8

 野いちご組若頭補佐ハセはバットにこびりついた血糊と髪の毛を、裏路地の色の剥げたレンガの壁にズルリと擦り付けた。生ゴミがはみ出したダストボックスと電球の切れかけたランタン、そしてその光を濁す幽霊のように青白い霧。いかにメルヘンシティ最大級の目抜き通り<お菓子の国>とは言え、一歩でも裏路地へと入り込んでしまえばそこは男たちの生まれた下町コケインとさして変わらない、サビと湿気が支配する不潔な男街である。遠くから香ってくるクリームとスイーツの蒸した香りだけが、ここが野いちご組のシマである証。

 どこかで破裂した水道管から漏れた水が、地面を黒いインクのように艷やかに濡らしている。おろしたての靴が汚れてしまった。それに気がついたハセは、目の前に転がる死体の顔を更に一度踵でなじって舌打ちをした。もうじきに0時である。ケータイを取り出し兄貴ガラシにコールを入れた。

 いつものように、1度の呼び出しでガラシに通じる。

ったか?」それが向こうの第一声。

「逃げられました」ハセは答えた。

「……あ?」

「先に答えますが、サボってませんし舐めてません。は尽くしました」

 沈黙。

「さっき、グレーテルが作ってくれた菓子はなんだ?」5秒ほど経ってから、ガラシがハセにそれを聞いた。

「洋梨のタルトです」

「なんのお茶を飲んだ?」

「味音痴の兄貴にエルダーの香りがわかるんすか?」

「合格だクソ野郎」ハッと、電話の向こうでガラシは笑う。「わかった、一度帰って来い。どうやらこれは厄介だ。地下に竜がいるかもしれん」

「うっす」

 通話が切れる。ハセはポケットからぶどう味の飴を取り出し、顎が砕かれ歯が頬から突き出ている哀れな浮浪者の口の中に突っ込んだ。生え放題のヒゲの感触が気色悪かったが、せめてもの手向たむけである。きっと、人生で一度たりとも女と会話できないままハゲて老いて機を失った負け犬の一匹だろう。ハセの持つバットは命じる限り獲物を執念深くどこまでも追いかけるが、おとぎ話由来のアイテムの常として、魔法には簡単に騙される。この浮浪者にバットの対象が擦り付けられていたということはつまり、何か魔法が使われた可能性が高いということ。

 なぜ、仕立て屋の小僧風情がそんな魔法を持っている?

 コガが盗んだというクルミがあれば、それくらいの魔法を買うのは当然不可能ではない。だが、仕立て屋がそんなを持っていること、これだけ早くそれを用意できていること、バットを撒けるほどに使いこなせていること……コガを衝動的な単独犯と仮定する限り、全てが腑に落ちない。そして単独犯ではないとすれば、相手は。それこそ、ハセに化けて成り代われるような厄介者ハンスが出てくるかもわからないのだ。

 コガが単独犯でないのなら、協力者は何者か?

 最も可能性が高いのはコガがかぼちゃ組とグルであり、そもそもクルミ強奪事件自体が老犬と狼の品のないマッチポンプだったというものだろうが……。

「あの仕立て屋が連れてた舎弟キツネ、あれ、女みたいな声してたじゃねえですか」

 ハセは、双子のダマが車で言っていた戯言を思い出す。

 まさか、ではある。

 ほとんどありえる話ではない。

 だがもしそうだとすれば……。

「それでも、殺すがな」ハセはバットを高く構え、死んだ浮浪者の顔を、念押しに思い切り叩き潰した。

 

 とても臭い。雨がアスファルトを溶かす匂いと尿が混じったような嫌な臭気が闇に溶け込んで充満している。コガは悪臭に灼けた鼻をおさえながら、洞穴のように暗い下水道を進んでいた。天井から滴る水が時々首筋で跳ねて不愉快だったが、実際贅沢は言えない。何もかも吸い込んでいく井戸の底のような闇の中、コガが頼りにできるのは、前を歩く男が持つ、電池が切れかけた懐中電灯の光だけだった。

