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 蛙が跳ね上げた不潔な水が顔にかかり、観客席に座っていたコガは口に入った汚水をツバと共に床のコンクリへ吐き出した。金網の向こう、"土俵"を囲う沼がブクブクと泡立ち、緑と茶色の飛沫がただでさえ陰鬱な空間を不潔に濡らしている。

「生の相撲は初めてか?」昨夜から行動を共にしているケージと名乗った男が、口を拭うコガに向かってそう聞いた。

「できればこのまま未体験でありたいね」コガは不機嫌に答える。

「そう言うな。すぐ終わるさ」

「……クソが」

 行司の声が響いた。無駄に間延びした調子のせいでなんと言っているのかはほとんど聞き取れないが、どうやら蛙の名前を呼んでいるらしい。

 やがて沼に赤い色が滲む。

 わずかな静寂。

 ザプゥンと汚水を跳ね上げ、汚物まみれの土俵の上に醜い<蛙>が這い上がってきた。ビチャビチャの体に貧相な腰布一丁だけを身にまとった、3mはあろうかというデブの巨漢である。腐った果肉のような青緑の肌には黒く生傷が目立ち、酒樽が3つは詰められるほど大きな腹には大小様々な腫瘍が巣食っている。巨大な口から覗く乱杭歯には藻に汚れた赤い肉がこびりつき、首と一体化した萎びた野菜のような顔は、奇妙なことに老人にも赤子にも見えた。

 これが<蛙>。

 姫に嫌われた男の末路、おとぎの国の忌まわしき罪人たちである。

 蛙が沼から土俵に上がるや否や噴き上がった不快な匂いに、コガは思わず逆流しかけた胃酸を慌てて飲み下した。糞の塊に麺つゆをぶちまけたかのような熱を伴った激臭に、反面、体は寒気を覚えるほど総毛立つ。丸半日以上何も食べていないのは幸運だった。胃に何か入っていたら間違いなく吐いていただろう。昨夜の下水道から引き続く悪臭地獄に、髪の芯まで硫黄が染み付いたような気分だった。

 またザブザブと飛沫が飛び、土俵の対岸からもう一匹の蛙が這い上がる。こちらの肌はやや浅黒く、体は少し小さかったが腹はより太くたるんでいる。頭皮には陰毛じみた髪がカブの葉のように取り残され、そこと小さく潤んだ瞳だけがわずかに、彼らが元は人間であった事実を物語っていた。

「……醜すぎる」コガはボソリと呟いた。

「そうだ」ケージは鼻で笑ったようだ。「だからこそ、下町の男は蛙の相撲が大好きなのさ」

 ブザーが鳴り、同時に天井から白い霧が降り注ぐ。腐臭を払う清浄の塩が撒かれ、傷まみれの蛙たちがタイヤを引きずるような悲鳴を上げた。激痛にのたうちドシドシと地面を揺らすのを、観客たちは腹を抱えて笑っている。行儀の悪い下町小僧たちが金網に上って蛙たちに塩の塊をぶつけ、その度また地鳴りのような笑いが響く。

 やはり、醜すぎる。

『はっけよぉおおい!!!』

 行司の声。

 痛みに喘ぎながらも蛙たちは、伏せるように低く地に構えた。殺意をみなぎらせ、塩に涙しながらも、土俵で相対する。

 騒がしかった聴衆が徐々に静まり返り、やがて蛙の手が、地に……、

 ついた。

『のこったああ!!!』

 湿気った爆音と共に、蛙が立つ。

 ぶつかり合い。

 地面が揺れ、土俵を囲う沼が波立つ。客席の金網までがブルブルと耳障りな音を立てた。

 小柄な方……と言っても2mは優に超える蛙の張り手がもう一匹の顔を叩き、更に二発三発と太った体を叩き続ける。凄まじい迫力にコガは思わず息を呑んだが、巨大な蛙は怯むことなく相手の腰布を掴み、短い脚をドシドシと鳴らして一気に土俵際まで押し込んだ。

 ブッバァンと嫌な音が響き、大蛙が小蛙を押しながら脱糞した。咆哮と放屁が重なり、観客たちの興奮も混じって、地上で最も汚いハーモニーを奏でている。

 土俵とは、この世の地獄。地上で最も『女』からかけ離れた場所。

 蛙の姿は、女に嫌われる"男らしさ"の結晶と言われている。<蛙の呪い>とは男をより一層男らしく魔法であり、男は男である限り誰しもがその呪わしき姿になりうるのだという。

 男とは不浄な生き物。

 ゆえに蛙は醜く、

 臭く、

 不潔で、

 愚鈍で、

 そして、つよい。

 大蛙に押し切られると思われた小蛙の体毛だらけの脚が、徐々に徐々に膨らんでいく。ミシミシと巨木が倒れるような音と共に大蛙の前のめりの体が徐々に持ち上げられ、腰が砕け、背が反り始める。

 地の底から響くような唸り。

 一瞬だけ、体重任せに逆転した大蛙の体が小蛙に覆い被さり、反転、小蛙が正しくカエルのように土俵を蹴って跳ね上がった。汗と尿と糞とを撒き散らかしながら弧を描き、大蛙を土俵に全力で押し倒す。

 倒れた蛙が地鳴りを生む。

 ひっくり返った蛙は、起き上がれない。

 その後は酷いものだった。

 踏みつけ、叩きつけ、噛みつき目をえぐり、また叩きつける。潰れた腫瘍から黄胆汁が漏れ出し、観客の怒号をかき消すほどに無惨な悲鳴が沼を揺らす。蛙の相撲は殺し合いだ。その土俵に立つ前にすら沼の底の共食いを生き残り、土俵の上で更に勝ち続けた"横綱"だけが人間に戻れる……。

 まさしく、嘘八百メルヘン

 コガは立ち上がった。

「もういいだろう」

「……仕方ないな」

 隣のケージも立ち上がり、コートの襟を立てる。辺りが明るいからだろう、下水道で見たときよりも多少、彼の背は低く見える。無論コガよりはずっと長身であり、体重も90キロ近くはありそうな、いわゆる巨漢の部類なのは間違いない。人相は控えめに言って最悪で、坊主に刈り上げた頭も含め、どう見ても正義の味方には見えない男だった。

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