第8話 体育の授業で足をくじいたらヤれるかもしれない

 二限目と三限目の中休み。

 授業が終わるなり、いきなり担任の先生に僕は呼び出された。


 何も悪いことはしていない。

 少なくとも僕は身に覚えがない。

 なので、なんだろうかと思いつつ廊下へと出ると――冗談なんて間違っても言わない真面目な先生が告げた、その衝撃的な言葉に耳を僕は疑った。


「兄さんが、バスケの授業中にねん挫した!?」


「あぁ、今、保健室で休んでいるところだ。弟のお前には伝えておいた方がいいかと思ってな。なんだったら見舞いに行くか? それなら、次の授業の先生には、俺から伝えておくが?」


「……お願いします!!」


 言うや否や、僕は保健室に向かい駆けだしていた。

 廊下は走るな、そんな当たり前のルールさえ守れないような具合で。


 兄さんが。

 あの兄さんが。

 ねん挫をして怪我をした。


 いくらでも、時間遡行タイムリープでやり直すことができる兄さんが。

 ねん挫をする運命を、回避することのできる兄さんが。

 事故どころか、風邪だって引いたことのない兄さんが。

 風邪を引かないのは単にバカなんじゃないかという兄さんが。


 ねん挫して保健室に運ばれた。

 そんなこと、信じられない――。


「きっと何かある!! 限りなくろくでもなくしょーもない理由が!!」


 そしてそんなしょーもない兄さんの気まぐれに、踊らされて痛い目を見るのはいつも僕だ。生まれてこの方ずっといっしょ。長い付き合いである。兄さんのやることなすことに振り回されてきた僕には、この先のひどい展開が分かった。


 詳細は分からない。

 けど、酷い目にあう。

 それは間違いない。


 僕の焦りが動悸に変わり、息遣いに変わり、そして、駆け足に変わる。

 階段を駆け下りて、職員室の隣にある保健室に駆けこむと、僕は――。


「兄さん!!」


 声を張り上げて、それから保健室の中に兄の姿を探した。


 ベッドは二つ。

 そのうち、使われているのは一つ。


 遠い目をして天井を見つめるその男の顔を――僕は見間違えるはずなかった。足元には氷嚢。服装は僕と同じ苗字が刺繍されたジャージ。


「……新次郎か」


「兄さん!! どうしてなんだ!!」


「……どうして?」


 光のない目で僕を見る兄さん。

 まるでこの世のすべてに絶望した超能力者のような、熱の感じられないその表情はいつもの騒がしい兄さんからは、とても想像つかないものだった。


 そんな兄さんの生気を感じさせない瞳に向かって僕は――。

 僕は――。


「いったい今度は何を企んでいるんだよ!! やめてよ!! ねん挫したって、ヤれないよ!! というか、ねん挫してたら絶対安静だよ!!」


 おそらく兄がヤろうとしていることについて――諦めるよう言った。

 そんな僕の絶叫にも似た訴えに、兄さんの瞳に微かに光が戻った。


 まるで、オマエだけは分かってくれるか――とでも言いたげな、そんな反応に、僕は久しぶりに自分が熱くなっているのを感じた。


 分かるさ。

 兄弟だもの。

 分からない訳ないじゃないか。


 いったいどれだけ、兄さんの痴態を僕が見てきたと思っているんだ。

 想像くらいつくさ。


 僕たちはそんな、薄っぺらい兄弟じゃないだろう。


「ふっ、お前には、隠しても全部お見通しだな、新次郎」


「兄さん!!」


「……そうさ、ヤろうとしたのさ。ねん挫という運命を、時間遡行タイムリープでなかったことにすることは簡単だった。けれど、ヤるためには、今回ばかりは能力を使う訳にはいかなかったんだ」


「兄さん!! けれど、怪我をするようなことだけは!! それだけはやめてよ兄さん!!」


「俺のために泣いてくれるか新次郎」


「当たり前だろう!! だって、どんなにろくでもなくっても!! この話のオチで、僕がひどい目にあったとしても!! どうせしょうもないことで、自業自得色ボケ童貞野郎待ったなしだとしても!! 兄さんは、僕のたった一人の兄さんなんだから!!」


「感動していいのか、傷ついていいのかわからないよ新次郎!! 兄弟に複雑な感情を抱きすぎじゃない!?」


 複雑な感情も抱くよ。

 どれだけ僕に迷惑かけていると思っているんだよ。

 ここまで急いで駆けさせてきておいて、文句の一つも言われないで、済むと思ったら大間違いだよ。


 ようやく本調子――目に光が戻ってきた兄さんに、僕は忌憚なく思いのたけをぶちまけた。

 まぁ、心配したのは本当だし、迷惑に思っているのも本当だ。


 自重してください。

 いい歳なんだから。


 そんなだから、彼女なんて夢のまた夢なんだよ――兄さん。


「んもー、そんな怒ることないじゃないのよ、新次郎くん。ねん挫なんて、その気になったらすぐになかったことにできるの、お前も知っているだろ」


「だったら、なんでのんきに保健室なんかで寝てるのさ!!」


「それはな――」


 兄さんが深く息を吐きだして目を閉じる。

 一呼吸おいて落ち着いた兄さんは、また静かに天井を見た。

 目に光は戻っている。ちゃんと兄さんは現実を見ているようだ。


 そう。

 現実を見据えて、兄さんは言った。


「今日はな、女子が隣でバレーボールをやっていたんだ」


「バレーボールを!?」


「保健委員の娘も、そこに居たんだ」


「もしかして、その保健委員の娘に、保健室まで運んでもらった流れで――ヤれるぜとか、そういうことを考えていたんだね兄さん!!」


 あぁ。


 そう呟いて兄さんは瞼を下した。


 今の今まで、動けなかった。

 その理由はそれだ。


 時間遡行タイムリープして、ねん挫をなかったことにする気力さえも湧いてこなかったのだ。


 つまり――。


「保健委員の娘は、保健室まで運んでくれなかったんだね兄さん!!」


「……あぁ」


「男子の保健委員が運んだのが、ショックだったんだね兄さん!!」


「……あぁ」


「けどそれより、保健委員の娘が――え、私があれ世話しなくちゃいけないの――みたいな表情を向けてきたのがショックだったんだね、兄さん!!」


「……それが保健委員の仕事じゃんかよぉ!! なんでそんな顔するのさ!! 足を挫いてそこからドキドキとか、鉄板のラブコメネタなのに!! ラブコメネタなのにぃ!!」


 自業自得だよ兄さん。

 いつも、キモイことばっかりやってるから、周りもそう見るんだよ。

 黙っていればそこそこ格好いいんだから、もうちょっと自重しようよ。


「とりあえず、早くねん挫を時間遡行タイムリープで治して!!」


「……新次郎。このまま、保健室で寝ていたら、隣で不良カップルがギシアン初めて、あっあっ、しゅごいのぉ、とか、そういう可能性もワンチャン」


「ないから!! はよ治せ!!」


 どんだけ気持ち悪い妄想してるんだよこのアホ兄貴は。

 こっちが胸焼けして寝込んじまいそうだよ。

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