7
「……それで、尻尾巻いて逃げ帰らされたってこと?」
かぼちゃ組組長、姫のような顔の王子シローが平坦な声で呟きながら脱いだコートを、若頭補佐の穂村は慎重に受け取って部下に流した。クラブからの帰りがけに第一次カチコミ部隊の敗戦報告を聞いたシローは、口元はまだ笑っているもののすでに目付きは鋭い。柄に金細工で雄鶏の意匠が施されたステッキが、持ち主の短気な心根を包み隠すことなく床をチッチと鳴らしている。
「はい」穂村が答えるより先に、若頭の夜蝉が報告を継いだ。「うちからは7人ほど死者が出ました。井上、野上、月本、軽沢、柳、石井、鶴……。皆、同士討ちです」
「……猫? ふくろう?」
「<三男の猫>かと」
「あぁ、そう」シローは偽りの笑みを顔に貼り付けたまま、デスクの上に直接腰を下ろした。
時間は夜の9時。相当に深い時間である。赤い絨毯と金銀の飾り時計で豪奢に彩られたかぼちゃ組のオフィスには現在、側近とボディガード含め10人近い
シローは懐から白い手で黒いタバコを取り出し、ライターで火をつける。気だるそうに煙を吐き出し、ハッと鼻で笑ってみせた。「猫ね……それで言い訳してるつもりなのね。野いちご組も、お前らも」
「申し訳ありません」
「で、お茶会があるから追加の部隊も送れませんと。なんとまあ都合の良い話でしょう。『ところで明日はお茶会で、男たちは喧嘩をするわけにはいかないのです』って? ところでシュガー、ところでシロップ、ところでハニー……どうもこうも、女の口ってのは寝ても覚めても虫がたかるほど甘ったるい」
タバコをくわえたまま、ステッキを取り、シローは立ち上がる。コツコツと杖を鳴らしながら、ソファの前に立った。
「お前もそう思うだろ?」
組長のその呼びかけに、クッションを抱えて座っていた金髪の姫は体を縮こまらせたまま、おずおずと頭を上げた。
「わ、私?」
「他に僕の前に誰がいるの? シンデレラ」シローは眉一つ動かさず、姫の顔を見下ろした。
薄幸の乙女、シンデレラ。
おとぎの姫として約束された神秘の美貌を誇りながら、ドレスを着ていなければ誰一人"彼女こそ"と気がつかぬほどに地味な色彩に隠れる、灰かぶりの姫君である。
シンデレラは唇をぎゅっと噛み締め、上目遣いにシローの顔色を伺う。眉のラインで切りそろえられた上品なセミロングのボブヘア、その下の青い瞳がいかにも自信なさげに彷徨って、結局はまた緑のクッションを抱える自分の手に落ちた。
「あの……」シンデレラはボソボソと口を開く。「ごめんなさい」
「ごめん? 何に?」
「ええと……」
「何に謝ってるかわからないのに謝るの? それは謝らないよりもよっぽど失礼じゃない?」タバコを指で挟む。
「ごめんなさい……」
「ねえ、明日は急にお茶会だってさ。これってどういう意味だと思う?」
「それは……」シンデレラは驚くほどに華奢な肩を更に縮こまらせ、不安げに唇を噛む。「ええと、グレーテルが……」
「うん」
「ヘンゼルのために、お茶会を開いて喧嘩させないようにって……」
「そう」シローのステッキが、シンデレラの抱えるクッションに突きつけられた。「そうだよ、グレーテルだよ。グレーテルがヘンゼルのためにこれを考えて、グレーテルが僕の邪魔をしてるんだ。僕は野いちご組が羨ましいよ。あんな賢い姫がいたらどれだけシノギが楽なことでしょう」
「ほんとに、ごめんなさ……」
「うるさいよ」
コツっと、ステッキがシンデレラの頭の上に振り下ろされた。
無論それは、盲人が慣れた手付きで床を探るような程度の力ではあったけれど、
男同士なら戯れで済むようなハラスメントでも、
男から女に向けられた行為としては、正気の沙汰ではなかった。
「いっ……!?」シンデレラはソファの上で、クッションを盾に縮こまる。
