Desire
滝皐(牛飼)
第1話
枝葉が色付く頃。暑さの残る残暑が過ぎ去り、ようやく秋らしく木枯らしが吹き始めた。文化祭も滞りなく終わり、後は二学期末テストを残すのみとなった。
だが皆テストに向けて準備を進める中、生徒会室では前年度からの集客比率や、店舗ごとの売り上げ集計などの作業に追われていた。
だというのに、生徒会室には二人の人影しかない。黒縁のメガネをし、目の下にくまを拵え、腕に生徒会長の書かれて腕章をした女生徒と、端整な顔立ちのお下げの女生徒。
二人は隣合わせになっている長机に、お互い向き合うように座っている。
目の前の書類に目を通しながら、腕章をした女生徒は大きく溜め息をついた。
「なんで私たちは、文化祭が終わったっていうのに、こんなことしてるんだ」
「文化祭が終わったからでしょ? ほら、手伝ってあげるから、頑張ろ?」
お下げの女生徒に慰められた彼女は、「
「止めてよ
「いいや。きっとかなりのご利益があるに違いない。なんてたって千尋大明神様だからな。この書類もすぐに片付くはずさ」
「どんなに頑張ったって、明日に持ち越しだと思うけどね。紗羅、ここ計算間違ってる」
「ぬっ。やはり休みなく働くのは非効率だな。今日は帰ろう」
経理書類を見つつそんなことをぼやく紗羅に、千尋は苦笑いをしつつ「それもいいかもね」と賛同した。しかし紗羅は犬のように唸ると、また溜め息を吐いた。
「やはり日本人の生真面目さ故なのか、いざ帰ろうと思うと、終わってない仕事のことばかり考えてしまう。それに、わざわざ手伝ってもらってるのに申し訳がたたん。うむ。もう少し頑張るか」
「別に私のことはいいのに」
「いや駄目だ。確かに手伝うと言ったのは千尋だが、結局手伝わせてるのは私だ、少なからず罪悪感はある。お前がなんと言おうとな」
「強情だな~」
「お前が可笑しいだけだ」
お互いほくそえむ。紗羅は先程手渡された書類を訂正して、千尋に戻した。赤字で数字が訂正されている。それを確認してから、千尋は生徒会の判子を押した。
「千尋。いつも手伝ってもらってて何なんだが、やはり生徒会に入らないか? 千尋くらい優秀なら、ポストはどこでも構わないぞ?」
「気持ちは嬉しいけど、私は生徒会に入れるような出来た人間じゃないよ。だからごめんね」
そう微笑む千尋に、紗羅はまた犬のように唸った。これで何度目かはわからないが、紗羅は去年の一年生の時から、千尋を生徒会に引き込もうと勧誘を続けていた。しかし千尋は、今日のように微笑みながら、その勧誘を断り続けている。
入りたくない理由があるのかとも思ったが、理由についてはいつも不明瞭だった。ただ毎回必ず、出来た人間じゃないとは言っていた。
「私からしたら、千尋ほど出来た人間は知らんのだがな」
入学当初は、その容姿から他の女子に疎まれることもあったが、それは次第になくなっていった。というのも、疎む行為が無意味だと悟ったからだ。
千尋は、簡単に言ってしまえば良い奴なのだ。困ってる人に手を差し伸べ、手伝えるならなんだって手伝う。そこに損得勘定を全く組み込んでおらず、例え自分が不利益な状態であろうと他人の心配をする、そんな人間なのだ。
聖人に近い意識を持っており、彼女が怒ったり文句を言ったところは見たことがない。そんな人間を疎んだところで、本人は意に介さないどころか、当たり前のようのその人を受け入れるだろう。
だから、最初こそ疎んでいた子達も、しだいに千尋の感覚に一種の嫌悪感を抱き、本人が何かすることなく離れていった。
しかしそれは、自分に卑しいことがあるから、千尋の側にいるとそれが露見してしまうことからの逃亡である。自分に一切の偽りなしと言えるのならば、千尋のように他人のあり方を受け入れる人は、心地がよい関係になれる。紗羅はまさにそうだった。
「千尋は人の気持ちを考えられる人間だ、なのに皆それがわかってない」
「そんなことないよ。私だって普通の人間だし、他人の気持ちなんてわかんないって。だってもしわかってたら、もっと人気者になってたんじゃない?」
揚げ足を取るような言葉に、紗羅は不満そうに千尋の顔をジッと睨んだ。千尋は苦笑いしながら「ごめん。ありがとうね」と、自分のために怒っていた紗羅を気づかう。
「いつか皆、気づいてくれる。千尋は気持ち悪くないって」