 どこか遠くで巨大なシェイカーを振るような耳障りな音が泡立っている。

「溺れた狼の唸り声だ」

 男が口を開いた。低く深い声。明らかに若くはない。暗くて容姿はほとんど見えないが、シルエットはそれなりに筋肉質に見える。

「白塗りの手で母を騙り、腹に石を詰められた罪深い狼……0時が迫ると唸りだし、毎晩朝までに溺れ死ぬのを繰り返している。知っていたか?」

「知ってるよ」コガは答えた。「聞いたのも初めてじゃない」

「前に聞いたのはいつだ?」

「……答える義理、あるの?」

 名も知らぬ男が足を止めて振り返る。懐中電灯が投げかけた泡のような光の波紋が目に焼き付き、コガは本能的に顔を覆った。

「助けてやったのじゃ足りないか?」男は愉快にも苛ついているようにも聞こえる調子で鼻を鳴らした。「お前一人じゃあのバットを撒くのは苦労したろう」

「ありがとう、おまけにこんな臭い道まで紹介してくれて。おかげで服を買い替える決心がつきそうだよ」

「生意気な小僧だ」男は探るようにコガの体を上下に照らした。「痩せてるが、見た目より喧嘩慣れしてるな」

「試す?」コガは左手に構えたままのハサミをかざしてみせた。男社会は舐められたら終わりである。弱みを見せないのはヤクザに支配されたこの街を生き抜くのに必要な最低限の作法と言っていい。

「……お前、仕立て屋か」男は言う。「何か心に闇を抱えてるな。どうしてそんな職を選んだ? そのツラなら、ヤクザで成り上がるのにも苦労はなかったろう」

「あんたの知ったことかよ」

「本当に生意気だ」光の奥の闇の中で、男が笑う。「その態度をあのチビ姫にも取れたなら、こんな面倒な事態にもならなかったろうに」

 ヒメ。

 そのワードが出た瞬間にコガは、右のハサミも抜いて駆け出していた。

 水が跳ねる。

 男の背にハサミの先端を突きつけた……そう思った瞬間、懐中電灯の光がまっすぐ目に飛び込んできて目が眩む。

 金属が触れ合う甲高い音。

 凄まじい力と共にハサミを弾かれ、コガは反射的に飛び退いた。膝が冷たい水に浸かり一瞬だけ身震いがする。なんとかハサミを手放さずに済んだがその分指先が痺れ、軋んだ骨がズキズキと痛みを発した。

(武器を持っているようには見えなかったけど……)

 反響した音が、闇の底を滑るようにまっすぐ落ちていく。

「落ち着けよ、仕立て屋」男は光をコガに向けたまま左手をかざす。やはり武器はない。「俺もこんな臭え場所で喧嘩するのはゴメンだ」

「ふざけるな」片手で光を防ぎながら、コガは言う。「だけは、誰にも教えてない」

「だからこそ、俺は味方だと信じてもいいんじゃないか?」

「…………」

「まあ、無理だろうな」男の声が冷たく響く。「……一つ訊かせろ。お前はなぜ、あんな女の言うことを聞いている? あの女が好きか?」

「……は?」

「俺は、ああいう女が大嫌いだ」

 男が言い放った言葉に、コガは戦慄した。

 女が、嫌い。

 おおよそ正気の言葉ではない。

「甘やかされてきた女ほど厄介な生き物はいない」名も知れぬ男は続ける。「傲慢ゆえに気安く、強欲ゆえに積極的。自分が美味い汁をすする立場なのを当然だと思っている。ツラがいいだけに不愉快だろう? あんな女に付き纏われているお前には心底同情するよ」

「あんた……」吐き気を感じながら、コガはゆっくりと立ち上がる。「自分が何を言ってるかわかって……」

「お前は、嫌いじゃないのか?」

 蛇のような囁き。

 ゾワリと、喉の奥にこみ上げるものがあった。

「嫌いなわけがないだろう」口に出してから、しまったと思った。動揺で声が震えている。不快な匂いを我慢しながら、鼻で一度深呼吸。

「本当に、そうか?」

「当たり前だ」

「……哀れだな」男は不潔な闇の中からコガを見下ろしている。「この街はひどく滑稽だ。ヤクザを名乗る軍閥が、どうせ抱けもしねえ女のためにお菓子だドレスだと血眼になり、月も沈まぬ浅い夜をのたうち回っている。おとぎ話を通り越してほら話のようだ。反吐が出る」

「あんた……誰なの?」

 コガは聞いた。

 また遠くで、罪深い狼が吠える。

「俺は、刑事ケージだ」男は答えた。「この街で最後の……正義の味方さ」

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