第2話
翌日。普段通り登校して昇降口を潜ったところで、「千尋~」と背後から声をかけられる。振り向くと、大きく欠伸をしながら、眠そうに目を細める紗羅がいた。
「おはよう、紗羅。まだ寝不足?」
「ああ。あの後、家に帰ったはいいんだが、宿題をする前に寝落ちてしまってな。夜中起きた時に、やっていない事実に絶望したよ」
「ちゃんと寝ないからだよ」
「わかってはいるんだがな。やることが多すぎる」
また大きく欠伸をする。慢性的な寝不足である紗羅は、いつもくまをこさえて学校に来ているのだが、今日はいつにもまして酷かった。
「寝たの?」
「3時間ほどな。橋場のやつ、えぐい量の宿題出しやがって」
「紗羅のクラスも今日なんだ。確かに多かったよね」
「千尋のクラスもか。全くだ。少しは私のことも考えてほしい」
ぶつくさと文句を垂れる姿に加え、目を細め凄んでいるため、紗羅の目付きは非常によくない。通り人全員が、触らぬ神になんとやらと言わんばかりに遠ざかっていく。
それを感じた紗羅は、また一段と目を細めて眉根をギュッと寄せた。
「くそ。この目付きのせいで、生徒会長なのに尊敬されない。悔しい」
「ちゃんと寝れば、くまも取れるんじゃないの?」
「うむ。そうだな、その通りだ。よし、今日は早く寝るぞ。そうしよう」
決意に満ちた紗羅に、千尋はほくそ笑む。もう何度聞いたかわからないが、結局改善された試しがないので、今回も恐らくは駄目だろう。何だかんだと、仕事を引き受けてしまうはずので、千尋にはその光景が目に浮かぶようだった。
「何かあったら呼んでね? 用がなかったら手伝うから」
「さすが千尋大明神。ありがたや~」
「こんなところで拝まないでよ」
気恥ずかしさから、拝む手を押し退ける。「すまないすまない」と謝る紗羅だが、顔は笑っていた。
「そういえば千尋。昨日は大丈夫だったか?」
「何が?」
唐突にそう言われ、特に覚えのない千尋は首をかしげた。紗羅はスマホを取り出すと、ある画面を千尋に向けた。
それは、家出? 失踪? 誘拐事件か!? という煽り文句が入ったネット記事だった。
「最近、付近の学校で女生徒がいなくなることが多いらしいんだ。家出なのかなんなのかわからんが、とにかく連絡がつかないらしい」
「それ、昨日赤羽さんとも話した」
「赤羽とか?」
紗羅にとっては以外だったのか、柚香の名前を聞いて驚いて目を見開いていた。
「あの天然KYとお前が知り合いだったとはな」
「同じクラスなんだから、話しぐらいはするよ」
「そう言われればそうなのか。私は隣だからな。しかしまあなんだ。去年同じクラスだったが、聞きしに迫る天然っぷりだったな。あれはお前を越えるかもしれんぞ」
「私ってそんなに天然かな?」
「自覚がないのが一番の問題だな」
紗羅は勝手に納得して頷く。
千尋とはまた違った部類で、赤羽柚香は有名人だ。容姿がいいのも確かにそうなのだが、それを上回る性格が注目を浴びている。
裏表のない言葉で人の言いにくいことや、知られたくないことを普通に喋る。そして本人はなんの罪悪感も持っていない。
以前、そのことで本人に問うたことがあったのだが、本人は「本当のことでしょ? なんで隠すの?」と純粋な目で言ったのだそうだ。
それ以来、彼女は天然の
「まあなんだ。仲がいいなら別にいいんだ。私が口を出すことじゃないしな。それに千尋と赤羽、以外と気が合いそうだしな」
「そうかな?」
ふと昨日のやり取りを思い出したが、千尋にとって別段仲がいいという訳ではなかった。なのでしっくりこないのか、視線を斜め下に向ける。
「たぶん、そんなことないよ。普通だった」
その言葉に、紗羅は深くため息を吐いた。
「まあ、わかってはいたがな」
