八幕:不楽_no_pleasure

「これ、おれからのお願い」

 ぼくの背後で隠し扉が閉まった。


 目の前に、ぼくとひとくんとイヌワシがいる。鏡だ。一枚だけじゃなく、何枚も、何枚も、数え切れないくらいの鏡がある。視線を感じて見上げると、低い天井も鏡だった。


「ミラーハウスですか?」


 部屋と呼ぶには狭すぎる空間。廊下と呼ぶには短すぎる奥行き。突き当たりまで進んで角を折れると、また鏡だ。すべての選択肢が行き止まりに見えた。


「右斜め前方、通れるよ」


 理仁くんが指差して、先に立って歩く。そうか、ぼくの能力を使えば、光の反射を利用した錯視は簡単に見破れる。


「お株を奪われた気分です」

「さっき、おれの声を使いこなしてた海ちゃんが言う?」

「声が止められなかったし、止めるべきではないと思いました。チカラに頼らないと言えないなんて、情けないんだけどね」


「やっぱ海ちゃん、姉貴のこと好きでしょ?」

「それは、いや……恋というものを、したことがないんです」

【胸が痛くて苦しい】


 理仁くんが急に、低い鏡の天井を向いて声を張り上げた。


「とのことですよ~、姉貴! かわいい年下男子にキッチリ教えてやんなよ~」

「な、何言ってるんですか!」


 思わず理仁くんの肩をつかむと、振り返った理仁くんはニヤッとした。

「ま、歩きながら話しますかね~」


 鏡の迷路を、理仁くんは迷わずに進んでいく。リミットまでの時間を尋ねたら、懐中時計を渡された。残り時間は約四分の一だ。


 どこを向いても、いろんな角度の自分が鏡に映っている。正確な像、歪みのある像、倒立した像。赤いライトがともされた小部屋。バラバラの人形が置かれた、合わせ鏡の空間。


【鏡への執着? リアさんも、笑顔を鏡で練習したのか?】

「それもあるとは思うけどね。でも、姉貴は、もっといっぱい鏡見てるよ。昔から髪いじるの好きだったらしいし、子どものころはバレエやってたし、けっこう早くから化粧してみてたし」

「なるほど」


 理仁くんの歩みが少し鈍った。小さくかぶりを振った理仁くんは、歩くペースをもとに戻す。でも、発せられた言葉は口調が鈍い。


「あのさ、海ちゃん……あのさ」

「何ですか?」

「いや……聞いてほしい。それで、否定してほしい」

「否定?」


 理仁くんの手がイヌワシをつかまえた。イヌワシが迷惑そうな顔をする。理仁くんは気に留めず、すがるようにイヌワシを胸に抱えた。


「海ちゃんはさ、物心ついたころにはもう、玄獣珠を預かってたろ? 物理的な意味で、だよ。肌身離さず、玄獣珠、持ってたろ?」

「はい」


 おれは違う、と理仁くんはつぶやいた。


「親父が使う朱い珠の正体、知らなかった。怖いと思ってた。正体知ってからも、怖かったし、触れたくもなかった。身に付けるようになったのは、一年ちょい前だよ。フランスに逃げる直前。姉貴が親父のとこから盗み出して、それから」


「怖いでしょうね。大切なペットの命や、おかあさんの健康を奪っていった。その朱獣珠を自分が身に付けるなんて」


「すげー怖いよ。おれの前代の預かり手はひいばあちゃんでね、親父もさすがに手出しできない相手だった。チカラも強かったらしいし。でも、おれが生まれると、ひいばあちゃんは無力になった。親父は、ずっと狙ってた朱獣珠を手に入れた」


 それはリアさんにとって八歳のころだ。朱獣珠の乱用の最初の犠牲者が、大型犬のキキだったんだろうか。


「朱獣珠はずっと、おとうさんが管理を?」

「うん。でも、おれより姉貴だよな。迷惑親父の被害に遭い続けてたのって、姉貴だ」


 理仁くんは前を向いて歩いている。ぼくに顔を見せたくないんだろう。でも、まわりじゅうにある鏡が、理仁くんを映してしまう。笑みを消した無表情は、涙より怒りに近いように見えた。


「おれかもしれねぇんだよ。黄帝珠が目を覚ました理由。だって、おれ、親父のことうらんでる。物事を実現するチカラがあるおれの声で、何度も言った。親父を怨んでる、って。黄帝珠って、怨みの宝珠だろ? あいつ、マジでおれに感応したんじゃねぇの?」


