「や、やめてくださいよ、急に……」

 終着点が見えている階段が、長い。駆け下りても駆け下りても、まだ先がある。

 イヌワシはすでに、いちばん下の漆黒の扉のそばにいる。ぼくだけが、いつまで経っても、階段を下り切れない。


 どうして? 拒絶されているのか?

 懐中時計を取り出す。暗転は、すでに三百十五度。あと四十五度で、時間切れになってしまう。


【リアさん】


 願いを込めて呼び掛ける。階段全体が震えたように感じた。返事をしてくれた。そんな気がして、ぼくは再び呼び掛ける。


【リアさん!】


 唐突に、ぼくの目の前にピンク色の霧が立ちこめた。驚いて足を止める。霧がぼくに覆いかぶさってきた。


 甘ったるい匂いがした。香水か何かの人工的な匂いだ。一瞬ひどく濃くなった霧が、次の瞬間いきなり晴れた。


「え? リアさん?」


 すぐそばに、リアさんが立っている。リアさんはぼくを見て、小首をかしげて微笑んだ。細い指が髪を掻き上げると、華奢なチェーンのピアスが揺れる。


 春用の薄いトレンチコート。黒いストッキングのすらりとした脚に、赤いハイヒール。

 ありもしなかった踊り場で、ぼくはリアさんと向き合っている。


 何とはなしに、リアさんの様子に違和感を覚えた。違和感の原因には、すぐに気が付いた。目元が少し赤い。仕草がいくらか大げさで、芝居がかっている。


「酔ってるんですか?」


 リアさんが唇に手を添えて笑った。

 音も声もない。そのぶん、視覚に集中させられる。


 リアさんがトレンチコートのボタンに手を掛けた。思わせぶりにゆっくりと、ボタンが外されていく。


 コートがはだけられる。その内側に隠されていた光景に、息が止まる。

 胸の谷間もウェストラインもあらわな赤いドレス。丈はコートよりも短くて、太ももがまぶしい。ストッキングを吊り上げるガーターベルトが、むっちりと肉に食い込んでいる。


 コートが、するりと、肩から落とされた。

 見てはならない。でも、見たい。


「や、やめてくださいよ、急に……」


 心とは裏腹な言葉で、ぼくはいい子のふりをしようとする。

 リアさんは何もかもを見透かしているかのように妖艶に笑って、ゆっくりとぼくの周囲を歩き回った。触れそうで触れない距離。朱い髪が揺れる。香水の匂いがぼくの鼻に刺さる。


 ぼくは体が動かない。それどころか、呼吸さえままならない。

 体じゅうが熱い。血がたぎっている。鼓動の音が耳元で聞こえる。


 ぼくの正面に帰ってきたリアさんは、マニキュアが目を引く指先で、ドレスのすそを少しめくった。黒いレースの下着がチラリとのぞく。


 ダメだ。


 からかうように、リアさんは笑っている。片方の肩紐を二の腕に落とす。上目遣いにぼくを見ながら、腕を組むようにして胸を寄せて、もう片方の肩紐も、じりじりと肩から二の腕へ滑らせてみせる。


 何なんだ、このショーは?

 ぼくは一歩、後ずさった。


【やめてほしい、見たい、そんなことしないで、見たい、先を急がないと、見たい、立ち止まっていられない、見たい】


 見たいのは。

 ぼくが本当に見たいのは。


 リアさんがドレスを脱ぎ捨てた。ストラップのないブラ。レースのショーツ。ガーターベルトとストッキング。その全部が、きらめく刺繍の入った黒。


 ハイヒールで、一歩、リアさんが進み出る。ぼくはまた一歩後ずさって、背中が壁にぶつかった。


 リアさんの体から目を離せない。想像していたとおりの完璧なプロポーション。その体から匂い立つ色気は、ぼくのちゃちな想像なんか、はるかに超えている。


 浅はかで正直な感情が二つ、ぼくの中でせめぎ合う。今すぐ押し倒したいという衝動と、憧れが崩れていく切なさと。


 酔いに赤らんだ誘惑のまなざしが、ぼくに迫る。動けずにいるぼくに、白い手が伸ばされる。


 ぼくの頬に、リアさんの手が触れた。触れられた興奮に、体が震える。ぼくの切れ切れの息を楽しむように、リアさんの指がぼくの唇をなぞる。


 誘い文句が、リアさんの唇によって紡がれている。その唇の動きが読めない。読唇術は得意なのに。ぼくはそれほど、動揺している。


 リアさんの白い体。見下ろす視界には、魅惑に満ちたあの胸の膨らみ。


【なぜ】


 リアさんの舌が、赤いルージュの唇をなめる。柔らかそうなその舌と唇に噛み付いてみたいと、ぼくの体の奥が騒ぐ。


【なぜ、こんなことを】


 リアさんの両手がぼくの頬を両側から包んだ。さらに半歩、リアさんがぼくに迫った。


【見たい。だけど、ぼくが本当に見たいのは】


 妖艶な笑みを前に、めまいがする。欲望に呑まれてしまいそうだ。頭が混乱する。思考と感情と理想と妄想がごちゃ混ぜになっている。


【触れたい、悲しい、触れたい、やめて、やりたい、そうじゃない、さわりたい、否定したい、誘ってる、誘ってない、誘われてる、あなたの本心は】


 唇が近付く。


「違いますよね」


 つぶやいたのが自分の声だと、最初はわからなかった。リアさんのげんそうな目が、ごく近いところからぼくを見つめている。


「リアさん、違いますよね」


 ぼくが口を動かすと同時に声が聞こえて、それが自分の声だと知って、ぼくは自分の気持ちを悟った。せめぎ合う感情の中で、より強いのが何なのかを理解した。


「こんな茶番、本心じゃないんでしょう? 今までずっとそうやってきたんですか? そうやって自分をごまかして、すり減らしてきたんですか? こんなの本心じゃないって言ってくださいよ。ねえ」