千尋と友好関係を築くのは前途多難。それを再認識した紗羅は、頭の後ろを掻きつつも千尋の意思を尊重した。なんのことか理解していないのか、はたまたそうでないのか、わかりづらい笑みに紗羅はまた眉根を寄せた。
それから二人は昇降口を潜ったところで別れ、千尋は教室に、紗羅は生徒会室に忘れ物をしたので取りに向かった。
階段を登り、自身の教室に入る。数人の生徒に挨拶を済ませ、窓際の一番後ろの席に向かう。その途中、赤羽の席を横切る形になったので、本を読んでいる彼女に「おはよう」と挨拶しながら自分の席にバックを置く。
「おはよう、千尋ちゃん」
「ちゃんと宿題終わった?」
読む手を止め、柚香は体を半身にして後ろを向く。ピースサインを見せたので、宿題は無事終わったのだろう。
「千尋ちゃんは?」
「終わったよ。赤羽さんと一緒に進めてたから、結構早く終わったんだ」
「私も千尋ちゃんのお陰ですんなり~。やっぱり頼んでよかった~」
「そう? ならよかった」
鞄の中から教材を取り出しながら話す。回りは少しだけ珍しいものを見るように見物しているが、本人たちはなんとも思っていないようだった。
それから他愛もない会話を続け、話題は昨日の行方不明の話しに戻る。
「そういえば、さっき紗羅にも言われたんだ。行方不明者が多いって」
「生徒会長に? やっぱ会長っていうだけあって、そういう話題は知ってるんだ」
妙なところで関心を持った柚香は、「そうみたいだね~」と、先ほど紗羅が見せてくれたサイトを表示して見せてくれる。
「紗羅にも思ったんだけど、どうやってそういうサイト見つけるの?」
「普通にネットサーフィンすれば見つかるよ? もしかして千尋ちゃんってネット苦手な人?」
「苦手ってほどじゃないけど……得意ではないかな」
「千尋ちゃんの以外な弱点見つけたり」
「そんなに何でも出来る人間じゃないんだけどな~」
謙遜する千尋に、「またまた~」茶化す柚香。これ以上言っても信じてもらえないのはわかっているので、微笑みながらも話しを続ける。
「今日もあったの?」
「あったみたいだよ。家の学校で」
「誰?」
「隣のクラスの佐伯さん。一昨日から連絡がとれなくて行方知れず。警察が捜索するも足取り掴めず、事件性大。だって」
サイトの一文を指差しながら、笑みを浮かべる柚香。千尋はその一文を冷めた目で読みながら、「ふ~ん」と少し興味深そうに応えた。
「そういえば、昨日もいなかったもんね」
「みたいだね。私は今日知ったけど、千尋ちゃんは休んでるって知ってたの?」
「古文が同じ教室なの。だからなんとなく覚えてた。行方不明になってるのは知らなかったけど」
どことなく含みのある表情に、柚香はニンマリの広角をつり上げる。
「ちょっと以外かも」
「何が?」
「千尋ちゃんが楽しそうな顔するの」
「楽しそう……?」
「うん。そんな顔してる」
無意識に笑ってたのだろうか? とも思ったが、意識した限りそんなことはなかった。なのでこれは、笑っていたから楽しそうと感じた訳ではないのだろう。
柚香がどういった感覚でそう言ったのかわからないが、少なくとも千尋に理解できなかった。
始業の鐘が鳴る。それと同時に、橋場が「席に着け~」と教室に響く声で注意を促す。次々と生徒が座るので、必然的に千尋と柚香の間には人の壁ができる。
「出席とるぞ~、赤羽」
千尋は息を一つ吐いて、一限の授業で使う古文を取り出す。古文は合同授業なので、隣のクラスの人と同じになる。行方知れずとなった佐伯さんと同じクラスと。
佐伯さんは行方不明。
その言葉に、千尋は少しだけ口角を上げた。誰にもバレないように、こっそりと。
滞りなく授業は進み、昼休みとなった。千尋はいつも通りお弁当を手に、廊下に出る。向かう場所は隣の教室。去年、紗羅と知り合ってからは、昼休みは生徒会室で過ごすことが通例となった。
