3

 同日、同場所、半刻後の荒れ果てた店内。

 野いちご組の襲撃を受けたかぼちゃ組のその男は、名を鈴木といった。鈴木は痛みに耐えながら、折られた両脚を引きずり、二階の事務所への階段を懸命に這い上がっていた。折れた膝の骨は段差を一段上るたびもう一度折られたかのように痛んだが、いつ本家の者が来るかわからない以上、休む暇などあるわけがない。

 こんなことならば抵抗など一切するべきではなかったと、彼は深く後悔していた。こんなことならそら豆の火種など使わず、大人しくカチコミを受けボコられるべきであったのだ。それだけならば、悪く見積もっても本家からは小指一本分の叱責で許されたはず。

 まさか双子の鉄砲玉だけでなくハセがいるなどとは、思ってもみなかった。

 4代目ヘンゼルが率いる野いちご組、その舎弟頭補佐、"狼狩り"ハセ。組のナンバー3でありながらこんなカチコミに平然と出張ってくるとは、噂通りイカれた男である。姫たちにクラブで貰える名刺には命の"身代わり"の他にも弾丸たま避けの魔力があるが、それ以外の攻撃には加護が働かない。ましてやハセが持つ<袋の中の棍棒>はレプリカではなく、グリムの原典に登場した真正の<おとぎの道具>だ。鈴木程度が持っている三等名刺など防御の数にも入らない。ほとんどが千切れてしまった。

 それだけでもかなり苦しい状況である。

 だが、鈴木にとって本当にマズいのは、この先の事務所にあった。

 浅い呼吸を繰り返し、なんとか荒らされた二階の事務所まで這いずった鈴木は、立ち上がれぬままなんとか首をひねって天井を見上げた。予想通り、そこには生クリームでべっとりと全身を塗られた男の死体ビスケットボーイが首吊りの格好でブラブラと吊るされていた。無論それがどこの誰かなど知らないが、恐らくはかしらが野いちご組に忍び込ませていたブヨだろう。ハセたちは裏切り者を適当な事務所に見せしめとして放り込むために来たのであり、鈴木はたまたま運悪くここにいた、それだけだった。

 つまり野いちごの連中は、彼が隠そうとしたなど知ったことではなかったのである。

 くそ……と、鈴木は心の中で毒づいた。

 もう一度、恨めしい気持ちで吊るされた男の死体を見上げる。普段ならばヨダレが出るほどかぐわしいはずの生クリームの濃厚な香りも、瀕死の体で嗅ぐには具合が悪い。死体の口に詰められたビスケットのクズがパラパラと降り落ちるのを、しばらくぼんやりと眺めていた。

「ねえコガ、このクリームって貴重なんだよね?」

 小夜啼鳥ナイチンゲールのように澄んだ声が、鈴木の切れかけていた意識を現実へと引き戻した。襲撃の際に消す暇のなかったラジオの声かと思ったが、それにしては距離感が近すぎる。

「どうしてそれを敵の組に置いていっちゃうの?」警戒する鈴木をよそに、声は続ける。

「メンツを張ってるんだよ」少年のように若い男の声がそれに答えた。「野いちご組はこんな高級品をこんなことに使えるくらい儲かってますよー、欲しけりゃどうぞー、ってね。だからかぼちゃ組も、意地でもこの生クリームは舐めない。相手に高級品を捨てさせるっていう……まあ、野暮だけど、口で全部説明しちゃうとそんな感じ」

「なんかバカみたいだね。もったいないし」

「そんなもんだよ、男なんて」

 鈴木は痛みに引きつりながらなんとか上半身だけ引っ張り起こして、声の方を覗き見た。倒れたスチールのデスクに、灰色の雨ガッパのような服を着た小男が座っている。マスクのせいで顔はほとんど見えない。

「あ、コガ、なんか来たよ」そいつが鈴木に気づき、目で笑う。子供のように無邪気な声だった。

「死んでなかったんだ。ちょうどいいや」倒れたソファの影から、もう一人の声の主であろう痩身の男が姿を表した。茶色か黒の髪をした、十代か二十歳そこらの若い男である。縦縞のシャツとスラックスという格好を見るに、ヤクザではないらしい。背丈は横の小男よりは頭一つ以上高かったが、鈴木と比べれば逆に頭一つ分低いだろう。

「そいつは俺がやる。チビは、あっちの金庫」その男は言う。

「はーい」

 窓越しに差し込む街頭の照明が、近づいてきた男の顔を白く照らす。端正だが印象には残らない顔。そこにまった大きな黒い瞳が、無感情に鈴木を見下ろしている。

 男は細いナイフを二つ重ねたような、大型のハサミを右手に持っていた。

「お、お前ら誰だ? どこから入った?」鈴木は聞く。だが茶髪の男……恐らくはコガという名前のそいつはまるで彼の声など聞こえない様子でやおらしゃがみ込んだかと思うと、一切迷うことなく彼の左手を掴み、小指をハサミで切り取った。

