。

 巨人の腕だった。

 指先が人ほどの大きさがある、尋常ではないほど巨大な灰色の腕。

 歯ぎしりのような巨人の叫びがロビーを満たす。

 恐ろしい光景だった。

「急いでるんだろ?」

 バラバラとガラス片が降り注ぐ中、不思議なくらいハッキリと、ヨリンゲルの声だけがロビーの広い空間に響いていた。

「特別に送ってあげるよ。さあ、手に乗って」

(巨人タクシーか……)

 野上はようやく状況を理解した。

 巨人タクシー、と言うよりもその巨人は、ドラムの音で叩き起こされるハンスのための移動手段だった。数歩で街を横断するほど巨大であるとされながら、どういうわけか普段は誰も見つけることのできない、メルヘンらしい理不尽さに満ちた巨大な化け物である。野上も、時折街をその影が横切るのは何度となく見たことがあったが、実際にその手が客を乗せに現れるのを見るのは初めてだった。だらんと伸びた巨大で骨ばった腕は生気がないが、窓の向こうには空を遮る影があり、オレンジに輝く瞳が黒い闇の中から悪夢のようにギョロギョロとクラブの中を覗き込んでいる。

 巨人は、人を喰う。メルヘンの常識だ。

「感謝する」夜蝉は冷静にそう述べながら、先に手のひらに乗っていたヨリンゲルの後に続いて巨人に足をかけ、そしてようやく、全くの蚊帳の外にされていた野上たちの方へと首を向けた。「……お前らは車で帰れ。この巨人は、危ない」

「お……押忍」

「野上、関口、米田、林」最後に夜蝉は、皆の名前を順に呼んだ。「"組長"とは"王子"だ。俺たちの王子は誰なのか、忘れるな」

「……押忍」

 手のひらが閉じる。

 ワイヤーが巻き取られるようにギュンッと腕が空に吸い込まれ、またガラス片が舞い上がる。現実味などまるでない速さで夜蝉とヨリンゲルは宵口の街に消え、残ったガラスの欠片もまた雪が逆再生で雲に帰っていくように、窓にピタピタとまっていく。そのパズルのような景色を、野上はしばらく呆然と見上げていた。

 組長とは、王子……王子とは即ち、<ハンス>である。完全ではなくとも部分的に、組長にはメルヘンの魔力が宿っている。ヤクザが親に逆らってはいけないのは決して義理や人情のためだけではなく、純粋に、自らの命を守るためなのだ。

 苦々しく歯噛みしていた野上の背後で、不意に「わっ!」と、凍えた空気に馴染まない愛らしい声が上がった。

 ぼんやりと振り返る。

「あ、あれ……全然驚いてくれない。ヨリンゲルなら絶対びっくりしてくれるのに……」

 恥ずかしそうな笑いを頬に浮かべていた姫と、野上はまっすぐ目が合った。

 小麦色の髪をポニーテールに縛った美しき歌姫、ヨリンデ。

 その信じがたいほどまっすぐな可愛らしさに、野上の鼓動は巨人が現れたときの倍の速度でビートを刻み始めた。

「あっ……やや、こ、こここれは申し訳ない!!」慌てて野上は背筋を正す。「じ、自分らいちおうボディガードなもんでして! こう、不意の事態に驚かないよう訓練されていると言いますか……ほら、お前らも立たんかいボケェ!!」

「お、押忍!」

「すんません!」

 二人、なんとか立ち上がる。三人目はまだ腰が抜けている。

「なんか、テンションが怖いわ」ヨリンデ姫は口ではそう言いつつも、朗らかに人懐っこく笑っている。舞台で歌っていたときと違い、今は黒いブラウスとベージュのスカートというラフな服装をしていて、タイツを履いた針金のように細い脚がピンと伸びている。靴は見るからに高級品で、首元には紅いネックレスがキラキラと輝いていた。

 奇跡。

 そうとしか形容できないほどに、女というのは美しい。

「もう帰っちゃうんでしょ?」ヨリンデは野上の顔を見上げながら、腕を組む。「だったら急いでプリクラ撮らないと」

「……え?」思わず、野上は聞き返してしまった。

「あ、でも、こういうのって私とで大丈夫なのかしら? 贔屓ひいきの女の子じゃないとダメとか……」

「いやいやそんなこと全くありません!! なんとありがたい!!」野上は吠えた。プリクラもお土産も<魔法の道具>も、全ては姫の気まぐれだけで男に与えられる。初めて"相席"を許されたクラブで貰ったプリクラを、未だ酔う度に舎弟に見せびらかしている野上である。

「良かった!」一瞬だけ不安げな色を見せたヨリンデ姫の表情が、またパッと明るくなった。「じゃあヨリンゲル帰って来る前に撮っちゃいましょ。彼、すーぐ嫉妬するの」

「押忍!!」

「そのオスッ! っていうのが怖いんだよなぁ……」

 テテっとあまりにも可愛らしく小走りをするヨリンデの背を追おうとした野上の腕を、控えめに掴む腕。先まで腰を抜かしていた、この中で一番若い米田である。

「……なんだ? どうした?」

「兄貴、いいんすか? 急いで事務所戻らなくて……」

 その米田に無言で蹴りを入れた上で、野上はヨリンデの殺人的なうなじを追いかけた。

 親や兄貴の命令は確かに大切だ。

 だがそれでも、なんのために自分が生きているかを忘れてはいけない。

 男の人生とは、女と一秒でも長く過ごすためにあるのである。

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