特別仲のいい友達もいない千尋は、昼食を誰かに誘われる可能性がない。もちろんその原因は虐めによる後遺症なのだが、それがなくとも千尋を昼食に誘う人はいなかったかもしれない。
才人と言うのは時に、近付きづらい雰囲気を漂わせるのだ。特に千尋は他の人間と比べてもフランクとは言いがたいし、一線引いたところにいるみたいで、非常に話しかけづらい。
だから虐めがなかったところで、一人で食べることは必然だったのだろうし、そのことについて千尋自身も気にすることはない。
だからこそ、紗羅はお節介にも千尋を無理矢理連れ出した。寂しそうだったということもあるだろうが、全体的にムカついたからというのが、紗羅の見解だった。「一人で食べてるのが、当たり前と思ってることがイラついた」らしい。
なので千尋は、その行為に甘える形で、毎日紗羅と昼食を取っている。
「すまん。待たせた」
「ううん。別に大丈夫」
紗羅の教室の前で待ち合わせて、二人で生徒会室に向かう。途中、適当な雑談を挟んでいたが、いつの間にか紗羅の愚痴を聞く形となっていた。
「別に今のメンバーが悪い訳じゃない。能力も実力も経験もある。だけどな、本当に扱いづらいんだよ」
「そうだね」
「もう少し会長である私を敬ってもいいと思うんだよな~。今日来てくれるのだって、なんか渋々って感じだったんだぞ? 私は悲しいよ」
「そうだね」
生徒会室の鍵を開けて中に入る。長机の上に弁当を置いて、隣同士にパイプ椅子に座る。
「やはり千尋のように支えてくれる人が必要だと思うんだ。だから」
「入りません」
「ちっ。さすがに流されてはくれないか」
「愚痴から作戦だったの?」
「いや、愚痴は愚痴だよ。実際、本当に渋々だったんだ。今の作戦を思い付いたのはついさっき」
お弁当を広げ、お互い「いただきます」と手を合わせてから食べ始める。
「今朝の話しに戻るんだが」
「ん?」
紗羅はおかずの卵焼きを食べながら、「行方不明の」と話し出す。
「うちのクラスの佐伯さん。一昨日から連絡とれないんだってな。今日担任が言ってた」
「ああ、そうみたいだね。ついにうちの学校にも魔の手が来ちゃった感じかな」
「警察も、さすがに動くみたいだ。なんでもこれで女生徒の行方不明は四人目みたいだからな。誘拐事件として調査している」
「そうなんだ」
「それにともない、最終下校時刻も18時なったから、あまり残るなよ」
「そうなの? 先生が言ってた?」
「ああ。こういう時は、生徒会長でよかったと思うところだな」
生徒会長である紗羅は、先生と生徒の橋渡しの役目を持っているため、業務連絡などはいち早く伝わることのなっている。恐らくこの情報も、帰りのHRで伝わることだろう。
「にしても、犯人はなんで誘拐なぞするのだろうな? 意味がわからん」
ご飯を租借しながら、苛立ちを含んだ声で言う紗羅に、千尋は「そうだね」と同意する。
「人を束縛して、その人の人生を奪って何が楽しいんだ。間違ってる」
「うん。そうだね」
正義感の強い紗羅は、プリプリと怒りながら卵焼きを口に入れた。怒りを込めながら噛む紗羅に、千尋は少し伏せ目がちに「けれど……」と呟いた。
「人は誰しもが普通な訳じゃないんだよ」
「……わかってるよ。それは」
当たり前のようなことでも、それを理解することは難しい。人間同士の価値観の違いを受け入れるのは、例え家族でも不可能なことがあるのだから。
それから二人は、少しの間無言だった。お互いに間違ったことは言っていなくとも、それを自分の中で消化するのには手間がかかる。
紗羅は難しい顔のまま弁当を食べ終え、「ごちそうさま」と手を合わせる。千尋を横目で確認すると、まだ食べていた。
視線に気づいた千尋は紗羅を見ると、キョトンとした顔で首を傾げる。先ほどのやり取りを特に気にしている素振りはなかった。