【違う!】

 考えるより先に、ぼくは否定した。直感的に、本能的に、それは違うと思った。


「きみの声が怨みのチカラを発現した? そんなはずないでしょう!」

「何で即答できる?」


 冷えて硬い口調は、理仁くんには似合わない。彼にそんな苦しみを強いる人を、許せない。


「ぼくたちは出会って四日目だけどね。リヒちゃんの人間性はつかんだつもりです。ぼくはきみの人間性を信じている。汚い野心のままにチカラを開放する黄帝珠とは相容れない。きみがあれを呼び起こしたなんて、理屈が通っていませんよ」


 ぼくの言葉に根拠はない。主張を裏付ける計算式なんか存在しない。ここに存在するのは、理仁くんを信じたいという感情だけだ。


 感情論なんて嫌いだった。曖昧で不確定で面倒で。

 だからどうした。

 感情論で上等じゃないか。


「海ちゃんさ、それ、本気で言ってくれてる?」

「当然です」

「万一、ほんとにおれが怨みの発生源だったら?」

「全力でフォローして帳尻を合わせますよ」


「海ちゃん」

「はい」

「ありがと」


 ちょうどのタイミングで、大きな鏡の扉が行く手に現れた。扉を開けた向こうは、もう迷路ではない。ただの通路だった。


 ぼくは、理仁くんから預かったままの懐中時計を取り出した。理仁くんに渡そうとしたら、押し返された。


「海ちゃんが持ってなよ」

「わかりました」


 懐中時計をポケットの中に収め直す。文字盤が真っ暗になったら、一体、何が起こるんだろう? いや、考えちゃいけない。早くココロの最奥部に到達して、脱出を勝ち取るだけだ。


 次の扉は、すぐそこにあった。

 扉を抜けると、天井の高い、朱い部屋だ。二十五メートルほどの奥行きがあって、向こう側の壁にポツンと扉が付いている。


 イヌワシが理仁くんの手から抜け出した。ふわりと宙に浮いて、向こう側の扉を目指して飛んでいく。けれど、軌道がおかしい。ランダムなジグザグに飛んでいく。


「とりあえず、追い掛けますか」

 進もうとしたら、理仁くんに腕をつかまれた。


「そのへんから先、危険。無防備に突っ込んだら、死ねるよ」

「え?」

「上、見てみ」


 指差された先は天井だ。ぼくは息を呑んだ。固定式のボウガンとでも表現すればいいだろうか。矢を発射させる装置が、中央、右、左の三条に整列して、こっちの端から反対側までびっしりと連なっている。


「あの仕掛けは、一体?」

「赤外線センサーに反応して、矢が発射される仕組みだね」

「物騒な。だから、イヌワシは変な軌道で飛んだんですか」

「うん。赤外線、避けて飛んでた」


 理仁くんは、何もない空間に目を凝らした。力学フィジックスの視界には、赤外線が識別できる。今のぼくには見えない。ただ、赤外線を飛ばす装置が壁のあちこちに埋め込まれているのはわかる。


「家出したとき、でしたっけ? 赤外線を見ながら防犯カメラを無効化したのは?」

「ああ。ここには、その記憶が投影されてるかもね。壁の色、親父の屋敷に似てるし。家出しようって本気の計画を立て始めた当初、おれはビビってた。でも、姉貴はおれの先に立って、華麗にやってのけたんだ。防犯装置をぶっ壊すのも、朱獣珠を盗むのも」


「怪盗ごっこ」

「そう、それ。あんときはひたすらビクビクしてたけど、後になってみりゃ、なかなかの武勇伝だよね。ところでさ、海ちゃんって、自分の体のコントロールがうまいよね? 視界に映る数値に従って最適化した動き、ってやつ」