「うん。そうだね」
紗羅はそのまま黙々と書類に目を通し始めた。千尋も同じように書類に目を通してはいるが、時おり何かを考えるように、手を止めては宙を見つめる。
「千尋?」
「ん? ああ、ごめん。ちょっと……言われたことを考えてただけ」
「人の気持ちはってこと?」
探るように訪ねるが、千尋は首を横に振る。
「たぶん、別に私は、誰かに知って欲しいって思ってないんだ。だから、別に私を理解してくれなくても、良いんじゃないかって」
「またそういうことを言う。お前はなんでそう自分に関心がない。自分のことはどうでもいいとか、そんな悲しいこと言わないでくれ。少なくとも私は、お前のことをどうでもいい奴なんて思っていない。対等の友達だって思ってる」
「自分のことがどうでもいい訳じゃないよ? さすがに私も、そんなこと思わないって。ただ……何て言うのかな。知ってて欲しい人にだけわかってれば、それでいいんじゃないかなって。変かな?」
薄い笑みを浮かべながら訪ねる千尋に、紗羅はまた苦い顔をする。
「変じゃない……変じゃないんだが」
千尋は可笑しなことは言っていない。誰しも全ての人間に、自分というものを知っていてほしいなんて思わないし、特定の誰かが理解してくれてればいいという感覚は、紗羅も理解できる。紗羅もどちらかと言えば、千尋と同じだからだ。
けどその特定の誰かの中に、紗羅が入っているのかと言われると、それはわからなかった。
千尋との仲はけして悪くはない。だからと言って、良いという訳でもなかった。千尋はその性格ゆえ、良い奴ではあるが、友達としては距離のある人間なのだ。
誰にでも手を差し伸べ、優しく接する千尋の心は素晴らしいものだと思う。だがそれは平等であって贔屓ではない。誰にでも平等に接する千尋は、知人であっても友人ではない。
「千尋はもう少し、信頼できる人間を増やした方がいい」
紗羅のその言葉に、千尋はなんの疑いもなく「紗羅がいるじゃん」と返した。だがそんなことを言われたって、紗羅にとっては複雑なものだった。
しかしそれは今更のこと、千尋という人間がそういう奴なんだと理解した日から、時間がかかることを紗羅はわかっている。
「まあいい。それよりも目の前のことだ。今日の分は終わりそうか?」
「うん。これが終わればまた明日かな」
「なら後はやっておく。千尋は先に帰れ。あとこれで、何か好きな飲み物でも買うといい」
紗羅は隣の椅子に置いた鞄の中から財布を取り出すと、500円玉を千尋に差し出した。
「もらえないよ」と遠慮する千尋であったが、紗羅はせめてもの礼ということで、強引に手に握らせた。渋々受け取った千尋は、眉間に皺を寄せつつそれをブレザーのポケットに仕舞う。
「明日は手伝ってもらわなくて大丈夫だ。他の奴等が来てくれることになっている」
「うん、わかった。でも人手が必要だったら」
「わかってる。また声をかけるさ」
千尋は手元の書類を束ねて紗羅に手渡し、机の脇に置いたバックを肩にかけ、「またね」と生徒会室を後にしようとした。だが扉の取手に手をかけたところで、紗羅に呼び止められる。
「千尋……お前はまだ、あれを持ってるのか?」
「うん。まだ必要なんだ」
「そうか……職質に気を付けて帰れよ」
「うん。ありがとう」
悲しそうな表情の紗羅だったが、千尋は一瞥するだけで、それ以上何も言わずに生徒会を後にした。
玄関口に向かおうと歩をそちらに向けたが、そういえば、と教室に数学の教科書を忘れたことに気づいた。確認のためバックの中を漁ってみたが、やはりなかった。
本日、数学は宿題が出ている。なので教科書は必須で持ち帰らないといけない。仕方ないと、千尋は踵を返して教室に向かった。
夕闇が降りて来た空を眺めながら、ブレザーのポケットに入っている小銭をどうするか悩んでいた。千尋としては、別に見返りが欲しかったから手伝ったのではなかったので、報酬をもらった時どうするか考えていなかった。紗羅は飲み物でもと言っていたが、せっかくの500円玉なので、それ以外に使い道がないか探すことにした。
なかなかいい案が浮かんでこず、気がつけば教室の前に来ていた。扉は開いているようだったので、そのまま中に入る。暗くなってきたこともあって、教室の中は薄闇だった。