紗羅はため息をつくと、頭の後ろを掻いた。なんだか気にしているのも馬鹿らしくなって、「なんでもない」と手で仰いで気にするなという仕草をする。
食べ終わった千尋は、そう言えばと昨日もらった500円玉を思い出した。結局ポケットに入れっぱなしで、消化することがなかった。
「紗羅。何か飲む?」
「ん? なんだ奢ってくれるのか?」
「厳密には紗羅からの奢り」
500円玉を見せびらかすと、乾いた笑みをして「まったく」と呆れたようにため息を吐く。
「自分のために使えと言ったのに」
「自分のためだよ。私が喉が渇いたから買いにいくの。紗羅のはついで」
「なら私が買いにいく」
「いいよ、座ってて。コーヒーでいいでしょ?」
「だからお前は……ああもういい、任せる」
説得を諦めた紗羅は、不貞腐れたように机に頬杖をつくと、煙草でも吹かしそうな勢いで息を吐く。千尋はその光景を見てほくそ笑みながら、生徒会室を出た。
自販機は一階にあるため、階段を下りる必要がある。更に生徒会室は自販機から少し遠い場所にあるので、同じ敷地内とはいえ手間であることの変わりはない。
それを考慮しての紗羅の発言だったが、千尋にとってはまったく関係がないことだ。例え頼まれたとしても、千尋ならば問題なく向かっただろう。
頭の中で何を買うか想定しながら、手の中の500円玉で遊ぶ。裏返したり転がしたり、縁を指でなぞったりしながら階段を下りていると、偶然にも上ってくる柚香と遭遇した。
「赤羽さん」
「あっ、千尋ちゃ~ん」
柚香は軽く手を上げる。その手には、ミルクティの缶が握られていた。
「温かいの?」
「うん。やっぱり温かいのに限るよね~。夏場も売ってほしいくらい」
「さすがにそれは……」
冗談ではなく本気で言っているあたり柚香らしいが、夏場の暑い校内で温かい飲み物を欲しがる生徒が、果たして何人いるのだろうか。
「私もミルクティにしよ」
「おっ、お揃いだね~」
柚香の脇を抜けて下りる千尋だったが、隣に柚香が着いてきたので、「どうかした?」と訪ねた。すると「暇だし」と一言返ってきて、着いてくる理由がわかった。
「赤羽さんって、昼休み何してるの?」
ふとした疑問を投げ掛けると、柚香は「んっとね~」とミルクティのプルタブ開けつつ考える。カシュ……、という空気の抜ける音をさせ、立てたプルタブを寝かせて歩きながら飲み始めた。
「本を読んでるかな。他には別に何も」
「そうなんだ。本当に好きだね」
「うん。本読むの好きなんだ~」
ズズズ~と、ミルクティを湯のみに入れたお茶のように飲む柚香。満足そうに「プハァ」と息を吐き出し、ほっこりとした顔をした。その顔に釣られて、千尋も頬が綻んだ。
「本って、ミステリー系?」
「どちらかっていうと、サスペンスかな。ミステリーも好きだけどね」
ご丁寧にジャンルを分けて話す柚香に、「……ミステリーとサスペンスってどう違うの?」、と当たり前の質問をしたら、「似てるけど違うね」と笑われた。
「線引きが難しいからね~。簡単に言うと、シャーロックホームズがミステリーで、デスノートがサスペンスかな」
「……違いがわからないかも」
「犯人がわかってるか、わかってないかで判断していいよ」
そう言われてようやく千尋も納得がいったようで、「あ~」と感嘆の声を漏らした。
「よくわかる」
「でしょ? 千尋ちゃんはどっちが好き?」
「ミステリーかな? 犯人を探す方が好き」
「なんか、らしいね」
「らしい?」
「千尋ちゃんらしい。警察ものとか好きそうだし」
「そう? そんなことないと思うけど……」
自分が何が好きなのか真剣に考え始めたところで、自販機の場所に到着する。
自販機は二台ほどあり、その内の一台に、欠伸をしながら購入ボタンを押す橋場の姿があった。
「橋場先生」
