3

「えらく警戒されちまったもんだな」

 連れ込まれた飯屋の奥の席で、ケージを名乗った男は黄ばんだおしぼりで手を拭いながらため息をついた。

「第一印象が悪かったのはわかるが……あの時はお互い余裕がなかったろう。俺は本気でお前の味方なんだがな」そう語る口元はわざとらしくニヤついているが、見開かれた目の方を笑わせるのを忘れている。「少なくとも、あのチビ姫よりはお前のためを考えてるぜ」

「だから、なんでそれを知ってるかを……」

「おまちどー」若い小僧の声が二人の間に割って入った。「はい、餃子、チャーシュー」

 ガシャンと汚いテーブルに大皿が載せられ、脂ぎった中華料理からムワリとニンニクの香りが持ち上がる。

 コガは、自分の胃袋が溺れた狼よりもうるさく吠えるのを感じた。

「おい、ラーメンは?」ケージがバイトの小僧に聞く。

「おっちゃん、周り見てよ。混んでるのわかるでしょ?」

「そうかい、じゃあ俺らは急がんで結構だ」

親父オヤジに伝えとくよ、聞いちゃいねえだろうけどね」

 そう言って小僧が去っていくのを待ってから、コガは改めてケージを睨んだ。ケージは気にせず餃子を箸でつまみ、口に放り投げる。

「ん? どうした食えよ。奢るぞ」

「…………」

「蛙になるのが心配か? 大丈夫だ、お前は……」

 ビチャンと、飯屋のどこかで風船が割れるような音がした。振り返ると、先まで太った男が座っていたカウンター席に、人の服を着た泥の塊が積まれている。ゲップのように野太い悲鳴を上げながらその泥は崩れ落ち、ジュポジュポと床の排水口へと吸い込まれていった。


 ああ、だから言ったのに

 無駄さ、あそこまで太っちまったら引き返せねえ

 昔はイケメンだったのになあ……


 そんな声がザワザワと薄暗い店内を駆け抜けて、やがて下世話な下ネタや不快な咀嚼音に溶け合い、猫があぶらを舐めとった壺の底のように真っ平らに消えていった。

 太りすぎた男は蛙になる。この街の宿命だ。

「まあ……あんだけ太ってりゃあな」ケージは冷たく言う。「お前は大丈夫だ。そうだろ?」

「……うん」

「蛙が哀れか?」食べ物に手を付けないコガを見て、ケージが目を細める。

「悪趣味だろ」顔をしかめてみせる。「見世物にするくらいならさっさと殺せばいいのに」

「悪趣味か」ケージは鼻で笑った。「仕立て屋からそんな言葉が出るとはな。お前がこれまで皮を剥いできた男どもは哀れじゃないのか?」

「ヤクザなんか知るかよ」

「お前も歪んでるな」ケージはジョッキのビールを一口で半分飲み干す。「まあ……蛙どもっていうのは、あれでも<ハンス>だからな。成りたくはなかったろうが、強いもんは強い。お前なら、殺せるか?」

「は?」

「殺れるか?」

「無理に決まってんじゃん。何その質問」

 ケージは横目でコガの顔を見て、ニヤリと口元を歪ませる。「……それにな、横綱になれば人間に戻れるのは嘘じゃねえぞ。俺は実際に、この目で見た」

「ふーん」

「信じてないか?」

「信じてるよ、あんたと同じくらい」

「口が減らねえガキだなあ。とにかく食えよ」ケージは箸で行儀悪くチャーシューを指す。「お前はむしろ痩せすぎの部類だ。若いうちはいくら食っても太らんさ。何よりお前今……腹減って、仕方ないだろ?」

 幾らか、言い返す言葉が思い浮かんだ。

 だがどう考えても嘘だとバレることも知っていた。

 ヒメと……チビと行動を共にするようにしてから一切控えていた下町の料理。大量の油と濃すぎるくらいの味付けでネットリ塗られた肉と肉と魚と肉と、焦げた玉ねぎが支配する男の飯の匂いにすでに、コガは頭がクラクラと酔っ払っているのを感じていた。そもそもが、空腹だ。耐えれば耐えるほど我慢の限界は近くなる。

