第一章 その4
「明遠様」
宮の外に出ると、額に飾り
「ああ、どうか何も言わないでください。どうせ良からぬことになったに
「失礼ね! 否定はしないけど!」
燦逸はがっくりと
「紅玉様って
「まあ、今の皇太后
「まさか。口だけでしょ。出ていく気なんかないわよ、あの人」
明遠がさらりと言うと、燦逸はちょっとだけ
「明遠様、申し訳ありません」
「何よ急に」
「私、明遠様はちょっぴりお頭の弱い方なのかと思っておりました」
「ちょいちょい失礼よね、燦逸って……」
燦逸は一度
「ご明察です。皇太后殿下は後宮を出て行く気などさらさらないでしょう」
燦逸の言う通り、皇太后は明らかに、王宮での権力を固持したがっていた。でなければ、初対面の明遠に対して『従え』なんて言わないはずだ。
「先ほども申し上げましたが、大方の予想では、皇太后殿下のご息女の那珂様が、次の王と考えられていたのです。実際、那珂様なら血筋も能力も申し分ない。王の素質は十分とお見受けしておりました」
明遠には、王の素質とは何なのかさっぱり分からない。けれど少なくとも、那珂は紅玉と違って嫌味一つ言わなかったし、明遠に対し、終始
「実は、
「先生役ってこと? あたしの?」
「ええ」
燦逸はとっくり
「ご自分が受けて来られた教育を
「えっ聖女なの? 良い人すぎて
明遠が右腕を見せようとするのを、燦逸はやんわり断って、
「鳥肌はともかく……那珂様を
顔を
「那珂が王なら良かったのに」
「文句なら花仙に直接
「誰が? 花仙が?」
「さようにございます。ご案内しましょう。こちらに」
ようやく諸悪の根源と相まみえるわけだ。明遠は腕まくりをし、燦逸の後に続いた。
居室の手前で、燦逸はようやく足を止めた。彼が手を
「彼女らが身の回りのお世話をします。播家の者しかおりませんので、どうぞご安心を」
「播家って?」
「
言いながら、燦逸は飾り紐で額に留められた小さな石を指さした。
「それって、その紐を巻いてない人はみんなあたしの敵って意味?」
「ははは、明遠様はご
燦逸は棒読みでそう言って、そそくさと立ち去ってしまった。
「明遠様、こちらに」
廊下で
「ここで花仙がお待ちです」
そう言って、女官が戸を引いた
「!」
明遠はとっさに身を
「なぜお
「そっちこそ、なんで飛びついてくるのよ!」
「長い間、お待ち申し上げておりましたので……!」
柱にぶつけたのか、赤くなった額を気にも留めず、胸の前で手を合わせて目を
「あなた……」
そこまで言って、言葉が続かない。明遠が驚くのも無理はなかった。瑞の
一目見るだけで人ならざる存在と分かる、美しい、生き物。
「あなたが……新しい花仙?」
確信を込めて、明遠は問う。彼は姿勢を正し、頷いた。幼さの残る顔立ちながら、背筋を
「いかにも、私が瑞湖国の新しい花仙です。初めまして、明遠」
彼は長いまつ毛を
「おかけになっては?」
なぜか
「あの……あたし、
明遠は迷いつつも、女官たちにそう告げた。すると女官の一人が
「これは、出過ぎた
「あ、そうじゃなくて」
何十も
「明遠、用済みならば、『下がって良い』と」
「ああ……、その、じゃあ、下がっていいわ」
明遠はしどろもどろでそれらしく命令をし、
「ありがとう」
そう付け加えた。女官たちは顔を見合わせた後、
「おかしな方だ。あの者たちにいちいち感謝の言葉は必要ありませんよ」
「どうして?」
「どうしてって、彼女らは女官で、あなたは王だから」
当然のように言う花仙の青年。そこで明遠はようやく当初の目的を思い出した。彼に言わなければならないことがあるのだ。
「あなた……その」
明遠は言いかけて、言葉を切った。あっちは呼び捨てなのに、こっちはいつまでも『あなた』じゃあ
「……あなたの名前は?」
「私ですか? みな睡蓮と呼びますが」
「睡蓮……そうか、あなたも睡蓮の花仙なのね」
世界には、国の数だけ花仙がいる。
「でも、それは名前じゃないでしょ」
「ええ」
彼は待っていましたとばかりに、
「花仙は
明遠は
「あたしは……王にはならない」
「……?」
彼はきょとんとしている。心底意味が分からないというような、いっそ
「でも、明遠は王ですよ?」
「
明遠は強く言い切る。
「あたしはほんの数日前まで、
無理だ。明遠には、そんなこと。
「断るためにここに来たの。あたしは王になる気はない」
花仙の青年は、しばらく
「……でも明遠は王です」
そう
「あなたねえ……」
めでたく
「な、……何?」
両手でぎゅっと
「明遠、契約を。私に名前を下さい」
明遠はとっさに青年の手を振り
「契約って?」
「明遠は花印をお持ちでしょう」
明遠は左手に視線を落とす。手の
「今はまだ、契約が
一生を共に、なんて言われても、想像がつかない。
「名前って……あたしがつけなきゃいけないの? 自分でつけたら?」
「花仙の真名は、王にしか分かりません。王ならば、考えずとも自然に頭に浮かんでくるものと言います」
「自然に……」
明遠は一応目を
「ごめん、分からないわ」
へにゃりと笑ってごまかす明遠。青年はむっと口を曲げて不服を表明している。
「やっぱりあたし、王じゃないんじゃない? 何かの間違いで……」
「明遠」
「次の王はあなたです。受け入れてください。そうすれば、私は誠意をもって、あなたに力をお貸ししましょう」
「力?」
そう言えば、
「睡蓮仙の力って、何なの?」
興味本位で
「夢です」
彼は短くそう答えた。
「睡蓮仙は、夢を見るのです」
明遠の
「……そりゃ幸せな仕事だわね。おやすみなさい」
「明遠っ! 私は本気で言っているのです!」
青年は再び明遠の手を
「とにもかくにも、契約を! 話はそれからです!」
「知らないったら知らない! あたし、帰る!」
「明遠っ!」
「ぎゃああ離して!」
少女にすがりつく青年。
「ああもう、
瑞は高山の国だ。農工資源に
「あなた……」
もこもこの髪に、つぶらな金色の瞳。温順に見えて意外と
「……羊」
「え?」
「羊に似てるわ」
「……ヒツジ、ですか」
この日、明遠は結局花仙に真名を
花仙国伝 後宮の睡蓮と月の剣 天川栄人/角川ビーンズ文庫 @beans
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