千尋の声に気づき振り向く橋場。ちょうど飲み物を取り口から取り出すところで、千尋たちを見ると「おう」と軽い挨拶を返す。
「お前らも買いに来たのか」
「はい。コーヒーですか?」
手には缶コーヒーが握られている。橋場は銘柄がわかるように千尋たちに見せると、「まあな」と少しはにかんだ。
千尋はその銘柄を見た瞬間、少しだけ目を細めるが、すぐに柔和は笑みを浮かべる。
「そのコーヒー、紗羅も好きなんですよ」
「神宮寺がか? へ~。まあ缶コーヒーにしては悪くないからな」
「私は飲んだことないんですけどね」
千尋は500円玉を橋場と同じ自販機に入れようとする。だがそこで橋場に「ああ待て」と止められた。
「せっかくだ。奢ってやるよ」
「いいんですか?」
「まあ、他のやつらに言わないならな。赤羽は……もう買っちまった自分を恨め」
柚香は頬を膨らまし、子供のようにぶーぶーと文句を垂れる。橋場は笑いつつも、財布から千円札を入れる。
「何飲むんだ?」
「温かいミルクティと、先生が今飲んでるのの、温かいやつで」
「二つ飲むのか?」
「一本は紗羅のです」
橋場は「なるほどな」と呟くと、ミルクティとコーヒーを購入して手渡す。
「結城はコーヒー苦手なのか?」
「別にそうではないですよ? 好んで飲まないだけです」
「そうか」
「私は苦いから嫌いです!」
聞いてもいないのに答える柚香に、橋場は苦笑いする。
「まあ高校生には苦いかもな。ああそうだ、結城」
「はい」
「神宮寺に無理するなって伝言しといてくれ。あいつ、今日死にそうな顔してたから」
「いつもですよ。でもわかりました」
橋場は「それじゃ」と、職員室の方に戻っていく。時おりすれ違う生徒から声をかけられると、親しみ安く挨拶をしているようだった。
二人は姿が見えなくなるまで橋場の背中を眺め、いなくなったところで、柚香がぽつりと「いい人だよね」と呟いた。
「そうだね」
「以外と優しいし」
「うん。そうだね」
柚香は千尋の表情を伺うように下から除き混むと、反射的に千尋は仰け反った。
「何?」
「ううん。なんでもない」
それだけ言うと大きく伸びをして、「先戻るね」と笑顔で手を振り、鼻唄混じりに教室に向かった。
千尋は眉をしかめつつも、手持ちの物をどうにかするべく、まずは生徒会室に戻ることにした。
5限目が終わり、6限目の授業も終了の鐘が迫っていた。
「であるから、ここのxの値は」
最後の授業は、橋場の数学の授業。わかりやすく、比較的ゆっくりと進むこの授業は、生徒間で他の授業に比べても人気のある授業だ。特に女子受けがよく、橋場のルックスも相まって大変好評である。
「とまあこんな感じだ。ここテストに出るからな、よく覚えとけよ」
黒板に書かれた数列と図形をノートに記載していると、丁度よく鐘がなる。
「よし。じゃあ今日はここまで。日直」
「きりーつ」
いったん、全員がノートを書く手を止めて立ち上がる。日直の号令と共に挨拶を済ませると、「そんじゃあ宿題集めるぞ~」と橋場が手元の教材を纏めながら告げた。
「写し終わったやつから出しに来い。別に急がなくていいからな」
は~い。と一部の女生徒から声が上がる。早めに書き終えた人はすぐさまノートを提出しに行ったり、書き終えたのにノートを提出しにいかなかったり。反応は様々であったが、橋場はあまり気に留めているようなそぶりはなかった。
千尋も書き終えたところで橋場に手渡しに行く。
「お願いします」
「おう。ああそうだ、結城」
「はい?」
「わるいんだけど、持ってくの手伝ってくれ」
橋場は顎で教卓に立てかけられている、大きい木製の三角定規や分度器を示す。今日やった範囲で使った物だ。
「いいですよ」
千尋は二つ返事でお願いを受け入れ、三角定規と分度器を手に取る。随分と使い込まれているようで、劣化が目立つ。今にも割れてしまいそうなものだった。