 絶叫。

 同時に、点けっぱなしになっていたラジオから、聞き慣れたジングルが流れ出す。


『ララララ……おとぎの夜にこんばんわ……賢いエルゼの未来ラジオの時間……ああ、悲しいわ、エルシーは今日も悲しいのよリスナーさん……くすん』


 痛みに暴れる鈴木に対し、男は首に膝を押し付けてのしかかって動きを塞いだ。息が潰れ、痛みがいや増す。明らかに人を痛めつけるのに慣れた人間の動き。声すらほとんど上げられなかった。

「ほら、パス」男は鈴木の指を、奥にいる小男に投げて渡した。「一個ずつ試すよ」

「え、なにこれ、指? うわぁ……」

「七羽のカラスの話を知ってるだろ? 金庫の鍵は大抵指だよ。鍵穴の奥に指紋認証がある。突っ込んでみな」

「へー……駄目だ、開かない」

「次」

 茶髪の男は鈴木の制止の言葉も聞かず、今度は左手から薬指を切り取った。肉と筋繊維が噛みちぎられ、骨が真っ二つになる痛みに胃の中身が逆流し、命乞いの言葉をせき止める。

 男はそのまま左手の指を中指、人差し指と一気に切り落とした。


『きっと悪いことが起きるわ……どうしてもっとみんな気をつけてくれないのかしら。名前が"す"で始まるあなた……ああ、なんてかわいそう……』


「これもだめ、これも違う」間抜けな音楽とともに不幸を告げるラジオの隙間から、小男の高い声が染み出すように響く。「ほんとに指なの?」

「うーん、左じゃないのか。じゃあ……」

「右の薬指だ!!」鈴木は詰まる喉をこらえ、ようやくそれを叫んだ。「というか、切るな!! 切らないでくれ!! 俺が開ける!!」

「え?」やや沈黙があった。「ああ、そうか、それでいいのか」

 キャハハハと、女のように小男が笑った。

 鈴木は、その場に嘔吐した。指から流れ出た血がゲロと混ざり、泥池のように鈍い灰色を作る。

「ぐ……ちくしょう、なんなんだお前ら……聞きもせずいきなり切る奴があるかよ……ああ、指、俺の指が……」

 鈴木は喘ぎながら、解放を待った。

 茶髪の男は鈴木に乗ったまま、しばらく鈴木と金庫の間を視線で往復させていた。どうやら距離を測っているらしい。

 やがて、黒い瞳がじっと鈴木を見下ろし、ため息一つついて、彼の右手を掴んだ。

「は……おい、待て! ふざけ……っ!?」

 チャキっと、肉厚の刃が動く。

 また悲鳴。

「ちく……しょお……」

 赤い血がヌルヌルと腕を這い、恐怖と怒りに震える体が病的な熱にうなされる。男はようやく立ち上がり、鈴木を解放した。急な酸素とショック症状に意識が朦朧とする。

 ややあって、高い声で小男が「開いた!」と叫ぶのが聞こえた。鈴木は吐瀉物の水たまりに肘を付き、なんとか顔を上げる。

 フードの小男が、金庫から<クルミ>と木の杖を一つずつ取り出していた。慣れた手つきでくるくると検分し、その目をもう一人の茶髪の男に向ける。「見て見て、クルミだよ。いっぱいある。<太陽>と<月>と……わぁ、<星>まであるじゃん!」

 クルミ。

 それは、かぼちゃ組のしのぎに使われる、ドレスが登録された手のひらサイズの魔法のクルミである。等級はピンからキリまで様々だが、金庫に入っていたのは<太陽><月><星>の名が冠されたダンスパーティ用の最高級ドレスであり、言うまでもなくこんな場末の事務所にあっていいような品ではない。それらは全て鈴木が組の目を盗んで横領した杖であり、<そら豆>の火種も、その取引で手に入れた高級品だ。

 本家にバレれば間違いなく殺される。

 そしてその秘密に神経過敏になった挙げ句、突然の襲撃に全力で抵抗してしまった結果、鈴木の今はこのザマであった。

「ねえコガ」小男が、杖とクルミを茶髪の男に投げて渡す。「これ、振ってみてよ」

「……ここで?」男の顔に、鈴木の指を切り落とすときには一切見せなかった躊躇いの色が浮かんだ。成り行きに恨み言すら吐けなくなった鈴木を一瞬ちらりと見下ろしてから、また小男に視線を戻す。「それ本気で言ってる?」