そんな教室の中で、蛍光灯もつけず、外からの光を頼りに本を読んでいる女生徒がいた。
千尋は電気を点けると、急に明るくなったのでその女生徒は本から顔を上げて、教室の入り口を見る。
ふんわりとした、淡い栗色のセミショートの髪に、クリッとした丸い目。一目で男子が好きそうな、可愛らしい容姿をしているのがわかる。
彼女、
「あっ、千尋ちゃん」
「電気ぐらい点けた方がいいよ、赤羽さん」
千尋は教室の窓際の一番後ろにある自分の机まで行き、中に入ってる数学の教科書を取り出す。柚香は本を閉じて「忘れ物?」と、千尋に訪ねた。
「まあね」と教科書を見せて、鞄の中にしまった。そのまま柚香の隣まで行き、本の表紙を見る。
「アガサ・クリスティ?」
「うん。映画化するみたいだから、読み直そうかなって」
「赤羽さん。本好きだもんね」
「えへへ~」
特に誉めた訳ではないが、柚香は顔をにやけさせ照れている。千尋は微笑むと、前の席に腰を掛け鞄を下ろした。
「赤羽さんはどうして残ってたの? 部活?」
「ううん。なんとなく本を読みたい気分だったの。読み始めちゃったら止まらなくなって、いつの間にかこんな時間になっちゃった」
「そうなんだ」
照れ臭そうにはにかむ柚香に、まるで幼い子供を見るかのように優しい目をする千尋。
「千尋ちゃんは?」
「私は生徒会の仕事を手伝ってたの」
「千尋ちゃん、相変わらずだね。去年もそんな感じに、いろんな人のこと手伝ってなかった?」
「うん。赤羽さんも、もし手伝って欲しいことがあったら言ってね。できる範囲で手伝ってあげる」
千尋の言葉に、「本当!?」と目を輝かせる。徐に鞄の中から数学の教科書を取り出すと、「教えて?」とお願いした。
「今から?」
「今から! だって明日提出だよ? だったら今やった方がいいじゃん」
「……それもそうだね。でも、7時までね」
「うん!」
千尋も先程しまった教科書を取り出し、ノートと筆箱を出す。柚香も鼻唄混じりに、意気揚々と準備を進める。
それから二人は、7時になるまで一緒に勉強をした。基本は千尋が教えて、柚香が答えるといった形になった。柚香もけして成績か悪い訳ではないが、単純に千尋の方が勉強はできる。
「ここは、こっちに持って来てからの方が解きやすいよ」
「なるほど。やっぱり千尋ちゃんは、教えるのも上手だね。さすが才色兼備」
冗談めかして言うので、千尋も笑いながら「そんなんじゃないよ」と謙遜する。
「でもさ。やっぱり凄いと思うよ。千尋ちゃん、頭いいし、運動できるし、顔もスタイルもいいし。スペック高いじゃん」
「私よりできる人は沢山いるよ。それに赤羽さんも、なんでもできるじゃない。私より運動できるし、女の子から見ても可愛いし」
「え~可愛いかな? なんか照れるな~」
にやけつつ頭の後ろを掻く柚香に、千尋はまた微笑む。
一頻り照れた後、思い出したように弾んだ声で、「でも、そのせいで虐められてたことはあったんだ。千尋ちゃんもそうだったでしょ?」と、興味深そうに訊いた。
柚香も柚香で、その容姿があまりにも男子受けがいいため、女子に疎まれた経験がある。今でこそ沈静化してはいるが、それまでは陰湿な虐めを受けていた。
千尋は少し手を止め考えると、苦笑いしながら「私のは虐めだったのかな?」と、柚香にとって少し予想外な回答を返した。
「別に困らなかったし、辛くもなかった。それになんか、あの子たちの方が辛そうだったよ?」
千尋にとって、自分に降りかかる虐めは虐めではない。不気味の物の考え方に、柚香は興味深そうにニヤつく。
「何?」
「ううん。やっぱり千尋ちゃんは面白いなって思って」
別に変なことを言ったつもりがない千尋は、なんのことかわからず首を傾げる。
「じゃあ千尋ちゃんは、虐めてきたその子たちのこと、なんとも思ってないんだ」
「うん。特に特別な感情はないよ? それがどうかしたの?」
「ううん。普通だったら、殺したくなるんじゃないかなって思って。だけど、千尋ちゃんはあり得ないね」
物騒なことを言いながら笑う柚香に、千尋は「赤羽さんは?」と投げ掛ける。
「私?」
「うん。赤羽さんはどう思ったの? 殺したいって思った?」
柚香は手を止め、シャーペンのノック部分を唇の下に押し付け悩み始める。さんざん唸った挙げ句、「なんとも思ってないかな~」という千尋と似た答えが帰ってきた。