 言葉にした途端、悲しくて、鼻の奥がツンとした。憧れの人が知らない誰かに触れられたのだと思うと、つらい。腹立たしくて、悔しくて。


 それが大人の遊びだったとしても、本気の恋じゃなかったとしても、大事なものをけがされた気がして、ぼくの胸に身勝手な悲しみが湧いてくる。


「媚びを売るふりで本心を隠して、そのキレイな体を安い遊びに使って、寂しさや悲しみをまぎらわす手段だったとしても、もうやめてください。似合いません。それに、ぼくを……ぼくまでも、そんな嘘に付き合わせないでください」


 リアさんの顔から、笑みが消える。おびえるように見張られた目に、ぼくが映り込んでいる。

 こんなに距離が近い。抱き寄せることも押し倒すことも簡単だ。


 ぼくは衝動を殺している。必死で殺している。流されたくない。今だけは、絶対に、流されてはいけない。


「ココロの奥まで見られたくないって、リアさんのその気持ちもわかります。わかるからこそ、今だけ見せてほしい。必ず大切にしますから、ぼくだけ許してください」


 夜のドレスをまとったリアさんが男の目を美しい体へ向けさせるのは、きっと隠れみのだ。その本心から相手の目をそらすための武器なんだと思う。


「過去に何度、そんなふうにごまかして、誘惑してきたのか。人数や回数なんて、ぼくにはどうでもいいんです」


 少し嘘だ。口にした瞬間、自分の言葉が胸に突き刺さって痛んだ。でも、その痛みは、はるかに小さい。ぼくのいちばん強い望みを黙殺される痛みより、ずっと小さい。


「ぼくを惑わさないでください。きちんと、あなたと向き合わせてください。未熟なんです、ぼくは。一つひとつ組み上げていかないと、理解できないんです。教えてください。一つひとつ順を追って、ごまかさずに。あなたの力になるための方法を、ぼくに教えてください」


【だから、その姿で、ぼくに迫らないで。あなたをメチャクチャに壊してしまいたくなる。そうだ、メチャクチャにしたいのも本心。あなたの過去が悔しくて、全部、上書きしてしまいたい。塗り替えてしまいたい。あなたをぼくだけのものにしたい】


 抑え切れない浅はかな感情が、音のない声になってあふれ出す。チカラの使い方がわからないぼくの声は、実現性を持たない。ただ、ぼくの心を正直に映し出す鏡のようなもの。ぼくの理性は、ギリギリのところにしがみ付いている。


 リアさんが、不意に笑った。


「かわいい」

「え?」

「でも、生意気よ」

「す、すみません」


「あやまちを繰り返せるほど、わたしはタフじゃないの。むなしくなるだけだった。寂しさもいらだちも、少しも埋まらなかった」


 リアさんがぼくの胸に額を寄せた。


【聞かれてしまう……鼓動を】


「生ぬるい親切も同情も、いらない。下心で近付くなら、そうと言われるほうがマシ。わたしは、嘘をつかれるのが嫌いなの。自分が嘘つきなくせにね」


 嘘と強がりは、同じではないと思う。リアさんは強がっているだけだ。

 顔を伏せたまま、リアさんがクスクスと笑った。


「きみ、気が利かないわね。こういうときは、肩くらい抱いてよ」

「へっ?」


 面食らった次の瞬間、ピンク色の濃い霧に包まれた。思わず目を閉じるほど、濃密な香水の匂いがした。


 突風が吹いて、霧と香水が飛ばされる。目を開けると、ぼくは階段に一人で立ち尽くしていた。


「幻?」


 リアさんも、脱ぎ捨てられたコートもドレスも、ない。ここは踊り場ですらない。

 鼓動はまだ速い。体の興奮は収まっていない。


 ぼくは階段にしゃがみ込んで顔を覆った。なまなましすぎた。今さらになって、かなりヤバい状態だったと気付く。


「むちゃくちゃだ、あんなの……」


 難易度の高すぎる試験、クリア条件の厳しすぎるステージ。

 流されて溺れなかったのは、ほとんど奇跡だ。ちょっとでも違うスイッチが入ってしまったら、完全にアウトだった。


 漆黒の扉のそばにいたイヌワシが、ぼくのところまで戻ってきた。翼で繰り返し頭を打たれる。


「ごめんなさい、わかってますって」


 だけど、あとちょっと待って。熱すぎる顔を上げられない。誰が見ているわけでもないけど、手のひらをどけられない。


 リアさんには全部感知されているんだろうか。やましいところだらけだ。

 さっき、どさくさまぎれに何て言った?


【あなたをぼくだけのものにしたい】


 本音だった。リアさんに対して、その気持ちが百パーセントなのかどうかはわからない。でも、少なくとも、ぼくにそういう一面もあるのは確かだ。


 恥ずかしくて、苦しくて、くすぐったくて、痛い。ざわついて仕方がない場所は、頭なのか胸なのか、もっと体の奥なのか。どこを押さえても収まらなくて、どこかが熱く騒ぎ続けている。


 今、どうすればいいのか、わからない。答えが出なくてじれったい。叫び出したいくらいに。

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