「終わってから謝ったって意味ないでしょ」顔色を変える気配もなくシローは、バシバシとステッキでシンデレラを叩き続ける。「シンデレラ、かわいいだけの僕の恋人シンデレラ。君はいったいなんならできるの? グレーテルは魔女を殺した。ラプンツェルは自分の髪で王子を塔に引き上げ、
「ごめ……ごめんなさ……」
「ドレスも靴も、いつも鳥が持ってくる。豆を選り分けることもできないくせに、舞踏会に行くのだけは我慢できない。それでいざ迫られれば、逃げ足だけは早いんだ。ねえ、どうして? 意味わかんない。お前が逃げなきゃ誰も靴なんか頼りに国中を探す必要なんかなかったし、誰も踵を切り落とさずに済んでるし、僕だって……」
「お、親分……っ!」
絞り出された制止の声に、シローがシンデレラを打つ手が止まった。
鉛が撃ち出された後のような静けさ。
小人が作った黒い壁掛け時計がチクタクと時を刻んでいる。
「……誰? 何?」振り返ったシローは目を細め、おとぎ話で小鳥がそうするように首を傾げた。「お前らどうしたの? 揃いも揃って間抜けのハンスみたいなアホヅラで」
シローと夜蝉以外の部屋にいた男たちはみな、壁に張り付けられた絵画のように怖気づいて身を強張らせていた。
「……自分です」バレないように息を整えてから、穂村は一歩前に進み出た。「オヤジ、それ以上は……」
「それ以上?」プッと、シローは吹き出す。「それ以上って何? お前ら本当に知ってるわけ? これ以上を?」タバコをテーブルの灰皿に押し付けた。空いた手でテーブルに載っていたハニークッキーをつまみ上げ、穂村へ歩み寄る。「童貞どもが、おとぎも
「押忍……すんません」穂村は7年前から童貞ではなかったが、素直に頭を下げた。
「何? 僕、シンデレラが嫌がることしてると思われてるわけ?」小さな口でクッキーをかじりながら、シローは吐き捨てる。「いやだね、モテない男はこれだから。どうなのお前ら? 怖いの? ん?」怖気づいた組員たちを見回しながら自明のことを問うた。
当然、答えはない。
「呪われて蛙にされるのは、女に嫌われた男だけだ」シローは言う。「僕はね……モテるんだよ。優しくしてなきゃ女に相手してもらえないお前らとは格が違うくらいにね」グシャッとクッキーの残りを潰し、床に落とした。「拾え」
「……押忍」穂村はゆっくりと深呼吸をしながら、屈んでクッキーを拾い、頭を組長へと差し出した。
電光石火にシローのステッキが、視界の端を掠める。
覚悟していた痛みは訪れず、代わりに背後で鈍い音がした。
男の叫び、シンデレラの悲鳴。
穂村の後ろにいたボディガード……先ほど、実際に声を上げてしまった冴木という男が倒れ、赤黒い血の飛沫が壁とドアに小さく模様を作った。
「冴木!!」兄弟たちが慌てて失神した男を助け起こす。
「あらら……ちょっと強すぎたかしら」シローはステッキをハンカチで拭きながら、するりとソファに座る。眼の前の光景に怯えていたシンデレラによりかかるように抱きついた。「お前らもう帰れ。僕は眠いから寝る……蝉だけ、少し残れ」
「了解です」若頭の夜蝉は冷静に頷きながら、手で背後の部下たちに合図を送った。「お前ら、急いで連れてけ」
「お、押忍!! すんません!!」
乱暴にドアが開かれ、倒れた冴木が二人がかりで運ばれていく。それに続いて次々と舎弟たちも退出していく中、穂村は最後に一度だけ、兄貴分である若頭、夜蝉のオニキスのように澄んだ目を見つめた。
感情はない。
いついかなる時も、夜蝉は
「任せろ」
低い声。
「……押忍」穂村は信じて、部屋をあとにした。
「クソ、誰かハンカチねえか!?」
「靴脱がしてやれ!」
「意味あんのかそれ!?」
「いいから!!」
倒れた冴木を介抱する男たちの怒号。組長の執務室からは離れたラウンジのソファに冴木は寝かされている。穂村は一人がけの椅子の上で、右腕にはめた青と黄色のミサンガを無意識に指先でいじりまわしていた。女にこのプレゼント一つ貰うために、捧げた時間と金のことを彼は思い出す。穂村は、決してルックスに恵まれたヤクザではない。放っておくと清潔感からかけ離れた見た目になる彼は、それゆえ、普通の男よりもご褒美を貰うまで長い期間を要した。