「そんじゃあもう行くからな。出してない奴は明日までには必ず提出しろよ。できなかったら課題増やすぞ」
橋場の言い分に、出していない男子生徒のブーイングが鳴る。それを無視して、橋場は集められたノートを抱え千尋を見る。千尋も出る準備ができていたので、二人は教室を後にした。
「あいつらも、文句言うならやってくればいいのにな」
「そうですね」
「その点、結城はお願いも聞いてくれるし、凄く助かるよ」
「私は、頼まれたものをやってるだけです」
「それが凄いんだよ」
教材を抱えながら、職員室に向かうのかと思われたが、橋場は二階にある職員室ではなく、その下の一階に向かった。
「どこいくんですか?」
「先に結城の持ってる教材戻しに、準備室に行くんだよ。行ったことないのか?」
「はい。そんなところがあるんですね」
「まあ普段は鍵かかってるし、中には教材しかないからな。生徒が利用するような場所じゃないか」
準備室と呼ばれた場所は、多目的室Aという表札になっていた。橋場はポケットから鍵を取り出すと、扉を開けた。
中は埃っぽく、黒いカーテンが掛けられているためか薄暗い。橋場はドアの脇にあるスイッチを入れると、部屋の電気が付く。縦長の手狭なスペースに、これでもかと言うほど脇に様々な物が置かれていた。
「汚くてびっくりしたろ。ほい」
「えっ? あ、はい」
橋場は開いている手を一つ差し出すので、千尋は手に持っている物を一つずつ手渡す。
「こいつらも買い換えないとな」と愚痴りながら、まるでゴミ山にゴミを置くみたいに、橋場は片足立ちになりながら定規と分度器をわかりやすいところに置く。
「いつか片付けたいな」
「その時は手伝いますよ」
「本当か? じゃあお願いしようかな。一人だとやる気でなくって」
はにかむ橋場に、千尋は少しだけ冷めた目をする。それに気づいた橋場は、訝しげに尋ねた。
「どうかしたか?」
「いえ……そういえばで、聞きたいことがあって」
「聞きたいこと? なんだ?」
「佐伯さんの件です」
佐伯という名前を聞いて、橋場の表情がわかりやすく強張る。
「先生は、どこまでご存じなんですか?」
昨日と同じ、人の心を見透かすかのような冷めた目付き。橋場は身動ぎながらも「どこまでとは?」と聞き返す。
「失踪なのか、誘拐なのか、殺人なのか」
「殺人……? なんでそう思う?」
行方不明という話しは出回ってしまったので仕方がないことだが、いなくなった人はまだ見つかっておらず、死んでいるかも定かではない。それなのに殺人と決めつけるのは、些か早い。
しかし千尋は更に冷たい目を向けると、感情の籠らない声で理由を話し始める。
「これは、誘拐を前提としていることですが、誘拐ならばその目的はなんでしょうね?」
「目的?」
「もし私が誘拐犯だったら、まず求めるのはお金ですね。だけどいなくなった人たちって、そんな裕福な人の住人なんですか?」
「……いや。俺が知る限りはそんなことはない。普通のご家庭のはずだが」
「だとしたら、身代金目当てではないんですよ。だったら他に目的ってなんですかね? なんで態々、人を誘拐するようなことをするでしょうか?」
「それは……」
橋場は言葉に詰まった。確かに殆どの場合、身代金が目当てであることは確かである。それ以外に何があるかと言われたら、後はなんらかの情報を聞き出すために拉致監禁するか、殺すために連れ込んだか。
一端の高校生が貴重な情報を持っている訳もなく、まず拉致監禁という線はなくなっていい。だとすると、消去法で残るのは殺すためしかない。
それがわかったから、橋場は何も言えなかった。口をつぐみ、鋭い目付きで千尋を見る。
「もしそうかもしれなくても、あまりそういう事を人前で言うな。さすがに不謹慎が過ぎるぞ」
「……そうですね」