「うん」

 男は舌打ちをし、しばらく唸っていたが、やがて諦めたように杖の先にクルミを嵌め、8の字に振った。シャランシャランと鐘のような、魔法の音色が事務所に響く。周りに女がいないときに杖を振ると、ドレスはプレビュー状態で宙に浮かぶ。本来はクルミを割るだけでよいのだが、雰囲気を作るための杖も付属しているのが高級品の証だ。

 鈴木はなんとなく、現状を理解した。どうやらこの侵入者たちが、なんらかの方法で鈴木の秘密を探り当てた窃盗団であり、この場で真贋をあらためるつもりらしい。

 秘密のシノギを横取りされる屈辱に鈴木が震えていたのは、しかし、一瞬のこと。

 その日、その場所で起きたことは全て彼にとっては全くの予想外であり……それはメルヘンの街にふさわしい、貧乏なあばら家に舞い降りたような、奇跡であった。


『ほんの少し、欲が出てしまったのね。女のことなんて諦めて、何もせず家で寝ていればよかったのに……どうして盗みなんて働いたの? ああ、かわいそう、泣かないではいられないわ……』


 男が杖を振ると同時に、先ほどまで小男が立っていた場所が光の渦に包まれる。やがてその中からほっそりと長い素足が覗き、ついで月の刺繍が施された青くて短いドレスが現れた。

「……は?」声が漏れる。

 腰の花飾りと、その上にあるのは、見紛うことなき膨らんだ胸。細い首には金の髪がまとわり、小さな顎と赤い唇は秘密の部屋に飾られた絵画のように美しい。

 宝石すらも恥じらうほどに愛らしい丸い瞳が、長いまつげを動かしてパチクリと瞬きをしている。

 女がいた。

 半年以上ぶりに見る生の女。

 鈴木がまだ人生で5回しか見たことがない、艶やかで美しい、本物の姫だった。

「え? ちょっと、ミニなの? いやーん」その姫は安いエロ本でしか見たことのないようなわざとらしい内股で恥ずかしがってみせたかと思ったが、すぐに上目遣いのうっとりとした表情で、茶髪の男の顔を見つめた。「似合う?」

「うん……キレイだよ」

「かわいいって言って」

「もちろん、かわいいよ」

「やったー!」

 そう言って、彼女は男に駆け寄った。だが不意にハッと思いとどまり、地面に這いつくばっている鈴木を見下ろした。

 樽からあふれるビールのように、湧き立つ感情があった。

 それはコガという優男への焼け付かんばかりの羨望と嫉妬であったり、困惑であったりした。あるいは女の前で、よりにもよってこんな姿を晒している自分への嫌悪や羞恥心であったりもした。

 だが、最も大きかったのは、性欲。

 左手の指を4本、右の薬指を切り取られ、そして両脚を折られた満身創痍の有様であってなお彼の体を統べた感情は、止めることなどできない、女への圧倒的な情念だった。

 鼻息が荒くなり、股座またぐらがいきり立つ。指の痛みが歯ぎしりするほど激しくなったが、興奮が止められない。

 それはこの街の男の宿命。

 メルヘンシティの"表"には、男しか住んでいない。女はみな、街の中央のさらに内側、<おとぎの国インナー・メルヘン>の中で暮らしている。ごく限られた男たちだけが、稼いだ貢物プレゼントの対価にようやく女たちが男を品定めするためのナイトクラブへの切符を得られるのだ。そこでもまだ最初にできるのは劇場を遠くから覗くだけ。話すにはもっと対価が、触れるにはもっと、デートなどさらにもっともっと……。

 その道のりの遠さゆえ、8割以上の男が童貞のまま死ぬ。それでもいつかその日を夢見続け、そのために悪魔ヤクザに魂を売り、契約し、おとぎに殉じて男たちは血を流し続けている。

 いつだって男が物語の終わりに手に入れる、一番の報酬は<姫>なのだ。

 では、その姫を連れているこの男は?

「なぜ……姫がこんなところにいらして……」

 感情の闇鍋の中からようやくその一言を絞り出した鈴木の前に、また茶髪の男が立つ。いつの間に取り出したのか、両手に一本づつ、同じデザインのハサミを持っている。よく見ればそれは刃が両刃になった、危険な<道具>だった。

 チャキ……チャキ……と音が鳴る。

 命を守る名刺はもう残っていない。

 鈴木は急速に、自分の行く末を理解した。

「おい待て……待ってくれ、頼む……」


『姫って残酷よ……地底の城で踊る姫を知ってる? 秘密を守るためなら、姫って誰が何人死のうと気にもしないの……そして、ああ……見るなのタブーはどうしていつも破られるの? かわいそう、かわいそうよ、今夜も涙が止まらないわ……』

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