「兄貴」
顔を上げる。騒ぎを聞きつけたのだろう。20人ほどのかぼちゃ組の組員たちが、穂村の動向を見守っていた。
「……気に入らないか?」誰にというわけではないが、穂村は聞いた。
「第一陣が、あの結果ですよ」答えたのは
「剣お前、恋人ができたんだってな」
「え?」急な問いに剣は狼狽える。「あ、はい。つい先週……報告が遅れて申し訳ありません」
「いや気にするな。恋人ができるってのはこの街で一番大事なことだ」穂村は剣の肩を叩く。「このゴタゴタが片付きゃすぐに幹部の盃をもらえるだろう。おめでとう、これでお前もようやく男……いや、"人間"だ」
「それは……はい、ありがとうございます」剣は軽く頭を下げる。
穂村は立ち上がり、黒服の舎弟たちを見回した。
「お前らの中で、デートしたことがある奴らは何人だ? 手を上げてみろ」
剣を含め、9人が手を上げた。
「恋人がいるのは?」
5人に減った。剣、矢倉、瀬戸、種木。剣を除き、幹部たちである。剣もすぐに幹部になるだろう。
「セックスは?」
1人。
「シローのオヤジは、これまで20人以上の女と寝てる」穂村は懐からタバコを取り出し、口にくわえる。「ほとんどは、向こうから誘われてだ。どうだお前ら、考えられるか?」
沈黙。
「格が違うっていうのは、そういうことだ」剣の出したライターで火をつけながら、穂村は笑った。「俺たちのオヤジは、全ての姫に守られている……ゆえに誰にも負けはしない。だから、お前らも歯向かうな。決して」
執務室の壁掛け時計が、チクタクと時を刻み続けている。夜蝉は自分の腕時計を確認し、秒針のわずかなズレを合わせた。ここはシンデレラの庇護下にあるかぼちゃ組の総本山。彼女の司る魔法は、<0時まで>というメルヘンシティの原則そのもの。
「僕疲れちゃったよ……シンデレラ」
シンデレラに抱きついていたシローが、小さくささやいた。先までとは打って変わった、砂糖菓子のように甘えた声である。
「ヤクザの組長って大変だよ。こんなチビが舐められないようにするなんて、無理があるって思わない?」
「うん……わかるよ」シンデレラは少し怯えた様子のまま、それでも優しくシローの背中を撫でた。シンデレラは美しい姫である。か弱い仕草の一つ一つが、男の保護欲と嗜虐心を同時にくすぐってやまないほどに。
「ほんと?」くすっと、シローは笑った。シンデレラの白いセーターを背景に、小麦色の髪がふわふわと揺れている。「……で、蝉、実際のところどうなの?」振り返らずに夜蝉を片手で指さした。「こっちから喧嘩ふっかけた挙げ句、しょーもない<怪物>に怯えて同士討ちで撤退なんて、僕らずいぶんと間抜けだけど……これで終わりじゃないよね?」
「はい」夜蝉は答える。「想定通りです」
「……お前を信じるよ、"老いたる蛹"」液体がぬるりと滑るように、シローは、頭をシンデレラの膝に落とした。「夜蝉はいいね。みんなに信じられてる。きっと僕らがヘンゼルを殺しても、野いちごの奴らは最後はお前を頼ってうちに入ってくれるんだろな。ねえセミ、男にモテるってのはどんな気分? 僕には想像もつかないや」
夜蝉は答えなかった。
時計は規則正しく時間を刻む。
しばしその場に佇み、用が済んだことを察した夜蝉は、部屋を後にする。
「シロー?」最後に、恐る恐るといった調子で、シンデレラが呟ぐ声が聞こえた。「一つ、聞いてもいい?」
「なに?」
「どうして……野いちご組とケンカするの?」
「変なこと聞くなあ」
切ないほど優しげに、シローは笑う。
「あそこのチョコタルトが好きって言ったの、シンデレラじゃん」
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