そう答えると、千尋は「すみませんでした」と俯いた。
「ただなんとなく。先生もそう思っていたんじゃないかなって。そんな気がしたものですから」
「なんだってそんな……」
狼狽えつつも訪ねると、千尋は少し口の端を吊り上げて、「だって先生。詳しそうだったので」と含みのある表現をする。橋場は圧倒されつつも、「そんなことはない」と誤解を解き、多目的室を出る。
「もう戻るぞ。あと、あまりこういうことの詮索はするな。後で痛い目を見るかもしれないぞ?」
「そうですね。肝に命じときます」
千尋も部屋から出てドアを閉める。鍵をかけて職員室に向かった。途中まで一緒に行き、2階に上がったところで別れる。
その背中を見送りながら、千尋は小さく溜め息を吐いた。
「どうしよっかな……」
呟くその言葉は、回りの喧騒にかき消されていく。橋場が職員室に入ったことを遠目で確認すると、今度は不適な笑みを浮かべる。
「うん。そうだね。簡単なことだったね」
誰に向けて言っているのはわからない独り言を呟くと、楽しそうに笑いながら自分の教室に戻っていった。
◇◇◇
自分のことがわかってから、まずやったことは勉強だった。
これ以上捕まるのは嫌だったし、できるだけ長い間あの快感を味わっていたかったからだ。禁欲生活を余儀なくされるココには、二度と来るものかと誓いを立て、院にいる間は手当たり次第、犯罪に役立つ勉強をした。
まだ小学生だったこともあり、院での生活は4年ほどで済んだ。その間に、心理学と機械工学に関しては、そこら辺の大学生と変わらないレベルにはなった。
院から出て、中学に編入してからは、身に付けた技術がどれほど通用するのか試した。人の心をどれほど理解できるか、どれだけ操作できるか。実際に機械に触れてみて、どういった動作をするのか。気を付けなければならないことはなんなのか。薬の量はこれで大丈夫なのか。本当にこれで血が止まるのか。様々なことを検証して、やりつくした。
同級生からは、少しだけ変な目で見られたが、先生からの評価は高かった。意欲的に勉強する人間が好きだったのだろう。だから在学中は、特に不便はなかった。
高校に上がると、すぐに体を鍛えて格闘術を学んだ。あと出来上がってなかったのは体だけだったので、死に物狂いで鍛えた。
そして高校を卒業するときには、自分が理想とするところまで来ていた。
ようやく。ようやくなんだと理解した。足掛け9年。ようやく目的が果たせる。
それからは早かった。最初に殺したのは年上の先輩だった。独り暮らしで、あまり友達も作れず、漫然とした大学生活に苦悩していたところを救ってあげたら、面白いように落ちてくれた。
足が着かないように回りに気を使いながら誘いだし、薬を使い眠らせて、縛り付けて、人気のない場所まで連れていき。そこでいたぶりながら殺した。
あの時の泣き顔と断末魔は、まさに甘美の一言に尽きる。信頼していた人に裏切られ、なすすべもなく刺され続け、涙ながら救いを求め、そして死んでいく。
楽しい。なんて楽しいんだろう。
止められない。止められる訳がない。この快感は味わい続けなければならない。そうでなければ、自分が死んでしまうのだから。
それからと言うもの。殺しやすそうな人に目星を付けては、殺すようなった。最初こそ年上が目立ったが、年上の女性は警戒心が強く。なかなか殺しにくいことに気づく、ならばと対象を年下に変えた。女と思えるなら正直誰でもいいんだ。この遊びをするためには、簡単に集められる無知な人間がいい。
ああ。いい。最高の人生だ。自分は母親に感謝しなくてはいけないな。こんな素晴らしい遊びを思い付かせてくれたのだ。
ありがとう。ありがとう。あなたの死に、盛大の感謝を。
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