「そうなんだ」
「うん。だって人が人を傷つけるのって、当たり前のことでしょ?」
「……そうかもね」
お互いに笑いながら、宿題に戻る。
それから少しだけ進めて、時間はいつの間にか7時になっていた。外は暗くなり、完全下校時刻を知らせる鐘が鳴る。
「もう時間か。残りは一人で出来るよね?」
「うん。ありがとうね、千尋ちゃん」
二人は片付けを済ませ、一緒に昇降口に向かう。外はもう完全に真っ暗で、街灯の輝きが寂しく光っていた。夜の学校というのはどこか不気味な印象を与えるが、柚香は楽しそうに「うわ~真っ暗」と笑っていた。
「変質者が出そうだね」
「お化けじゃなくて?」
夜の学校ならお化け。という考えからそう答えた千尋だったが、柚香は「知らないの?」と訪ねる。
千尋が「何が?」と聞き返すので、少しだけ楽しげに話し始めた。
「最近、行方不明者が増えてるんだって」
「行方不明?」
初めて聞いたのか、千尋は首を傾げた。柚香は得意気に続ける。
「近頃、この区内で女生徒がいなくなる事件が増えたんだって。もう三人目みたいでね、この間は乙鳥女子の生徒が一人いなくなったみたいだよ?」
「いなくなったって……連絡が取れなくなったってこと? でもそれってただの家出なんじゃ……」
「いなくなった子は皆明るくて、家出をするような子じゃないんだって。だから誘拐なんじゃないかって、噂になってる」
「ふ~ん……」
この手の話題にありがちなことだからか、千尋はあまり信用しているようではなかった。だがまあ、他人から見た姿が全てではないのも確かだ。それについては、柚香だってそう思っている。
「どこまで本当かわからないけど、でも実際に消息は断ってるんだから、あながち間違いってことでもないかもよ」
信じるか信じないかはあなた次第、とその後に付きそうな言い回しだった。千尋は微笑みながら、「かもね」と軽く流す。
「私がいなくなったら、どうする?」
唐突にそう問われ、千尋は困ったように顔を歪めた。少し考えた後、「警察に言うかな?」と無難な答えを出す。
「でも警察って、事件性がないと動いてくれないんでしょ? 難しいんじゃない?」
思ってたより本気の答えが帰って来て、千尋はまた困ったように唸った。
「誘拐って言っても動いてくれないよね?」
「事件性がないからね」
「じゃあ自分で調べるかな。赤羽さんがどこにいったのか」
「本当? じゃあもし千尋ちゃんが急にいなくなったら、私も探してあげる」
悪戯っぽく笑う柚香だが、今の問答にどんな意味があったのかはよくわからなかった。何かに納得がいったみたいに、柚香は上機嫌で鼻唄混じり、スキップしそうなほどだった。それほどまでに、探してくれると言われたことが、嬉しかったのかもしれない。
二階から階段を下り一階に。昇降口が見えてきたところで、「今帰りか?」と二人に話しかける声が聞こえた。
そちらを向くと、眼鏡をかけたやせ形の男性が、教材を手に立っている。
「橋場先生」
「もう7時だぞお前ら。何してたんだ?」
「先生からの宿題をやってました。赤羽さんと一緒に」
柚香はピースサインを橋場に向ける。橋場は呆れつつも、どことなく嬉しそうに笑いながら、二人の前に向かう。
橋場は数学を教える、千尋と柚香のクラスの担任だ。先程までやっていた宿題は、橋場から出された課題なのだ。自分の授業のためならば、怒るにも怒れない。
「勉強熱心なのはいいことだが、もうちょっと早く帰れ。ここのところ物騒だから」
「行方知らずの女生徒が増えてることですか?」
千尋は先程の話題を振ると、「知ってたのか」と驚く橋場。
「まだそこまで大事になってないが、用心にこしたことはない。幸い、家の学校からは一人も出ていないが、今後のことはわからん」
「そうですね。気を付けます」
「気を付けまーす」
「赤羽。お前はもう少し緊張感を持て。一応、女子だろ?」
呆れてものを言う橋場だったが、柚香は笑いながら「大丈夫ですよ」と言い切る。
「私がいなくなったら、千尋ちゃんが探してくれますから」
疑いもなく、本当に心からそう思っている言葉だった。千尋は微笑みながら頷き、橋場に向き直る。
「私がいなくなっても、赤羽さんが見つけてくれますよ」
二人の妙な自信に、橋場はため息を吐いた。