「ええ、得意です。それくらいできないと、その視界、メリットがないでしょう?」

「ま、ストレス多いよね~。というわけでさ、今から、おれの言うとおりに動いてくれる?」


 唐突な提言に面食らった。何事かと問う前に、指示が飛んでくる。

「かがんで、頭のてっぺんの高さを129.3センチに。誤差は±3センチ以内で」

 とりあえず、理仁くんの指示に従う。理仁くんの目が、ぼくを観察して計測している。


「お、高さピッタリ。右腕だけ挙げて、床との角度は55度に」

「できますよ、これくらい。突然、何なんです?」

「この部屋クリアする方法。あ、立っていいよ」


 ぼくは膝を伸ばして腕を下ろした。


「リヒちゃんがぼくに指示を出して、ここをクリアさせる?」

「正解。普段の海ちゃんなら、赤外線センサーは楽勝でしょ?」

「そうですね」

「たいした密度じゃないから、口頭での指示だけでいけると思う」

「きみは?」

「おれはここで指示出すから。とりあえず、海ちゃん、先に行ってよ」


 ぼくは軽く肩を回して、股関節のストレッチをした。膝と足首の関節を振って、無駄な力を抜く。


「海ちゃん、体、すげぇ柔らかいね」

「柔らかくないと、理想値どおりに動かないんです。ケガも増えるしね」


 気楽に笑ってみせて、赤外線センサーのエリアに足を踏み入れた。頭上には、矢。左右の壁の装置が光を照射しているのがわかるのに、見えない。

 情報不足への不安はある。それを補うのは、理仁くんへの信頼だ。


「基本、左右の壁から壁に糸が張ってある感じ。高低差はあっても、奥行き方面に斜めってるのは少ない。まず、50センチ前方に一本、高さ約120センチのがある。それくぐったら、25センチ先に、高さ40センチ」


 慎重に、250mmずつ進む歩幅。不可視光の直線をくぐり、またぎ、跳び越す。


「そこ、斜めになってる二本、交差してる」

「二本の傾きを二次方程式で言ってください」

「あー、片方がy=0.3xで、もう片方がy=-1.1x」

「それの交点が、ぼくの右の人差し指から30センチ先?」

「ジャスト30センチ先」


 失敗できない。汗の量がすごい。

 即席の座標で確認し合う。向かって左手の壁と床の交点を原点として、センチメートル刻みの目盛がある、という想定。奥行きは、ぼくの目がある平面を0として。


「点(597, 136, 45)に三本集まってる。で、下にも一本あって、くぐるの厳しいかも。その高さ、助走なしで跳べる?」

「余裕です」


 見えなくても、見えている。力を貸してくれる人がいれば、前に進める。


 たった二十五メートルが長かった。凄まじい量の汗をかいて、ぼくは扉の前に至る。理仁くんが、大きな音をたてて手を叩いた。


「お疲れ~! 完璧だったじゃん!」

「リヒちゃんのおかげですよ! 早く、きみもこっちへ!」


 理仁くんが両腕を広げて、肩をすくめた。力の抜けた笑い方をしている。


「おれは無理だよ。見えても、海ちゃんみたいに動けねえ。この先は海ちゃんひとりで行ってよ。いや、ワッシーがいるか。どっちにしても、姉貴によろしく」


 緊張していた両膝が、カクンと折れてしまった。


「来ないんですか?」

「行けないってば。運動能力的にも厳しいし、それ以上にさ、海ちゃんには姉貴の声が聞こえないんだよね?」


「リアさんの声?」

「来ないでとか、見ないでとか、そう言ってる姉貴の声。おれには最初っから聞こえてたんだけど、ここに来て、さらに大きく聞こえるようになった。だから、おれは行けない」


「でも、そんな……」

「行きたいよ。だけど、行けねーんだよ」


 理仁くんは大きく三歩、下がった。背中が扉にくっついた。理仁くんは背中を扉に預けて、座り込んだ。


「ぼくは……ぼくが、ひとりで?」

 何ができるというんだろう?


「その正直な顔してれば、だいじょぶだって。姉貴の母性本能、くすぐってやんなよ。海ちゃん、姉貴のこと助けたいでしょ?」

「助けたいですよ。助けてもらって、守ってもらって。このままじゃいられない」


 理仁くんが満足そうに笑った。


「持ってっていいよ、姉貴のこと。てか、受け入れてやってください。おれにはできないことだから」


 イヌワシがぼくの肩を叩いた。へたり込んでいたぼくは、立ち上がる。時間がない。


「やるだけのことは、やってみます。だけど……」

 発言を、途中で奪われた。


「姉貴は強いよ。その強さは、おれを守るためのものだ。だから、姉貴は、おれの前で弱くなれない。強くなきゃ、姉貴は姉貴でいられないから。でも、海ちゃんは、強い姉貴も弱い姉貴も知ってやれる。知って、受け入れてほしい。これ、おれからのお願い」


 答えるためには勇気が必要だった。

「わかりました」

 そう答える以外、何ができるだろう?


 理仁くんのお願いの重みを、ぼくはきっと、すべては受け止めていない。受け止める資格があるのか、自信があるとは言えない。


【でも、ぼくが行かなければならない。ぼくは、行きたい】


 理仁くんに背を向けて、扉に手を掛けた。何か言葉をくれるんじゃないかと思って、少し待つ。理仁くんは黙っている。


 ぼくはドアノブを回して扉を押した。暗い階段が伸びる先に、漆黒の扉がある。イヌワシがふわりと飛んで、階段を下り始めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る