 ため息一つ。

 コガは、およそ3ヶ月ぶりの下町餃子にタレとラー油を絡めて口に放り込んだ。

 脳が揺れる。

 パンケーキと果物ばかり食ってきた体に濃すぎる味付けが染み込み、絶望にすら似た陶酔感が腹から髪の毛の先までギュンと駆け上った。抑えていた空腹がよだれとなって口いっぱいに溢れ出し、無意識にジョッキのビールを思い切りあおる。

 死ぬほど冷たい。

(あぁ……くそっ)

 チャーシューに手を伸ばしながら、コガは自分の男としての血を呪った。結局、男の好きな味というのはコレなのだ。普段はスーツでスレンダーに着飾り甘いケーキを嗜んでるヤクザの幹部たちでさえも、月に一度はお忍びで下町に戻って大好きな脂を啜っている。

 ここは下町コケイン、嘘つきの街。

 汚くて最低で色気がなくて、そして懐かしい、男たちの生まれ故郷である。


「まあ、言っちまえば俺とお前は同類だ」

 しばし食い漁ったのち、運ばれてきたラーメンにレンゲを差しながらケージはそう語った。

「どういうこと?」

「俺もお前とは違う姫のわがままで動かされてんだよ」一度ズルズルと音を立てて麺をすすり、口元を拭う。「……命令はこうだ、『バレないようにあのチビ姫の子守をしろ』。無茶苦茶だろ? あのチビ姫は女界隈では問題児で有名なのさ。少しか納得したか?」

 コガは男の淀んだ瞳を睨む。本能的に、何か嘘をついている目だと感じたが、返事を返す前にガチャガチャと騒音が近づいてきた。

「コラ、あっちいけ浮浪者ベアスキン!! 金もねえ男に食わす飯はねえって!」小僧が怒鳴りながらコガの分のラーメンを運んでくる。その後ろに片足を引きずったみすぼらしい風貌の浮浪者が一人、蚊のようにか細い声で何かつぶやきながら張り付いていた。ひどく飢えた顔をしたヒゲまみれの男で、どこで拾ったのだろう、散々に汚れたクリスマスハットでハゲた頭を隠している。

「頼むよ、一口でいいんだ……頼むって」不潔な男は言う。

「だったら稼げよバカジジイ!!」ガチャンと卓に器を置いてから、小僧は浮浪者を蹴飛ばした。「貢ぐ前に飯代くらい計算しろボケェ!!」

 蹴飛ばされたその浮浪者の男はしばしうずくまってすすり泣いていたが、不意にコガの顔を見て、縋るように足元に這い寄ってきた。

「なあ頼むよあんちゃん……一口、一口だけ……」

 ため息一つ。

 コガは皿に残っていた餃子を一つ箸でつまみ、浮浪者の目に留まるようにしてから、放り投げた。

 男は慌てて両手でキャッチする。

「それ一つだけだ」浮浪者ベアスキンが何か言う前に、コガはハサミの切っ先を髭面に突きつけた。「それ以上欲しがるなら、殺す」

「と、とんでもねえ……ありがとう、ありがとうごぜえますだ……」

 冷めた餃子をまるで姫の名刺かのように大切に持って、男はヨボヨボと退散していった。

「困るぜ、兄さん」小僧が腰に手を当て文句を言う。「あの手のは一度味をしめるとしつこいんだよ」

「うるせえなあ、お前もあっち行け」

 ハサミを軽く振って、小僧も追い払う。ああいう浮浪者は大抵、ヤクザに法外な値で貢物をふっかけられて身を持ち崩した宿無しだ。少女劇場の端っこの一番みすぼらしい立ち見席のために寝食を失った、哀れなガチョウである。

 嫌なことを思い出しそうになったコガは、目の前のラーメンに箸を突っ込んだ。

「意外に親切だな」がっつくコガに向けて、ケージはそう言った。「だんだんお前のことがわかってきたぜ」

「……言ってみろよ」

「言ったら怒るぞ?」

「いいから」

「……てめえはただの、ファザコンだ」

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