「二人ともいなくなったらどうするんだ?」
その問に、二人は顔を見合わせた。特に答えなど用意してる訳もないので、お互いに苦笑いをした。その様子に、橋場は「全く」と声を漏らす。
柚香は下唇に人差し指を当て考え始める。そして電球がついたかのように、指先を天井に向けると、そのまま橋場を指差した。
「先生が探す! これなら完璧!」
「人を指差すな」
「すみません」
「でもそうだな。確かにそれなら完璧かもな」
冗談めかして賛同する橋場に、柚香も得意気に胸を張っていた。
「完璧なのはわかったから、今日はもう帰りなさい。また明日な」
「はーい。じゃあね、先生」
柚香は手を振り、先に昇降口を出る。千尋はまだ何か聞きたいことでもあるのか、柚香を追いかけることはせず、橋場の隣にいる。
「どうかしたのか?」
「一つ、確認しておきたいことがありまして」
含みのある言い方に、橋場は少し不信に思うも千尋の言葉を待った。
「隣のクラスの佐伯さんって、昨日から来てないみたいですが、何か知ってますか?」
千尋に見上げられ、橋場は背筋にゾワリとした悪寒を感じた。見つめる目が、まるで橋場の心境を見通すかのように深く、鋭いものだったからだ。
およそ、先ほどの千尋の雰囲気からは想定できないほど、彼女の目に恐怖を覚える。
圧倒され、言葉をなくしてしまった橋場に、千尋は首をかしげながら「どうしました?」と、いつも通りの表情に戻る。
威圧感がなくなったことで、思い出したように話し始める橋場。
「ああ、そうだな。担任じゃないからよくわからんが、無断欠席らしい。俺はまだそれぐらいしか知らない」
「そうですか、わかりました」
千尋は頭を下げてから、先に行った柚香の後を小走りで追っていく。残された橋場は、遠ざかる千尋の背中を、ただただ冷静な目付きで見つめていた。
◇◇◇
いつごろだったか、自分が普通の人間ではないことに気づいたのは、たぶん小学生の時だったか。
猟奇的で、狂喜的。この性癖が目覚めたきっかけは、母親だった。
非常に情緒不安定で、何かにつけて怒鳴りつけるような人だった。そんな母に嫌気がさした父は、物心つくまえに家を出た。それからは、母の癇癪を一人で背負うことになった。
簡単に言ってしまえば、地獄だった。毎日毎日気を使う生活。ちょっとしたことでも殴られ、罵倒され、虐待された。酷いときは、寒空の下にシャツ一枚で放り出された。
そんな生活に耐えていると、自分の中で何かが囁かれるのを感じた。何かはわからなかったが、それが日に日に大きくなっているのはわかっていた。
最初こそ耳を傾けまいと思っていたが、人間の欲望というものはそう単純ではない。駄目だ駄目だとわかってはいたが、少しだけならばと聞いてしまったのだ。
小学3年生のある日。母が寝静まった深夜。台所から包丁を一丁取り出し、母の寝室に向かった。音を立てないように忍び込み、起こさないように寝ている母に股がった。
殺すことに、躊躇なんてなかった。ただ当たり前ような殺意に突き動かされ、包丁を高々と掲げ、そのまま胸に突き立てた。
甲高い叫び声と、驚愕に目を見開き、苦悶する表情。その時のことは全て覚えている。
刺した場所が悪かったのか、一撃で母は死ななかった。なので、殺さないでと懇願する母の催促を無視して、何回か刺し続けた。
刺す度に血は飛び散り、苦痛の吐息を漏らし、涙を流し、痛みと絶望で酷い顔をしていた。最後に名前を呼ばれた気がしたが、手は止めなかった。
声が聞こえなくなり、動かなくなったところで、ようやく刺すのを止めた。人の体を何度も刺すのは、思ったより力がいるようで、包丁を引き抜こうと思っても、すでに握力は使いきってしまった。なのでそのまま放置して、荒い呼吸を整えながら、ジッと母の顔を見ていた。焼き付けるかのように、ずっと。
それからすぐ、騒ぎを聞き付けた隣の住人に連れられ、警察に向かったのは言うまでもない。
パトカーで連行される最中、声はさらに大きくなっていた。殺したら終わりだと思っていた。だけどそれは、きっかけに過ぎなかった。奴はこれを求めていたのだ、殺した後を求めていたのだ。
うん。そうだ。これこそが、本当の自分なんだ。
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